救出活動の意義と課題
1、なぜ、これほどの運動ができたのか
「救う会」の救出運動は、中心となる事務局メンバーが疲弊した時期も含めて、基本的には年数がたつごとに、解決に至るまで、常に全国に広がり続けた運動であったと思う。とりわけ、最終盤では、坂本弁護士一家を直接知らない全国の市民や弁護士が、我がことのように救出運動に参加し、全体として「この事件を未解決にしてはならない」との大きな世論を形成した。地道な街頭署名や毎年の集会など単発でなく、継続的な取りくみも数多く見られた。
ところで、本件被告人らの供述によると、坂本弁護士一家は、1989年11月4日未明、既にアパート室内において殺害され、その後遺体が搬出されたという。これが真実であれば、私たちが一家の失踪を知った時点で、そもそも救出は不可能であったことになり、これだけ大きな救出運動を作る意味があったのかとの疑問がありえよう。
私たちは出発地点において、方針を誤り、無意味な運動に力をそそいでしまったと見るべきなのかどうか、真剣な考察が必要である。
この点については、当時、私たちの得ていた情報やアパート室内の状況だけでも、一家の殺害も念頭に入れるべきであったか否かはともかくとしても、殺害されていると断定することは全く不可能であった。そのときそのときの状況において、生存救出の可能性がほんのわずかでもある限り、可能性の実現に向けて最大限の努力をし、最大限の救出運動の構築をめざすことは当然のことであり、私たちの方針は誤っていなかったと断言できる。
生存救出は当初から不能だったとしても、私たちの運動継続によって、全く進展の見えない坂本事件が風化し忘れ去られていくのを防止し、警察が迷宮入りに逃げ込むのを妨げ、もって今日の事件解決には結
付いたものであることは間違いない。一家3人を殺害した犯人を逮捕し、裁判にかけ、オウム真理教を崩壊させたこと、そして、救出こそできなかったが、せめて3人の骨を拾ってあげられたこと、3人一緒の墓に入れてあげられたことは、他でもなく、5年10ヶ月の間諦めずに続けてきたことの最大の成果であると確信している。
坂本弁護士一家を直接知らない多くの市民・弁護士が救出運動にかかわり、これだけ大きな運動を構築できたのはなぜであろうか?
まず、幼児も含めて弁護士の一家3人が忽然と姿を消すという事件そのものの特異性や不気味さから、世間やマスコミが大変に注目し、極めて大量の報道がなされたことから、全国の多くの人々がこの事件の内容を知り、少なからぬ関心をいだいてくれことは大きい。
また、夫婦それぞれの両親が、全国を回って、一家の救出を訴えた姿は、大変大きな感動と共感を呼び、運動を大きくする原動力となった。
さらに、同業者に加えられた業務妨害ということで運動の中心を弁護士がにない、弁護士の社会的影響力をフルに活用したことや、全国の弁護士会の組織力の高さが運動を持続させ、強力なものとした。
また、弁護士が運動を広げていく過程で、本件の本質を弁護士業務に向けられた業務妨害ととらえ、これは、人権擁護という弁護士業務の特質にかんがみて民主主義に対する挑戦であるという訴えが、次第に浸透したことも、運動を持続させる力となった。
ここでは、従前とかく不十分であった弁護士の業務に対する市民的理解を得るという作業が必要となり、その努力を傾けたことも、重要なことであったと思う。
加えて、運動の作り方自体にもたくさんの創意工夫があった。集会づくりや署名提出行動などでは、マスコミが取り上げやすいようなパフォーマンスを工夫した(はじめての取り組みを強調するなど)。署名、請願・陳情など、一人一人がほんの少しのかかわりで、救出運動に参加したいとの気持ちを実現できるような運動の提起を常に考えた。全国でこまめに集会を作ってもらい、各地で直接訴える機会を与えてもらったり、現地調査をくりかえして、直接現場を見てもらうなどの取り組みに力を入れた。
毎月定日の街頭署名行動や定期的な全国統一行動など、地道で経済的な取り組みにも力を抜かなかった。
一方で、タクシーステッカー・フランスパン・飛行船・鉛筆・牛乳パック・坂本展・テレカ・オレカ・切手帳など、斬新なアイデアを生かした宣伝行動をくりひろげた。
このほか、「救う会」の運動をになった事務局のメンバーや各地の連絡責任者の多くが、坂本弁護士と同期であって、疲弊した時期はあるものの、最後まであきらめずに熱心に活動したことが、運動の屋台骨を支えた。
全国代表者会議や事務局会議で決定した、その時々の方針提議もおおむね適切であった。 「救う会」の連絡事務所となった横浜合同法律事務所や、当時者事務所として全国に訴えに出かけた横浜法律事務所の存在も、この運動には不可欠であった。
また、「救う会」の専従事務局や多くの法律事務所・弁護士会の事務員の方々にも支えられた運動であった。
2、救出運動の意義
坂本弁護士一家の救出は、結果的には当初から不可能であった。したがって、救出という目的は、果たしえない運動であった。しかしながら、それにもかかわらず私たちの6年間にわたる運動は、決して無意味なものではなかったと考える。 まず、救出運動がなされているということ、しかもそれが事件発覚後極めて早い時期に形成され、なおかつ年々広がり、強大な運動になっていったということが、警察当局を真剣に事件解決にむかわせ、オウム真理教の犯人グループにプレッシャーをかけ続け、結果的に事件解決に至ったといえると思う。
救出運動によって、坂本事件は全国民が犯人グループの動きを監視する体制がしかれたに等しく、実行犯たちの心理的プレッシャーは相当なものではなかったかと推測する。
オウム真理教は、オウム被害対策弁護団の中心メンバーであった滝本太郎弁護士に対し数度にわたり殺害をこころみているが、これが結果的に失敗に終り、第二の坂本事件にならずにすんだのは、坂本救出運動の広がりと無関係ではないと思う。
また、本件は、弁護士業務に向けられた卑劣な妨害行為であり、これは民主主義に対する挑戦であるとの訴えの過程で、弁護士業務に対する一定の理解を市民に求めることができ、弁護士と市民との距離をちぢめた運動でもあった。各地の弁護士会の中には、初めて市民集会を主催したり、初めて街頭宣伝行動をやっところもあるときく。 これは、弁護士側にとっても貴重な経験であり、弁護士が自ら業務につき市民の理解を得ることの大切さを学んだ運動であった。多くの地域で新たな市民との接点が生まれており、坂本救出運動の遺産としてこれを今後に生かしていただければと思う。
3、今後の課題
坂本事件に関する刑事事件の公判は今ようやく始まったばかりである。犯行の動機なども含め、多くの真相がこの公判の中で明らにされなければならない。このような事件が二度とおこらなようにするためにも、なぜ坂本事件がおこってしまったのかを一点のくもりもなく明らかにしなければならない。
また、弁護士に対する業務妨害事件の再発を防ぎ、事件発生時には迅速適切に対処しうるような体制や組織を弁護士会は早急に確立していく必要がある。仮に坂本事件のような事件が再び起こったとしたら、私たちは同じような救出運動を再度つくりあげることができるだろうか。あるいは、これほどの運動をつくらなければ、業務妨害に対処しえないのであろうか。そうしたことを考えると、弁護士は業務妨害に対する組織的な対応を求められていることは疑問の余地がない。
このほか、坂本事件を通じて、警察の捜査のあり方、捜査の適正手続問題、マスコミ報道のあり方、宗教活動と人権との関係、など多くの問題が問われた。
坂本弁護士一家の死を無にしないためにも、私たちは、これらの問題を今後も考え続けなければならない。
4 御礼
5年10ヶ月の長きにわたり、私たちの救出活動に暖かいご理解とご支援をいただきました全国の皆様には、改めて厚く御礼申し上げます。上記の「成果」は一人救う会や弁護士のものではなく、全国の市民の皆様の絶大なご協力があってこそであることは、疑う余地がありません。
坂本さんご一家が尊い命を賭して遺してくれたもの、それは様々な社会的問題点を浮き彫りにしたということのみならず、弁護士と市民との垣根を取り去り、得難いたくさんの縁を結んでくれたということです。
私たちは、これからもこの坂本さんの遺産を、ずっと大切にしていきたいと思っています。