第5期(94年3月〜95年2月)
1 はじめに
この時期は、全国キャラバンを中心にして、大きな取り組みが連続した時期である。それだけ、風化の危惧が現実化し、より大きなイベントや運動を組まなければ、社会にインパクトを与えられない状況であったともいえる。
また、94年11月で事件後丸5年を経過してしまうなかで、「5年でひとくぎり」とし、運動を収束させようとする動きが台頭することを危惧し、それを必死に乗りこえようとした時期でもあった。
2 この時期の活動
この時期の主な取り組みは次の通りである。
- 94年2月9日(於)東京芸術劇場(2,000人) 日本フィル・坂本救出コンサート
- 4月7〜8日(於)東京駅南口ドーム 日弁連・坂本救出パネル展
- 4月8日・全国統一行動
- 4月14日・日弁連・坂本宅現地調査
- 6月25日・第1回キャラバン全国会議
- 9月3日・第2回キャラバン全国会議 (第10回「救う会」全国代表者会議)
- 9月27日〜10月8日 全国キャラバン
- 10月8日キャラバン最終日集会(於)日比谷公会堂(2,000人)
- 11月8日(於)関内ホール(1,300人)
3 全国キャラバンについて
(1) 「風化防止のため、全国キャラバンを実施したら」との声は、事務局内で比較的早い時期からあった。 その頃の全国キャラバンのイメージは、車にのぼり旗をたてて、全国をまわり歩く、芝居のどさ回りのようなものであったが、それにしても時間・労力・金がかかりすぎるため、現実にやろうということにはならなかった。
(2) しかし、93年6月に都議会請願を通し、請願・陳情運動に1定の見通しがついた同年7月頃の事務局会議で、全国キャラバンは現実的な方針として再び浮上した。何とか5年経過する前に救出するために、より大きな運動をやるとすれば「これしかない」という結論ではあったが、実現までの膨大な課題や作業を考え、沈うつな雰囲気もただよった。
ともあれ、受け入れ先の各地域がやる気になってくれなければ実現不可能なため、93年夏には、キャラバンの実施可能性について、各地にアンケートをとった。その結果は、おおむね受け入れ可能とのことで、93年9月18日、京都で行われた第8回全国代表者会議で、正式に活動方針としてこれを提起し、94年春の実施を決定した。
(3) しかしながら、いざ現実に準備に入ってみると、ルートの決定や企画・立案、宿泊や交通手段の確保など、現地とも連携しながら、やるべきことがあまりに多く、とても94年春に実施できる状況ではなかった。
しかも、各地の企画は、極力、地元弁護士会の主催として実施したく、そのためには会内合意の形成や理事者の交替時期などを考える必要があった。

そこで94年3月13日、東京鉄道会館で開かれた第9回全国代表者会議で、全国キャラバンの実施時期は、94年9月26日〜10月8日と確定された。この日、コース案も示されたが、西コースのスタートが長崎であったり、名古屋から甲府をへるコースはなかったりで、その後に変更されたことも多い。
また、当初はレンタカーで全国をまわる予定であったが、94年4月、全く偶然にもモアド・イワイの岩井さんが、SLカーを救出運動で活用してもらいたいとの申し入れをしてくれたのをきっかけに、全国キャラバンは3台のSLカーで全国をかけめぐることとなった。
(4) 全国キャラバンの準備は、東コース・瀧澤、西コース・南雲がそれぞれ責任者となり、コース予定地ごとに事務局の担当者を決めて現地責任者と連絡をとり、具体的な作業を進めた。2人のコース責任者の負担は想像を絶するものであった。詳細かつ膨大なな行程表はもとより、各地の集会ビラまきの段取りからご両親、横浜事務所、救う会各担当者の合流、休憩、食事、宿泊、駐車場の心配まで、この準備期間は本来の弁護士の仕事はほとんどできなかった。
94年6月25日と9月3日に全国キャラバン担当者会議を開き、こまかい打合せをしたりした。打合せ事項は極めて多数にのぼったが、しだいに詳細なチェックシートが完成していった。
(5) キャラバン期間中、本部は「救う会」事務局のある横浜合同法律事務所に置かれた。
ここに、毎日朝8時30分頃から夜10時30分頃まで、影山と小島がつめて、全国をまわる東西2つ(途中から甲府ルートが加わって3つになった)のキャラバン隊や現地担当者と連絡をとりあった。毎日の活動状況は、その日のうちに「キャラバン速報」にして全国に流した。キャラバン期間中に台風が日本列島に上陸し、かなりの予定変更をしいられた。
(6) この全国キャラバンは、「救う会」が主催し、日弁連が協賛したが、各地の集会や街頭宣伝は全て地元弁護士会が主催してくれた。この全国キャラバンの集計結果は次の通りである。
- 11日間で31都道府県40都市を巡り、22の集会と36の街頭宣伝を繰り広げた。
- 総走行距離 約4,830q(東ルート約2,000q、西ルート約2,200q、甲府ルート約630q)
- 参加者数 約11,000名
- 集まった署名 約6,800人分
- 配付したビラ 約20万枚
- かかった費用 約860万円
- キャラバン以降に寄せられた情報数 28件
<キャラバン スナップ>
横浜パレード
群馬 女子高生によるセーラームーン
ミニキャラバンカー 龍彦号
水戸 女子高生によるコーラス
水戸 キャラバン納豆配布
町田キャラバンコンサート
東京日比谷集会 トークショー
4 キャラバン後
全国キャラバンは各地で大成功をおさめた。この時期にこの取り組みをもしもやらなかったら、坂本事件は急速に風化の道をたどったかもしれない。その意味ではやってよかったし、各地で多くの感動があったし、それが新たな運動の芽にもなっていった。 しかし、キャラバンの成功にもかかわらず、事件は無情にも丸5年を経過し、6年目に突入していった。
このキャラバン後の1時期は、「救う会」事務局の疲弊が極に達した時期であった。キャラバン後、次に何をやるかが大きな課題となった。
事務局会議で検討されたのは、キャラバンで育った各地の運動の芽を大切にしつつ、請願・陳情をより全国的なものとすることと、全国的にパネル展を実施することなどであった。
この時期の事務局会議の平均参加人数は、キャラバン準備などもあり、8.8人と比較的多数で推移した。