第6期(95年3月〜)
1 はじめに
この時期は、事件当初より疑惑のあったオウム真理教に強制捜査が入り、坂本一家救出の期待が一旦は高まったものの、その後失意をいだかせる報道に翻弄され、結果的に95年9月6日と10日の無念の遺体発見となる時期である。
2 オウム真理教を真正面にすえて
オウム真理教が犯罪行為(薬物や武器製作)にかかわっているとの情報は94年後半から多数入手された。
95年元旦の読売新聞は一面トップで、上九一色村でのサリン副成物の検出を報じた。
これに先立つ94年12月末には、警察当局はオウム真理教への強制捜査を決断していた。この強制捜査こそは、坂本一家救出につながる最後のたのみのつなになるとの思いは、「救う会」事務局に共通のものであった。
「救う会」は、これまでの運動づくりの中で、オウム真理教を犯人と決めつけることはしなかったが、同教をタブーともしないとの方針をとってきた。しかし、同教を真正面にすえた運動は、これまで必ずしもしてこなかった。それは広汎な層を結集する運動をつくるため、確たる証拠のない中では止むを得ざる方針であった。
しかし、95年3月13日、横浜で開かれた第11回全国代表者会議では、オウム真理教に関するかなり詳細な情報の報告を事実調査班の武井事務局長がした。これにより、情勢が極めて緊迫し、危険な状態でもあることが参加者の共通の認識となった。それでも、そのわずか1週間後の3月20日に、地下鉄サリン事件がおこるとは、当時誰も予想しなかった。オウム真理教に対する強制捜査は3月22日から一斉に開始された。
「救う会」は、同年4月4日の龍彦ちゃんの小学校入学の時期及び5月16日の麻原こと松本智津夫の逮捕に合わせて声明を発表し、この中で、オウム真理教が坂本事件の疑惑解明に非協力的であることを強く批判した。
また、同年6月に発行した「救う会ニュース5号」では、会として初めて「坂本弁護士とオウム真理教」を特集し、事件直後の青山弁護士と横浜法律事務所との詳細なやりとりなどを公表した。「救う会」は、この時期に来て、オウム真理教を正に真正面にすえた活動を展開し、同教の疑惑解明こそが事件解決につながると考えていた。
3 龍彦ちゃんの鉛筆
95年4月7日、「救う会」は恒例の全国統一行動を実施した。この前後に実施したものも含めると、41都府県73カ所に及ぶ大規模なものとなった。その際、千葉県弁護士会が考案した「龍彦ちゃんも1年生になりました」との文字入りの鉛筆が話題を呼んだ。「救う会」も4,000セット(2本で1セット)を注文し、全国に配布した。
4 マスコミ報道をめぐって
一連のオウム真理教に対する強制捜査のなかで、「複数の教団関係者が坂本弁護士一家の拉致事件について言及を始めている」との報道が一部のマスコミでなされた(95年4月19日付読売、5月19日付朝日、5月22日〜25日付読売、5月26日付神奈川等)。これらの報道について、神奈川県警捜査本部は公式には一切コメントをしなかった。
しかし、一方において、この頃、同県警幹部が「坂本事件に7年目の夏はない」と発言し、あるいはこの年の夏頃までの解決をにおわすなど、捜査本部の事件解決に向けた決意と自信に並々ならぬものを感じた。
「救う会」は、これらの状況が、5年半に及ぶ執拗かつ地道な運動の成果であることを確信するとともに、この年の6〜7月頃が坂本事件解決のための最大の山場になるものと推測し、急遽6月27日に再度の全国統一行動を呼びかけた。そして、この時の情勢に適した新たな緊急ビラ「今こそ」を19万枚作成し、全国に送付した。
ところが、統一行動日の直前である6月23日より多数のマスコミが一斉に、オウム真理教の幹部、元幹部の「供述」、「上申書」などの内容について報道を始めた。その内容は、各報道によりかなりのくい違いをみせたが、いずれも一家は既に殺害されているというショッキングなものであった。さすがに、この報道により、各地の救出運動はかなりの混乱と迷いが生じた。「救う会」や日弁連に、統一行動は予定通りやるのか、やめた方がよいのではないかとの問い合わせが殺到した。実際に、福井弁護士会は行動を中止し、京都は延期になった。
それでも統一行動は最終的に46都道府県93カ所で取り組まれ、過去最大のものとなった。
この段階で、捜査当局の公式発表はなく、いずれの報道もリーク合戦の末の根拠薄弱な、いわゆる「とばし記事」的なものであり、それゆえ報道内容も一定せずにかなりのくい違いをみせていたので、これで「もうダメだ」とはとうてい判断できる状況ではなかった。私たちは最後の最後まで一家の生存を信じて運動をやり抜くことが必要であった。
そこで、こうした運動の混乱を収束させるため、急遽7月5日付で「この間の坂本弁護士一家拉致事件を巡る報道について」と題する文書を全国に送付した。また、取材合戦もエスカレートしたため、悪質なものについては厳重に抗議し、何回か取材拒否の措置をとった。
5 警察との関係
6月27日の全国統一行動の際には、警察庁、警視庁、神奈川県警本部にそれぞれ要請を行った。また、7月31日には、磯子署の捜査本部に要請をした。さらに8月2日には、警察庁に10万人分の署名を提出して要請をした。いずれも、それまでの報道の真偽を確かめようとするものであったが、公式な説明はなされなかった。
絶望通告
そうしたなか、8月10日、神奈川県警本部の高橋刑事部長より突然連絡を受け、飯田・滝本両弁護士が面会したところ、坂本一家の生存の見通しは極めて暗いとのことであった。同じ日、それぞれの両親にも同様の説明があった。
この頃より「救う会」は両親をマスコミからガードするようになった。
なお、95年に入り、とりわけ3月22日のオウム真理教に対する強制捜査開始の頃より、「救う会」事務局の何人かのメンバーや事務所には、警察による警備体制がしかれた。
3人の遺体発見という悲しい結末が明らかになった後の11月9日、磯子署にある捜査本部に武井、小島、影山がおもむき、6年間にわたる捜査に対しお礼を申し述べた。
翌10日付で捜査本部は解散となった。
6 遺体捜索への立会い
神奈川県警を中心とする合同捜査本部は、9月6日、富山・新潟・長野の3カ所を一斉に捜索に入った。
「救う会」は、この捜索現場に立会いのためのメンバーを派遣し、また、本部と横浜法律事務所で待機態勢をとった。つらく、長い1日となった9月6日の夕方、堤さん、都子さんの遺体が発見された。
また、困難な捜索の末、9月10日にはついに龍彦ちゃんの遺体も発見された。
それぞれの日に、万感の思いをこめて、声明を発表した。ほどなく3人は横浜に無言の帰還をし、約6年ぶりに一家が一緒になった。
この間、しばらく両親はマスコミからの避難体制をとった。
7 その後
(1) 3人の遺体発見の直後である9月15日、横浜東急ホテルで第12回全国代表者会議が開かれた。残された活動として何をやるべきかは、様々な意見が出されたが、少なくとも当面は「救う会」を存続することと、坂本一家のアパートを当面、現場保存することなどが決められた。
(2) 10月22日には、日弁連と横浜弁護士会の合同葬がしめやかに執り行なわれた。
会場となった横浜アリーナには約2万6000万人の市民が弔問におとずれ、入りきれずに帰られた方も多数に及んだ。 なお、親族・友人らによる密葬は9月24日に執り行われ、一家はだびにふされた。
(3) 10月27日〜29日には、約30名で、富山・新潟・長野の遺体発見現場に追悼の旅を行った。さがす会の約30名もほぼ同一の行動をとった。
(4) 麻原こと松本智津夫らが坂本一家殺害事件で起訴された10月13日、「救う会」は真相究明などを求めた声明を発表した。
(5) 10月20日付で、6年間の救出運動を支えていただいたお礼の気持ちと生存救出のかなわなかった無念さをこめ、「救う会ニュース第6号」を発行し、全国に送付した。
(6) 12月9日、東京で開かれた第13回全国代表者会議において、弁護士業務妨害に対する組織的対処の確立を求める要望を日弁連に送付する決議がなされた。
(7) 12月12日、坂本事件の損害賠償請求訴訟が提訴された。
(8) 96年1月16日、オウム真理教に対する破防法適用に反対する声明を発表した。