2018.08.13
この
ウェブサイトを作ったのは2001年8月13日のことである。私がまだ50をちょっと過ぎたときだった。あれから17年が経ったとは、驚くしかない。とはいえ振り返るとあっという間だった。
そもそも最初は、首相に靖国参拝してほしいという意見発表の場として作った。というのは、私の叔父二人は太平洋戦争で戦死した。オヤジが生きていた1980年まではオヤジがお彼岸とかお盆とか命日には線香を上げに行き、私もお供をした。
親父が死に、甥にあたる私が春秋の彼岸とお盆に掃除を線香をあげていた。しかし私も仕事で都会に出てきてからは、お盆には行くもののお彼岸は行ったり行かなかったりだ。いくら近いとはいえ、墓参りに帰れば10万は飛んでいく。そうそう行けるものではない。
私は子供はいるが孫がおらず、その可能性もない。となると私が死ねば、もう線香をあげる人はいないだろう。叔父だけでなく私も無縁仏一直線だ。
未婚で戦死した人に直系卑属はおらず、傍系卑属もいなければ無縁仏になるのは必定だ。そんな可哀そうなことをしてはいけない。戦争に行けと命じた国が戦死者を祀るのは当然だ。それは主義主張と関係ない論理的帰結だろう。
もちろん全国にある戦死者のお墓に線香あげに行くことはできない。しかし戦死者すべてを祀っている靖国神社があるじゃないか。首相も国会議員も、
戦死者の冥福を祈るために靖国参拝をするのは当然と思うのは自然なことではないのか?
立憲民主党とか共産党は首相や国会議員の靖国参拝に大反対しているが、戦後、日本が主権回復したとき、社会党の議員もそろって靖国参拝したことを忘れたのか?
国家というのは連続性がある。連続性がなければならない。前政権が締結した条約も後継者は遵守するのは当たり前、前政権が憎くても、前政権からの制度は正規な手順で廃止しなければ正当なのである。
過去の政権が戦死者を靖国に祀ると決めたなら、日本のために戦い亡くなった人を国家の代表者(representative=国会議員)が参拝するのは当然だろう。
そう私は考える。
とまあ、そういう趣旨でウェブサイトを作ったのである。
とはいえ毎日、靖国ガーと書いてもしょうがなく、私の仕事である企業におけるISO担当者の業務についていろいろ書いているうちに、ご質問を受けたり会って話をしたいということがたびたびあり、いつしかそれがこのウェブサイトのメインデッシュとなってしまった。
ウェブサイト開設から今までにアップしたコンテンツは、なんと2,141件ある。毎年126件、平均して3日に1件書いてきたことになる。そのうちISO関係についてのものが1,138件(53%)だからISOがメインのウェブサイトと言ってもいいだろう。
庇を貸して母屋を取られる、いや看板に偽りありというべきかもしれない。
ISOについてのウェブサイトは、2000年頃は星の数ほどあった。その多くはISO規格の解説とか、認証を受ける手順とか、審査員対応のテクニックとか、コンサルタントの宣伝が多かった。
インターネットにあるそんなものを自宅でも会社でも眺めていた。お断りしておくが、当時は今のように会社でウェブサイトを見てはいけないという規制はなかった。そしてISOのような新しい業務について書籍などほとんどなく、インターネットは情報を得る貴重な手段だった。インターネットしかないというのが正しかった。
日々そういうウェブサイトを眺めコンテンツを見ていて、私が必要とする情報、いや多くの人が必要とする情報がないということに気が付いた。私のように日常的に審査員とチャンチャンバラバラしている人が必要とする情報は、ネットでは得られないのだ。いやネットにあげるような勇気のある人がいないのだろう。
じゃあ、どうすればいいのか?
自分が発信すればいいじゃないか! 自分が毎日困り果てている審査員の強要、お土産に○○が欲しい、昼飯には○○、仕事が終わったら一席設けてほしい・・・
あるいは、こういう資料を作ってほしい。このデータは素晴らしいからコピーをいただきたい。認証機関への報告ではなく個人の勉強のために・・・今なら情報管理上、産業スパイと思われてもおかしくない。
それに頂いたたくさんのお問い合わせが材料になる。お問い合わせに回答が分かるなら回答を、回答が分からないなら頂いた質問や問題をアップすればいいじゃないか。
私は自分が審査員から突拍子もないことを言われたとか、アホな審査員をどうあしらったかというようなことをウェブにアップするようになった。
そしてまた、助けてくれとか、規格解釈がおかしくないかというような問い合わせを受けると、そのQ&Aをアップしていった。
質問は審査での規格解釈とか法律の解釈だけでなく、昼飯をどうするのかとか、社長に失礼な態度をされた、お土産を要求されたなど多種多様で、しかもISOというよりも、ビジネスマナーとかビジネスマンの常識や倫理に関わることも多い。私が審査員から言われたことは全国共通のようだ。
しかしそれが現実のISO審査における問題であり、担当たちの頭痛のタネだった。
そういう情報が集まれば集まるほど、企業でISOに関わっている人々は苦しんでいるのだ、おびただしいおかしな審査が行われているのだと感じた。それはまさしく私が会社で日々感じていることそのものであった。
靖国参拝問題について自分の考えを発信したいという思いと、ISOの惨状を広く知ってほしいという思いは、私の中でまったく等価であった。
だからウェブサイトのメインテーマが、愛国からISOに変質することについて疑問を感じることはなかった。そしてISOの解を求めて訪問された方々から、愛国を掲げることについての拒否感とか問題を提起されたこともない。
ところで、人生において思いもよらないことが起きるのは、これまた常。ウェブサイトを開設して1年もたたずに職を変わり引っ越しした。
その結果、それまでのような勤め先と周囲の企業からだけ相談を受ける状況から、ISO14001限定であるが多数の会社の状況を見ることができる立場になった。いや、見るだけでなく認証の指導や審査員とのトラブル対策も私の仕事になった。その結果、世の中にはとんでもない審査があるものだ、とんでもない審査員がいるものだ、トンデモハップンの規格解釈があるものだ、苦情を言っても対応しない認証機関もある、審査とは問題ばかりだということを認識させられたのである。
雑誌などでISO認証の価値を熱く語っている審査員に、実情を訴え改善してほしいというメールを送ったことがある。
返事は来た。
それは、
「そんなことを言ってくるな 💢」であった。
なんで叱られなきゃいかんのか? 私は加害者ではなく被害者である。
きっとその方は脳内のISO審査しか知らないのだろう。
ISOTC委員に現状の改善を訴えこともある。
このときも返事をいただいた。
それは
「頑張ってください」であった。
残念ながら私は中山鹿之助ではなく、マゾではないのだ。
ISO業界というのはいかに自浄作用がないかということだ。
私のISO審査員との戦い、認証機関との戦い、審査員に規格の理解を教える日々は終わらなかった。イヤハヤ
私が幸運だったこともある。私はとある事情で認証制度側の会合に顔を出すようになった。その関係で複数の認証機関の幹部と知り合いになり、その中で私が一方的に師匠認定する方もできた。手に負えないトラブルも多く、そういうときトラブルに無関係な認証機関の幹部に相談することで解決策を見出したこともある。
まあ、ただどうしようもない認証機関もあり、平和的交渉では解決できないトラブルもあった。おっと、暴力を使って解決したわけではない、世の中には解決できないこともあるのだ。最終的には企業側が泣くしかないのよね。
そんなことを10年もやってきて、少しは世のため人のため、そしてISO制度の改善に貢献したのではないかという気もある。
とはいえ、ISO審査員の規格の理解は今だに基準を満たしていないように思う。それは幾たび規格改定があっても変わらない感じだ。
ただ世の中が、もうISOの時代じゃないよねという空気になり、現実に登録件数も減り、審査員になりたい人も減っている現在、審査でゴリ押しすると客が減るからだろう、企業の担当者は10年前、20年前に比べて審査員を神扱いしないで通常の社外折衝として遂行できるようになったと感じている。
20年前の1990年代末は、泣く子と地頭にはでなく、泣く子と審査員には勝てないという状況だった。しかし今は審査員と見解があわなければ、認証機関に相談に行けばむげにもされなくなった。実際にはその前に審査員が折れるだろう。それは企業側のゴリ押しではないと思う。世の中、契約でも取引でも対等な立場であるべきであり、15年前のISO審査員は神様という時代がおかしかったのだ。
まあ、私の仕事と余暇のこのウェブサイトが、そんな状況をもたらした一助となったならうれしい限りだ。少なくても、私が問題提起したことが違法だとか倫理に反するといわれたことはない。いやいや、厳密に倫理遵法基準で考えれば、過去のISO審査での問題の9割は審査員側にあったと言い切れる。例えば1994年頃のことだが、審査を依頼していたにもかかわらず、そういう審査は入っていませんよと某外資系認証機関にしゃあしゃあと言われたこともある。あれは商法、民法上どうなんですかね?
ところで第三者認証制度が順調に行かなかったのはなぜか?
はっきりいえば、顧客である企業とか取り巻く環境の問題じゃなくて、第三者認証制度そのものが不味かったことは間違いない。だけど何が悪かったのか?
- 認証規格が悪かったのか?
元々感心するものではなかったが、最近の共通テキストになってますます劣化したと感じている。まあまあと言えるのは1987年版くらいじゃないのか?
審査基準はガイド62とか66の方が具体的だったよね
- 認証制度の仕組み、構造が悪かったのか?
関係者が怠慢なのかもしれない。しかしながら問題解決はすべからく仕組みの見直しに反映しなければならないとISOMS規格に書いてあるぞ
- 規格を知らない幼稚な審査員や幼稚な認証機関のせいなのか?
自分で考えず、先輩審査員の規格解釈を金科玉条としている審査員は多い
- 稚拙な審査員や認証機関を取り締まらなかった認定機関のせいなのか?
認定審査で「有益な側面がないことを指摘していない」という不適合を出した認定審査員もいた。となると・・
- 稚拙な審査員を大量生産した審査員研修機関が悪かったのか?
いや、5日間講習で審査員が要請できると思うのがおかしい。審査員とは5日間で一人前になる程度の仕事なんだろうか?
- 稚拙な審査員をホイホイと登録した審査員登録機関が悪かったのか?
登録審査で拒否された申請者は1%いないことは間違いない。
前項に関係するが、ダメな人は登録しないということがなぜできないのか?
- 審査員を崇め奉った企業が悪かったのか?
先生と呼ばないと返事をしない審査員をどうしろと?
- 審査員のタカリ、傲慢、強要がだめだったのか?
アメフト、医大、ボクシングだけじゃない、審査員も同じである
まあ今更どうしようもなかろう。
最後に、私の論が被害妄想だという見解もあるかもしれない。いかなる問題行為があったのかということは、証拠を添えて説明することができる。
本日の振り返り
本日はウェブサイト開設17周年だが、継続したのは執念である。
本日はウェブサイト開設17執念である。
萬太郎様からお便りを頂きました(2018.09.02)
ウェブ開設17周年!! お疲れ様でした。そしておめでとうございます。
私が本ウェブを知ったのは、今から10数年前に業務命令で環境ISOの窓口担当を押し付けられた頃。訳も分からずに業務処理をしながら、ネットでISOの調べ物をしている時に辿り着きました。
その頃は環境ISO以外に兼務する業務がテンコ盛りで、日々、サービス残業の毎日でした。まだ40代前半の働き盛り。そして今夏、気が付いたら定年退職です。月日の流れるのは早いものです。休日もサービス出勤して働いていたため、シニア延長する気分にもなれず、残りの人生を自分のやりたいように生きたいと思い、1年前に「大学院進学」を決意。愚妻からも好き勝手にして良い、と許可が下りてこの1年。現役学生時代も真剣に頑張った甲斐があり、とりあえず1次試験は突破しました。今は2次試験の結果待ちで、半分がふるい落とされるのですが、もし落とされなければ、来年の春には上京致します。
来年の今頃、左為様と一緒に朝日新聞本社様へ参上する日を夢見ながら、10月の合格発表を待っている萬太郎でございます。
|
|
萬太郎様!お久しぶりです。
おめでとうというには少し早いかもしれませんので、10月に大声で言わせてもらいます。
私が大学院に行ってなにごとか研究したのかと振り返れば、大した成果はなかったけれど、幾人もの友人知り合いができたことが最大の成果だと感じています。いくつになっても自分の世界、付き合いが固まってしまうのでは、それで終わりだと思います。
ゲーテでしたっけ? 新しい言葉を学ぶことは新しい窓を開くこととか語ったそうですが、あたらしいことを始めることは新しい窓を開くことです。死ぬまで新しいことにチャレンジしましょう。
インセーマンタロウにお会いするのを楽しみにしております。
|
ひとりごとの目次にもどる
うそ800のページに戻る