事件から2年が過ぎて
30代男性
1995年、平成7年3月20日、私の妹は地下鉄サリン事件の被害に遭いました。
2年程経ちますが現在も入院中です。
事件当日、妹は心肺停止で見つかりレスキュ−隊の方に蘇生させていただいたようです。しかし、レスキュ−隊の方も倒れてしまい、詳しい状況はわかりません。
事件の前日、3月19日は私の長男が小学校に入学するので妹は「ランドセルをプレゼントしてあげる。」というので近くのお店に家族全員で行きました。子供はとても喜んでいました。妹はとても長男のことをかわいがってくれていたので、子供と一緒に笑顔をみせていました。その帰り、やはり家族全員でうどん屋さんに寄り夕食をたべました。その時夕食を食べながら、「こうやってみんなで夕ご飯を食べて、そしていろいろな事を話してこれが本当の幸せというものなんだよね。」などと話していたのです。
その翌日です。あの事件に遭ったのは・・・。その日から私達家族は、みんなで食事をしたり、いろいろな事を話したりするというささやかな幸せを、奪われてしまったのです。
妹はずいぶん前から日記をつけていました。当然、その日から書いていません。私は自分自身の日記などつけた事はありませんが、今、妹の代わりに私が書いています。妹がよくなったら見せてあげようと思ってつけているのです。そのノ−トももう3冊目に入っています。
そのノ−トにも書いてありますが、私の頭からなかなか離れない父と母の言葉があります。それは、事件後まもない頃、いつものように妹に面会にいった時の事です。
「いっそあの時あのまま死んでしまったほうがよかったかもしれない・・・」と、泣きながら言われたのです。私は返事に困りました。とっさに「妹が死ななかったのは 神様がもっともっと生きる必要があるよ、というように言っていると思うんだ。第一俺たちが妹は治るんだって、信じてあげなきゃかわいそうじゃない」というようなことを言いました。その時の私の気持ちはつらく、かなしく、せつなく、複雑な気持ちでした。この父母の言葉、「自分の子供を死んだ方が良かった」なんて、普通では絶対に言えないと思います。そんな両親の言葉をどのように受けとめたらよいのでしょう。
現在妹は、食事もできず、体も動かない状態です。しかし、毎日毎日、一生懸命リハビリに励んでいます。私の妹以外にも、まだまだ後遺症で悩んでいる方が大勢います。また、ご家族の方を亡くされつらい日々を送られている人もおいでになります。
このような事件は、2度と起こしてはいけません。もしも、このような事件が起こった場合、被害者に対して何も救済してくれるものがありません。私は法律の事はわかりませんが、不幸にもこのような事件が起こってしまったら、被害に遭った人々を救済できる法律がなくてはいけないと思います。
今回、破産管財人の方々が動いてくれていますが、いろいろ難しい問題があるようです。その破産管財人の方に、国や地方の公の方が、損害賠償を請求しているようです。
それは少し筋違いというものではないでしょうか。犯人は霞ヶ関を狙ったというような事を言っているようです。この地下鉄サリン事件で亡くなった方々、重傷を負った方々、受傷者の全ての人々が国家の身代わりになったようなものではないでしょうか。
かなり偏った意見ではあると思いますが、政治家の方はこの日を忘れないでほしいです。
それから、裁判もかなり時間がかかると言われているようですが、できれば早く解決してほしいものです。父も母も年をとっています。ましてや父は現在闘病中の身です。
妹本人はつらいのは無論ですが、それをささえる家族も大変なのです。そういった意味でも早い解決を心より望んでいます。
それから、被害に遭った人々、その家族のケア、救済もぜひ早急にお願いしたいと思っています。
とりとめのない事をいろいろ書いてしまいましたが、被害者の人達を理解し応援して下さい。宜しくお願い致します。
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