ある遺族の気持ち
40代女性
「東京なんて行かせなければ。」これが私の母の口癖です。
主人 と私と娘は、転勤のために東京に行ったのが6年前です。当時は、 主人がこんな事件の被害者になるとは思いもしませんでした。そし て平成7年3月20日が忘れられない日になるとも。
3月20日、高校を娘が卒業し、お祝いをするために出かける予 定でした。しかし一本の電話があり、予定は変更になりました。急 いで病院に向かうと、既に主人は霊安室でした。主人の顔は寝てい る時のままで、苦しんだ様子もなく、私には信じられませんでした。 警察の方に、主人に触れてはいけないと言われていたので、触る 事もできず、この悪い夢はいつ冷めるのだろうとばかり考えていま した。
それから主人のお葬式まではあっという間に過ぎてしまいま した。自分でも信じられない程早くあっけない一週間でした。後か ら考えてみると、主人の亡くなった日以外の記憶はありません。 それからすぐに、私と主人の実家のある名古屋に戻ってきました。 娘は運良く、名古屋の学校へ編入する事が出来たので、いち早く 立ち直り、毎日通っていました。
私は娘を送り出した後、毎日死のうと思っていました。どうしたら死ねるだろうか。そんな時、いつ も主人の声が聞こえたような気がします。 「今、お前も死んでどうする」 私はそのたびに我に返れました。
私は主人が亡くなった事も、もちろんショックでしたが、主人の身内から冷たくされた事も、死にたいと思った要因の一つです。私と義母はもちろん他人です。しかし主人が生きている頃は、本当の母と同じように思ってきました。 しかし、主人が亡くなり、月日がたつと、こんなにも冷たくされるものなのかと身をもって知りました。
私は東京へ行った事を後悔はしていません。東京の本社へ行く事 を主人は喜んでいましたし、本社の仕事を生き甲斐にしていたから です。 だからと言って麻原やオウムの非人間的な行為は許す事は出来ま せん。何の罪もない、多くの人々を殺す事は絶対許せません。
主人 が地下鉄サリン事件という事件に巻き込まれ、私と娘、そして主人 の人生を変えてしまったオウムを早く解体してほしいです。そして麻原をはじめとする実行部隊の死刑が執行されなければ、私の中の地下鉄サリン事件は終わりません。
時々、主人が側にいるような気がします。それは、私がつらい時、悔しい時、悲しい時主人がいつもの声で励ましてくれます。 「今、乗り越えるしかないだろう」 これから娘と共に主人の分まで頑張って生きていきたいと思っています(平成8年5月)。
以上
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