第1期 事件発生から「救う会」結成まで
この第一期は事件発生直後の嵐のような日々であり、これまであまりオープンになっていなかった生々しい事実経過、特に警察やマスコミの問題点が既に顕著になっており、「坂本事件」を方向づけてしまった重要な出来事はたくさんあります。
(1) 坂本弁護士一家事件は、1989年11月3日から4日未明にかけて発生した。しかし、11月4日が土曜日、5日が日曜日だったこともあって、横浜法律事務所の弁護士は、一家の行方不明を全く知らなかった。
11月6日、坂本弁護士の母さちよさんから坂本弁護士がどこにいるか問い合わせる電話が横浜法律事務所に入り、また、「坂本さんは?」と聞く弁護士もいたが、坂本弁護士が連休前風邪気味だったこともあって、いつの間にか坂本弁護士は風邪だということになってしまい、11月6日に特に危機感を持った弁護士はいなかった。この
日の夜、心配したさちよさんが、夫の良雄さんに頼んで、坂本弁護士宅に行ってもらい、良雄さんは、朝まで一晩泊まって一家の帰りを待ったが、結局坂本一家は帰ってこなかった。しかし、このことも横浜法律事務所の弁護士達は知らなかった。
(2)坂本弁護士は、11月7日になっても事務所に出勤してこなかった。同僚達はさすがに心配し、武井弁護士が小島弁護士に「坂本は今日の国労の地労委に来ることになっているから、来るかどうか見てくるよ。」と言って地方労働委員会の審問に出席していった。昼前、武井弁護士が事務所に帰ってきて、ワープロを打っていた小島弁護士に「おい、坂本来なかったぞ。」と伝えた。「えっ」と言って武井弁護士を見上げた小島弁護士に、武井弁護士は言った。「あいつオウムやってたからな。」。
それを聞いた瞬間、小島弁護士も何とも言えず不安になり、「今日の午後の裁判が延期になったから、俺が行って見てくるよ。」と言って、坂本宅に向かった。坂本宅のアパートで、階下の奥さんに聞くと、「坂本さん達は11月3日夜まではいらしたけれど、11月4日からいませんよ。昨日もお父さんが心配して泊まったけれど、帰ってこないので、朝会社に行ったようですよ。」とのこと。事ここに至って、ただごとではないということになり、夜7時半過ぎにさちよさんに合い鍵を持ってきてもらい、同僚達が坂本宅に入った。坂本宅に入ったのは、さちよさん、坂本弁護士の妹の弥生さん、同僚の星山、武井、小島弁護士。また、事務員の市川、青柳の両名は、外で不審な人物がいないか見張り役をやり、後に坂本宅に入った。
(3)同僚達は緊張しながら坂本宅に入った。しかし、室内は、特に乱闘の後と言えるようなものはなく、ただ、居間の敷物が横に強い力で引かれてめくれたようになっており、敷物を止めてあったピンがくの字に曲がっている程度だった。
この晩は、さちよさんや同僚達は、寝室のプルシャや、ドレッサーがふすまに当たった後には気づかなかった。しかし、一家がどこかに出かけるならば当然もって出るはずと思われるものが残っているなど、どう見ても自発的な失踪ではないこと、日頃良く知っている坂本の性格からして家出をするとは考えられないことから、すぐに警察に届け出ようということになり、同日夜、磯子署に届け出た。
同僚達は、その届け出の時から、坂本弁護士がオウム真理教の事件をやっていたこと、直前にオウム真理教から坂本弁護士を誹謗するビラがまかれるなどしており、オウム真理教が一家を連れ去った可能性が高いことを応対した当直の刑事に訴えた。このように、坂本弁護士一家事件は、一家の行方不明を知った直後から、オウムの影との戦いだった。
(4)坂本弁護士一家事件は、11月15日に公開捜査になった。横浜法律事務所も、警察の記者会見の直後、記者会見を開き、この事件が弁護士業務に関連して家族まで巻き添えにして引き起こされた拉致事件としか考えられないこと、坂本弁護士は事件前に新興宗教団体の事件を担当していたことを訴えた。公開捜査に移行し、この事件がマスコミなどを通じて広く知られた直後から、事務所には、坂本弁護士の同期の弁護士、あるいは坂本弁護士を知る人たちから問い合わせ、協力申し出が殺到した。
そして、11月17日には、坂本弁護士が担当していた事件に関係する労働組合・市民などが中心となって「坂本弁護士と家族をさがす会」が結成された。
(5)一方、弁護士の方では、11月21日、横浜弁護士会講堂において、「坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会」が結成された。
結成集会には、横浜の弁護士と坂本と同期の弁護士を中心に約150人が参加。電話・ファックスも75名から寄せられた。横浜合同法律事務所の影山秀人弁護士を事務局長とし、そのほか、代表世話人や事務局体制を決め、捜査当局・日弁連に対する要請決議などをあげ、声明を採択した。
こうして、この日から一家の遺体発見まで、長い長い5年10ヶ月にわたる救う会の救出活動が始まったのである。
2 第一期の活動
(1) この時期の特徴
この期間は、「1日遅れれば一家の命が危ない」という緊張感・危機感に満ちた嵐のような日々の中で、1日、1週間単位で一家の救出をめざす活動に取り組んだ。「今後の活動方針」などは考えもせず、「一家救出のために今日できること、明日できること」に集中して取り組んだ。
特に、警察が一家の行方不明について「家出」の可能性をかなりの程度考えているらしいことが我々の危機感を非常に高めた。11月15日の公開捜査に伴う記者会見で、県警広報担当が「家出と拉致の可能性は5分5分」と語ったことや、記者会見後に、記者達に対して「あんたら横浜法律事務所の弁護士のいうことを聞いていると恥をかくぞ。」と話したことを複数のマスコミ関係者から聞いた。
実際、警察のオウムに対する捜査は極めて消極的で、坂本宅からプルシャが発見された後も、オウムに対する捜索・差押を真剣に検討した形跡すらなかった(実際に捜索差押礼状を出すだけの要件を満たしているかは、意見が分かれる余地はあるが、一家の命を救うことを最優先に考えるならば、少なくとも捜索差押について真剣に検討されてしかるべきであったのに、坂本とオウムの厳しい対立について、あるいはオウム真理教という宗教団体の実体について、ほとんど何の捜査もしていなかった)。
そのため、この時期の救う会の活動は、とにかく警察に対して坂本事件が弁護士業務に関連した拉致事件であることを認識させて、オウムに対して集中した捜査を行わせることを目標に、取りうるあらゆる手だてを追求した。そしてそのためにも、警察に対してどうプレッシャーをかけていくかに知恵を絞った。 救う会の結成、各単位会・日弁連への働きかけ、国会議員への要請、マスコミ対策など、いずれも警察がオウムに対する捜査を尽くし、適切な強制捜査権限も行使しつつ一家を救い出すことを実現するために取り組まれたものである。その中で「明日、富士宮署がオウムに強制捜査に入り、坂本一家を救出するらしい。そのために今富士宮署に一個中隊が待機している。」などというマスコミ情報(結果的にはガセだったが)に一喜一憂した日々であった。 この時期は、救う会の事務局会議も週に2回以上(11月21日から12月26日までの約1ヶ月の間に11回)、午後7時から11時過ぎまで開き、1回平均約16名の弁護士が参加した。
(2)警察への働きかけ
警察が必ずしも「拉致事件」として捉えていない状況の中で、警察に対するプレッシャーをかけるために効果のありそうなことは考えつく限りのことを行った。その主なものは次のとおりである。
- 警察に対する広域捜査指定の要請決議
- 国会議員などへの働きかけ 12月1日には弁護士出身の国会議員45名全員に要請。12月8日には、自民党から共産党まで超党派19名の国会議員が、捜査強化の要請書を警察庁に提出し、警察庁長官に面会して要請を行ってくれた。
(3)弁護士会、日弁連への働きかけ
警察の捜査を強化させるためには、一任意団体である「救う会」の動きだけではなく、日弁連、弁護士会などが積極的に警察に対して要請を行っていくことが絶対に必要であった。そのため、救う会は、結成当初から日弁連・弁護士会への働きかけを重視した。
日弁連や各弁護士会は、横浜弁護士会が11月21日に会長声明を発したことを受け、続々と会長声明、アピールなどを発表した。いずれも「この事件がもしも弁護士業務に対するものならば」という仮定的な表現となってはいるが、弁護士会が続々と声明を発表したことが、警察に対するプレッシャーという点で大きな力となった。また、日弁連は、11月22日に警察庁に捜査の拡充を申し入れるとともに、25日には「坂本弁護士に関する事実調査についての協議会」を設置した。個別事件で公開後10日に日弁連の協議会が発足したということは大きな成果であった。
(4)マスコミへの働きかけ
事件直後は、各地の弁護士・市民は、マスコミ報道から事件の内容を把握するほかない。その意味で、マスコミに正確な報道を行わせることは、特にこの時期、極めて重要な意味を持っていた。横浜法律事務所は、公開捜査後、毎日記者会見を持って事件の中身を伝え、あるいは不正確な情報を行った新聞社に訂正・謝罪記事を載せさせるなどした。救う会も記者会見を行い、緊急アピールを発表するなどして、マスコミにこの事件を大きくかつ正確に報道させるために様々な取り組みを行った。
特にオウムの麻原らが西ドイツ(当時)のボンで記者会見を行い、その後帰国してから連日テレビに出る状況の下で、救う会のメンバーがテレビに出演し、オウムの言い分に反論する活動を行った。これは、オウム側が「坂本事件は、共産党系の横浜法律事務所が、オウムをつぶすために、坂本一家の行方不明をオウムのせいだと宣伝している謀略事件である。」とキャンペーンを張っている状況の下で、「横浜法律事務所とオウムの対立」という構図に巻き込まれないようにするための方針でもあった。このテレビへの出演については、一部の弁護士からは「『オウム対弁護士』という構図に巻き込まれているのではないか。」という批判もあったが、もしもオウムのテレビ出演とキャンペーンを単に黙殺しただけであったら、むしろオウムがテレビを中心とするマスコミを利用することを放置する結果となったのではないかと思われる。但し、オウムの実体について当時の救う会のメンバーは必ずしも正確な情報を十分持っていたわけではなかったので、オウムの主張に対する反論について全て十分だったというわけではない。また、オウムの疑惑を深めるような情報・証拠がマスコミに出ている間も蓄積されるというような状況ではなかったので、ある程度オウムの主張に反論すると、その後はそれ以上の反論をすることができなくなった。そのため、12月上旬にテレビ出演した後は、特にワイドショーを中心とするテレビ出演は、救う会のメンバーであっても行わないようにした。また、視聴率至上主義の、ワイドショーを中心とするマスコミの問題点が浮き彫りにされたのも大きな特徴であった。
(5)救う会の組織作り
坂本一家を一刻も早く救出するためには、しっかりした組織と財政的な裏付けがどうしても必要である。また、警察、弁護士会、マスコミに対して大きな影響力を持つためには、救う会の会員をできるだけ多く募ることが必要である。そのため、上に述べたような様々な活動に取り組みながら、同時に救う会の組織作りに大きな力を裂いた。具体的には、多くの会員に救う会への加盟とカンパを呼びかけることと、全国の各単位会ごとに救う会の連絡担当責任者を置くことであった。その結果、救う会発足後約1ヶ月を経過した12月26日の段階で、救う会の会員は2500人を超えるという成果を勝ち取った。また、この時点でカンパも2300万円を超える額が集まった。
(6)市民への宣伝
この時期、市民に対して坂本事件の真実を知らせる活動も、警察へのプレッシャーをの関係で位置づけて取り組んだ。但し、1990年以降の取り組みに比較すると、警察・弁護士会・マスコミなどへの働きかけに比べてその相対的位置づけは若干低かった。しかしその中でも12月15日にはビラを15万枚作成して全国一斉ビラ撒きを行ったり、港南区・磯子区に新聞折り込みのビラを11万7000枚配布したりするなどの大規模な活動に
取り組んだ。
(7)オウムへのプレッシャー
オウムそのものをターゲットとする活動については、「疑惑がある」ということを指摘する以上の活動には取り組めなかった。これについてはやむを得ない面があると同時に、もっと何かできなかったかについて十分議論する必要があろう。
しかしその中でも、11月14日のよるオウムの杉並同乗までで都子さんを見たという男性に会って調書を取ったり、匿名情報をもとに12月23日にオウム所有の伊東の土地に調査に行ったり、あるいはさがす会のオウムの富士宮本部等周辺での立て看板設置に協力したりする活動に取り組んだ。