ある遺族の気持ち
50代女性
平成7年3月20日の朝、元気な声で行って来ますと言って会社へ出掛けた娘孝子。この元気な声で帰りの言葉「ただいま」は、一生耳にする事は出来ません。帰って来たのは21日の夕方か、夜か、時間の記憶はなく、無言の冷たくなった傷だらけの「解剖」の体でした。
生きている時は身体のどこにも傷がなかったのに、死んでなぜこんなに大きな傷がたくさん作られ、私はこの「傷」を見た時、私の目の前が真っ白に見えた。今でも目に焼き付いてはなれない。
私達家族は娘、息子、と4人家族です。孝子が死んだと主人から電話があり、私は築地警察までどんな気持ちで行ったか、警察で孝子は冷たい冷蔵庫に入っていた。顔を見、口を見た。口から吐血した後があった。まだ死んだとは思わなく、「姉ちゃん早く帰ろう」と言った覚えがある。それから後はどの経路で帰って来たか全然覚えていない。
この1年、早かったのか遅かったのか分からない。松本の裁判も始まり、「殺した人に人権があるという。殺された娘の人権はどうなるのか」と私は思う。
生きていれば大好きな「スキュ−バ」に行き、行く時のあの嬉しそうな笑顔、帰って来たの時楽しかった出来事の言葉、汚れた機械はいつも私と二人で洗って干す時の会話、それが私の楽しい時間でした。今は主のいない機械一式、ウェットス−ツをなでながら、私達夫婦の宝物の娘、この悲しい気持ちをどこへぶつけたらいいのでしょうか。
麻原「松本」、自分の罪を認めて多くの被害者に謝りなさい。そして私達が生命あるうちに、納得のいく裁判で死刑の出る日を心から待ち望んでいます。そして娘が死んだ時に麻原が言った言葉「ポアしてよかった」という言葉を1日も早く麻原に言って返せる日を私は待っている。これからも夫婦二人三脚で生きている限り事件の終わりを見届けたいと思います(平成8年3月)。
以上
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