2015.04.27
今月末で引退して満3年になる。
引退してからどうだったのかと一言で言えば、毎日が楽しい。辞めて良かったか、嘱託を1年でも2年でも、あるいは今まで続けていたとして、どっちが良かったかと比較すれば、迷うことなく辞めて良かったと言える。
本日はそんなことを語る。ひょっとすると退職間近の方とか、嘱託を続けるか否かをお考えの方の参考になるかもしれない。もちろん参考にならないかもしれない。
私の働いていた会社は、満60歳になった次の3月31日が定年退職日という決まりだった。私が定年になる前に、娘も息子も大学を出て社会に出て働いていた。だから家内と二人分の生活費があれば良いわけだが、私の年代では66歳にならないと年金が満額もらえない。満額というとかなりもらえるように聞こえるが、まあ何とか食っていけるほどの金額だし、満額にならなければほんとうにスズメの涙だ。ともかく年金が満額もらえるようになるまでの6年間、何か働いていないと生活していけないということになる。まあこれは私に限らず日本の社会制度の問題だね、
そんなわけで会社から嘱託で働きませんかと言われたときは大変ありがたく、二つ返事でお願いした。もちろん嘱託では社員のときに比べて賃金はほぼ半減する。とはいえ夫婦二人食べていくにはそれで十分である。ということで嘱託になった。賃金は軽くなったものの、仕事の負荷は軽くならない。とはいえ私は楽しく仕事していた。私は
仕事は楽しいものと考えている。
嘱託になっても仕事そのものは変わらない。週に三日は出張で、札幌や福岡には毎月、大阪には毎週出張していたような記憶がある。
旅をするというのはけっこう疲れる。60を過ぎると、いや50代後半からもう若くはないのがわかる。23時に羽田に着いて23時20分発最終のリムジンバスに乗って千葉の自宅に帰り、翌日はまた早朝から会社に出勤なんてのが日常である。50代のときは飛行機からリムジンバス乗り場まで全力疾走していたが、嘱託になる頃には、バゲッジクレームあたりで息切れはするし足がもつれるようになった。その他、運動不足のせいか、腕を動かすとポキポキいうとか、歩幅が狭くなりつまづきやすくなったのも実感した。
出張していて病気になったこともある。まあ、健康に一抹、いや一抹どころか大いに不安を感じるようになったのである。
おおもちろん、毎年の健康診断では常に不具合が指摘されていた。コレステロールの値が高い、胃にポリープがある、肺に影がある、便潜血が、超音波で結石が、心電図で不整脈が・・・とはいえ、60ともなるとそのくらいは正常範囲だろう。
まあそれなりに老骨にムチ打って頑張っていた嘱託2年目のある日のこと、娘の結婚式以来もう7・8年会っていない姉から電話が来た。珍しいこともあるものだ。
「やあ、ご無沙汰しているね
え〜、お元気?」なんて応えると、姉が言うには医者から末期がんで余命あと半年と言われたとか。
ギョットしましたよ。でもご本人は深刻さは微塵も見せず、いつもの淡々とした口調で話すんですよね。もちろんその心中はわかりませんが、私はもう驚愕でしたね、
そのときは姉は入院しておらず、自宅で夫に炊事を教えたり、家の中を片付けているという。姪は既に結婚していましたので夫の暮らしが心配だったのでしょう。家事なんてしない義兄でしたから。でも自分があと半年で死ぬというのに、残された人のことをそんなにも心配するものでしょうか?
パートをちょっとの8割方専業主婦ではありましたが、今まで育児、家事と一生懸命やってきました。ほんの1・2年前に義兄が定年退職して、これからは夫婦でのんびりというときに、病気になってしまったのです。そりゃあんまりじゃありませんか。
すぐにお見舞いに行きましたが、ご本人はいろいろな治療で髪が抜けたり痩せたり肌色もひどい、そんな姿を見せたくないからもう来るなと言います。その後二三度見舞いに行きましたが同じことを言われ、それが本音と受け取りましてそれからは行きませんでした。月に一度くらい携帯電話でのメールのやり取りはありましたが。
それは夏の終わりか秋頃でした。姉の病気を知ってから私もいろいろと考えました。姉の病気の治療方法とかこれからの姉一家の暮らしなんてことは姉自身も義兄も考えてしているでしょうから、私が横から口を出すことはありません。
私が考えたのは、私自身がそういう事態になったらどうすべきか、あるいはそれに備えてどうしておけばよいかということでした。肉親の危機に際して自分のことしか考えないとは冷たいと思われるかもしれませんが、それは本当です。
さて自分がやりたいと思っていて今までやれなかったことって何だろうと思うと、一番初めに思ったのは家内と過ごす時間が足りなかったなということです。もちろん私は浮気とかパチンコなんて一度もしたことはありません。仕事をしていたのです。18歳の時から毎日始業1時間ないし1時間半前には仕事を始めて、夕方は残業代がつこうとつくまいと8時過ぎまで働き、土曜日はいつも出勤していました。日曜日もたまには出勤していたのです。勤め先が変わってもそんな生活を40年以上してきたのです。子供たちはもうとっくに大きくなってしまいましたが、子供たちが幼稚園や小学校のときにもっと一緒に遊べばよかったと反省するばかりです。もうこれは決して取り返しができません。親不孝ならぬこの子不幸は私の原罪でしょう。家内孝行もしておりません。本当に申し訳ない。その他に自分がしたかったこともいっぱいあります。そういったことをしないまま死ぬのは嫌だと思いましたね。
そう思うと嘱託を辞めてブラブラするのが良いのでしょうか? おっと家内とはラブラブしなければ・・
でも年金が満額もらえるにはまだ何年もあるのですが・・・
さて私の仕事は環境監査をすること。あるとき東横線沿いの某社にお伺いして、ひと仕事終わってコーヒーを飲みながら雑談をしていました。監査後にくつろげるのは問題がなかった会社だけですがね・・
その会社で対応してくれた方は総務部長さんでした。非製造業では環境担当部門はたいてい総務部なのです。総務部長は私が嘱託の身分であることを知っていて、話は私が老後どうするのかというような話になりました。総務部長ともなれば老後の暮らしとか年金制度についてとても詳しい。その方は私が44年特例に該当するまで働いているのでしょうと言います。私は44年特例なんて知りません、それはどんなものかと質問しましていろいろと教えていただきました。私は環境法規制には詳しくても年金の制度などからっきしなのです。
44年特例とは、厚生年金を44年積み立てた人は、60歳になると満額年金がもらえるという制度だそうです。具体的には中学校を卒業して働き始めた人は60歳で45年になるので、そのときから年金が満額もらえる。高卒なら62歳まで働けばその時から満額もらえるという仕組みです。大卒の場合は66歳になると満額もらえるわけですが、その年になると特例に関係なく年金が満額もらえます。つまりこの特例は中卒、高卒の人の救済手段のようです。ともかくその話を聞いて嘱託をあと半年すれば良いということが分りました。これは良い話です。
その直後、嘱託を継続しませんかという話が上司からありましたが、姉のことを話して仕事を辞めて自由に過ごしたいと申し上げました。上司からはもっといて欲しいのは本音だと言われたのはうれしかったです。
姉は半年の命と言われていましたが、姉から電話があってからほぼ9か月後、私が会社を辞めたのが4月で、その翌月に亡くなりました。
それを聞いて私は思いましたね、引退して良かったと。そして与えられた自由な時間を好きに使うことが自分のためであり、姉の供養でもあると思いました。姉の分まで楽しまなくちゃと思いました。
だから現役時代できなかったことを、いろいろやろうと誓ったわけです。
そんな経過があるものですから、引退してから今までの3年間は悔いがありません。現役時代は北海道から沖縄まで出張していましたが、行ったといっても都市部にある工場やオフィスで監査をしただけです。名所旧跡などに行ったことはありません。温泉に入ったこともなく名物を食べたこともありません。退職してから、家内と北海道、沖縄、箱根、能登半島、上高地、中国、四国、お伊勢参りに出雲参拝と旅行しました。
初めは家内と一緒にいるとお互いがぶつかってばかりで、家にいても旅行に行っても喧嘩ばかりしていました。つまらないことなんですよ、飯を食う時に家内が何が食べたい、私が何を食べたいと言うと折り合わず、どこに行こうでも、何を見ようでもとにかくギクシャクしていました。家にいれば朝から晩まで顔を合わせているし、1泊とか2泊の旅行に行けばもう離れる時間もないわけです。お互いにぶつかって言い合いしているうちに相手の心情が分るようになり、だんだんとお互いに相手に合わせるようになりましたね。そういうのをシンクロメッシュというのですか?
会社を辞めてからの3年間で、家内の顔がだんだんと穏やかになってきたことに気がつきました。思うに私が勤めていた時は、私が難しい顔をしているから家内もそれがうつったのだと思います。会社を辞めて私が難しい仕事とか納期を迫られるということがなくなったので、私が穏やかになり、それで家内も穏やかな顔になったのだと思います。過去40年間申し訳なかった。
その他にいつも書いていますが、全然泳げなかったのでスイミングスクールにも行きました。古事記や日本書紀、あるいは邪馬台国のクラブというか学習会に入りました、そんなことに関する講演会があると遠くても聴講に行きます。
会社を辞めた直後は何をしたらよいか分りませんでしたが、1年経ち2年経つとそれなりの習慣というかスタイルができてきました。もちろんあまり日常がルーチン化、固定化しても面白くありませんがね、
ともかく満3年ということで今までを振り返り、この3年間の収支決算をみれば、大幅黒字と判断できると思います。
おっと、お金のことじゃないですよ、自分が楽しかったか、有意義だったか、後悔していないかということの収支決算です。経済的なことを言えば、借金もなく貧乏くさい暮らしでもなく、それなりに暮らしてきたということだけで十分でしょう。おっと贅沢しているわけではありませんし、贅沢するほどの余裕はありません。
でもやはりこれだけじゃ悲しい。マズローじゃありませんが、最終的には世の中に役に立っているという認識が持てないと悲しいですよね、
マズローのピラミッド
自己実現欲求 |
尊敬・承認欲求 |
愛情・所属欲求 |
安全・安定欲求 |
生理欲求 |
|
私の住んでいるマンションには管理組合もあり町内会もあります。町内会は班に分かれて各班の班長は毎年順繰りに担当することになっている。だけど町内会長の話ですが、どうしても班長をするのがいやだという人がいる。どうしてかと聞いたら、ペットの世話が大変だから班長ができないという。どんなペットかと聞くと猫一匹だそうです。要するに面倒な役をしたくないというだけのこと。その町内会長は世も末だと語っていましたが、それほど世の中に貢献したくないというのも異常ですね。「自らの身は顧みず」なんて田母神幕僚長のように立派なことは言いませんが、やはり義務は果たさなくちゃいけません。
マンションで尊敬されるのは庭の掃除に欠かさず出て来るとか、理事会や子供会の役員を断らないということです。要するに社会貢献、フィランソロフィーですわ。現役時代に会社で偉かったとか、賃金が高かったとか、今財産を持っているなんてことではないのです。
おっとお断りしておきますが、私は出世もしなかったし賃金もボーナスもプラスだったことはありませんでしたね。
もっとも引退してからも現役時代は偉かったとか、高給取りだったなんてことに拘るのは見苦しい。いや実を言ってマンションにもいるのですよ、俺は元某商社のイギリス事務所のトップだったとか自慢する人が、まあそんなことを言っても周りに人は集まりません。一生懸命に幹事役をする人が尊敬され周りに人が集まります。噂ではその方は某電機メーカーのアメリカ半導体工場で工場長をしていたとか。でもまあ、過去はどうでもいいのです。過去何をしていたのかではなく、何ができるのかでもなく、今何をしているのか、それがその人の今の価値です。英語が話せることでは尊敬されず、英語を教える人が尊敬されます。
マンションの囲碁クラブでは私は級位者を勝たせてあげて社会貢献をしております。弱いからだろうって? 冗談じゃありません。段位者には容赦しません(笑)。ウチでは点数制でしていますので、私は上位者から点数をいただき、級位者に点数を配っています。だからほぼ全員の点数が変わりません。もちろん私の点数が上がるのを防いでいるってのもあるのですがね、私は勝とうなんて気ははなっからありません。だって私にとっての囲碁は遊びではなく社会貢献ですから。
|
注:お分かりにならない方に若干説明
囲碁の点数制というのは、勝った人の点数が1点あがり負けた人が1点下がる。対局者の点数差によって手合い(置石とかハンディ)が決まるので、自分の点数が上がると勝ちにくくなる。私の場合は勝ち負けを自分で調整できなくなる。
|
とにかく引退すると価値観が変わります。働いていた時は部長、課長になった、なれないということとか、ボーナスが10万多い少ないってことが重大事でした。名刺をもらえばまず肩書を見るでしょう。だけど引退するとそんなことまったく気になりません。だいたい会社を辞めてからも俺は部長だなんて親分風をふかしているようでは周りの人が付き合ってくれません。財産が1000万多いとか少ないとかもまったく意味ありません。
フィットネスクラブで偉いのは働いていた時の職階とかボーナスの額ではなく、1か月で何キロ減らしたとか、平泳ぎで黙々と1時間も泳いでいる人です。囲碁クラブで偉いのはみなの世話をする人です。
ちょっと話は変わりますが・・
退職後も健康診断を毎年欠かさず受けている。姉よりも長生きしなくっちゃと思っていましたが、既に姉よりは長生きしましたし、次の目標は親父よりも長生きすることです。そのためには予防保全が大事です。
健康診断ではいくつになっても身長を測定する。今年2月の定期健康診断で私の身長は167センチであった。いまどきの若者に比べるまでもなく、私が高校や中年のときでも平均よりも低かった。ちなみに2010年の25歳の平均身長は172センチ(女子159)、65歳は165(女子153)だそうだ。
ただ今年の測定結果を見て、私は少しにやりとしたのである。
ではその話を・・・
私が働いていた最後の年、今から4年前のある日、私は左ひざが痛み、歩くことどころか布団から起き上がることもできなくなった。数日寝たきりでいて、少し痛みが治まったときやっとのことで近くの整形外科に行った。近くといっても田舎の感覚での近くである。たどり着くまで地獄の苦しみ!
さて診察した医者が言うには、膝の関節の骨が直接あたるようになったためだが、それは骨が減ってきたとか、関節の液体が減ったとかではなく、足の筋肉が弱くなったからだという。人の体重を骨だけが受け持っているのではなく、筋肉も支えているのだという。筋肉が弱くなると骨(関節)にかかる重さが増え関節が悲鳴を上げるという。だからそのときの膝の痛みは筋肉の衰えによるので、体を鍛えることが大事だという。
とりあえずは痛み止めをもらい、それから当分はとにかく無理をしないようにしていた。半年後に引退してからフィットネスクラブにいきスイミングや筋トレに励んだ。
実は私が医者の話から思いついたことがあったのだ。ご存じのように年を取るとだれもがみな背が低くなる。私が退職したときの身長は164センチだった。若いときは168センチだったから、4センチも低くなったわけだ。正確に言えば低くなったというよりも縮んだというのだろう。背骨は30個くらいの骨が重なっている。それぞれの関節がコンマ5ミリ縮めば1センチ5ミリも低くなるわけだ。その他に腰も膝も関節があるからなんだかんだで2センチくらいは低くなるだろう。それに年寄りの背の縮みは姿勢が悪くなることも大きい。そんなこんなで4センチくらいは低くなったのだろう。
それはしかたがないのだろうか?
単純に関節の老化だけでなく、医者が言うように筋肉の衰えによるのであれば、筋肉がしっかりすれば身長は元に戻るのではないだろうか。もちろん膝の関節も痛まなくなるはずだ。そしてストレッチやスイミングは縦方向にはあまり力がかからないし、むしろ伸ばす方向になるだろう。
ということで苦節三年(ウソ)頑張ったのである。今回167センチということは、ほとんど若いときに戻ったということだ。まさかすり減った骨が増えたとか背が伸びることはないから、筋肉が付いたのだろうと自分では思っている。もちろん姿勢が良くなったこともあるだろう。それはスイミングやストレッチのおかげか、それとも上役にヘイコラすることがなくなって精神的に伸び伸びしたためか、ともかく身長が伸びて少し気分を良くした。
なお、3年前のような膝の痛みは、あれから起きたことはない。
ともかく私も自分の価値向上に努めなければならないということになります。まあ、そんなに目の色を変えるとかシャカリキになることでもないんですけどね、
例えば、速くなくても良いから今より一層きれいに長く泳げるとか、囲碁なら一目置かれるとか(二目も三目も置かれたらもっと良いですが)、マンションや地域に少しでもお役にたてるとか、まあ、そんなことですね。これからも精進に勤めたいと思います。
まあ、引退して3年目の決意というか先が短い者の開き直りでしょう。
本日の老人の声
老人よ大志を抱け、そして世の中に貢献しよう
そのためには自分を鍛え、精神的にも肉体的にも世間に迷惑をかけないことが基本ですね
独り言の目次にもどる
うそ800の目次にもどる