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新宿泥棒日記(大島渚/1968/日)
新宿紀伊国屋書店で本を盗んだ男が、偽店員をしている女にショッぴかれて社長室へ。
ベトナム反戦フォークソング集会、状況劇場、天井桟敷、新宿騒乱事件などの狭間で、横尾忠則と横山リエが繰り広げるエクスタちっくな日記の舞台は、田辺茂一や高橋鉄、佐藤慶ら大人の現場であった。

書店の仏文系棚の端っこに、A.ジャリ『ユビュ王』(現代思潮社1965)がうつる。監督にとって、ジャリはどんなんだったんだろう。さて田辺社長は横尾が盗んだ本を前にして、これは商品だからあげられないけどボクの本をあげようと棚から自著(『夜の市長』?)を取り出して署名する。石神井書林目録NO.55で『夜の市長』(1957)発見、これに「岡ノ上鳥男様 田辺茂一」って書いてみようか。高橋鐡が見せた夢二の春画に「珍しいですね」と横尾、同性愛の傾向があると言われた横山。この場面の二人の真顔がいい。

ミリオンダラー・ホテル(ヴィム・ヴェンダース/2000/独、米)
妄想と貧困渦巻くミリオンダラー・ホテルに、屋上から飛び下りた男のことでFBIの捜査官がやってくる。ちょっと知的障害のあるトムトム、裸足で歩くエロイーズら妙〜な住人たち。冒頭からラストシーンっぽい印象的な映像と音楽が流れる、あまりにもラストっぽいので予告なのかと思うほど。
幻想は一時でも傷みをやわらげてくれるのか。それが許される空間であるこのホテルをネタにして映し出すのはテレビだ。幻想を持てないひとたちが作るのは、マスの力で事実に仕立て上げる幻。幻想はひとりがひとつづつ持つもの、ホテルはやがてそれを取り戻す。 原案・製作・音楽はU2 のボノ。

エロイーズは本ばかり読んでいる。部屋のなかは本だらけ(トムトムの部屋は拾った靴だらけ)だし、裸足でホテルを出ても結局行くのは本屋ばかり。落とした照明、入口に大きくno smoking、表にも中にも本がどさどさと積み上げられている。逃げるときに本屋で待ち合わたトムトムは「なにを読めばいいのか、わからなかったんだ」と言って手元にある本をめくる。最後、トムトムが通り過ぎた窓辺にすわって、エロイーズはまたいつものように本を読む。

地獄の黙示録 (フランシス・コッポラ/1979/アメリカ)
カーツは「裁こうとする気持ちが 敗北につながる」と言った。幾度も口にする「恐怖」は、二者択一になったら私もそうなるのではないかという恐怖になってゾクゾクと襲ってくる。ワーグナー「ワルキューレの騎行」、ドアーズ「ジ・エンド」、ローリング・ストーンズ「サティス・ファクション」そしてタイトルバックに使われた音など、音楽の効果がやはり良い。

原作といわれるコンラッドの『闇の奥』(1899)、カーツが朗読したT・S・エリオットの詩「うつろなる人々」(途中、報道写真家にこの本を投げつけている)、そしてカーツの机の上の三冊(聖書と『祭祀からロマンスへ』(ジェシー・ウィストン)、『金枝編』(ジェームズ・ブレイザー))は、何度も読み返されてぼろぼろ。小道具として作られたものなのかほんものなのかちょっと不明。
ウィラードがカーツを殺してその館を出たとき、右手には鉈、左手には天金された本を持っていたように思う。彼はそこで民衆に向かって鉈を捨ててみせるが、本は捨てずに哨戒艇に戻るのだ。少し前のシーンでカーツがタイピングした日記の断片を見つけているがこれは冊子にはなっていなかった。先に出た三冊の本とも装幀が違うようだし、ウィラードはいったい何を持ち帰ったのか。
参考:『闇の奥 - 映画「地獄の黙示録」』

ラテンアメリカ光と影の詩(F・E・ソラナス/1992/アルゼンチン、フランス)
作品の製作中に銃撃されてカンヌ映画祭に松葉づえ姿で登場した監督や、アルトール・ピアソラの遺作になったことなどでも話題になった一本。痛烈な批判を徹底シュールな演出で成し、腐敗のバカバカしさを際立たせる。「今日は傾斜日和です、右に32度傾きます」のニュース。水浸しの街にやってきたラナ大統領はカエル姿で「しっかり泳げ」。「この島売ります」の看板には日本語で「ウリマス」の文字。太鼓を打つティトに「何から逃げてるの?」と聞けば「忘却からだ」と答え、太鼓の中にはテープレコーダー。ひざまづいてやる社交バレーボール大会、などなど。マカベイエフをと思い出す。

マルティンの実父は地質学者から童話作家となり『道を造った人々』という処女作を彼に残して去った。父に会いに行く旅は、その絵本の内容そのもの。画中のトラック運転手、インコンクルーソにも出会う。「僕のお父さんのこと知ってる?」「知らないが造ったのは俺さ!」「道、わかってんの?」「知らないよ、想像して走るのさ。迷ったことはないね」
本一冊づつが、この世のどこかを転写していることをマルテインは体感したのか。ウスワイヤでの恋人、ヴィオレッタの家は、じつにかっこいい本屋。

キカ(ペドロ・アルモドバル/1993/スペイン)
メイクアップアーティストのキカは『もっと本を読みましょう』というテレビ番組に出る作家(バロウズ気取りのアメリカ人ニコラス)のメイクを頼まれてつきあうようになる。ある日心臓発作で今しがた死んだ義理の息子ラモンに死化粧をしてくれと頼まれて出かけると、化粧の最中になぜか息子は生き返り、ふたりは恋におちて同棲を始める。彼の母親は自殺、その遺品は鍵をかけた棚のなかにしまってある。鼻焔壷やなつめ、和綴じの日記などオリエンタル好みだったらしい。小花柄の和綴じの日記帳の表紙にはタイトルを書くための白い和紙も貼られているが、知ってか知らずか彼女はそこには何も書かずに、ニコラスとの愛憎の日々を書き込んでいた。日記を見たマザコンのラモンは、自分のことがなにもかかれていなくて大ショック。

本棚も美しいマンションの上下でラモン親子を中心にした三角だか十角だかの関係が繰り広げられる。母親の日記は(たぶん)英語でびっしりかかれている。万年筆?いや、ほとんど滲んでいなかったからボールペンかもしれない。母親が以前自殺未遂をおかした日の日記がやぶられていて、ニコラスが母親を殺したと疑っているラモンはそれを証拠とつきつける。真実はニコラスの新作のなかに。

うたかたの日々(シャルル・ベルモン/1968/原作 ボリス・ヴィアン
作家、ジャン・ソル・パルトルの初版を収拾するシック。赤のモロッコ革で装幀された『吐きものに関する逆説』の初版本を買って自慢する。 散歩道で見かけたのはパルトルの『かび臭さ』。ボブァール公爵夫人の紋章が入った紫のモロッコ革で装幀されている。これを見たシックは、欲しさのあまりに流れたよだれが川となり、その川にのまれそうになる。
原作には半分スカンク革で装幀された『吐寫物』や、真珠色のモロッコ革で装幀されたキルケゴールの序文付きの『花のげっぷ』、左人差し指の指紋がついたモロッコ革で装幀された『文字のネオン』等が出てくる。

フランスでは革装丁は長い歴史があるし、技工を凝らすことによって本の工芸品化蒐集品化がすすんだものは、当時のヴィアンらにとってはヘドのでそうなアウトなものだったのかもしれない。でも、見てみたいなぁと思わせる品揃えはさすが。

グロリア (ジョン・カサベテス/1980/米)
ギャングの会計をやっていたプエルトリコ系移民の父親が、一家惨殺の寸前に息子に託した、暗号だらけの裏帖簿。その帖簿を狙ったギャングが追いかける中、ジーナ・ローランズ扮するかっこいいハードボイルドおばさんとの逃走劇が始まる。全編ロケの疾走感溢れる中で、息子はその帖簿を父からの遺言通り大事な『聖書』であると信じて肌身離さず持ち続ける。

劇場で観たときはこの『聖書』、緑の革装で金箔のラインが入っていたと思ったが、あとでBSで確認したら、普通の緑の紙装で黒いライン模様がひいてあるのであった。この時代のアメリカの一般的帖簿を探してこんな風に装幀したのを握りしめ、ニューヨークを疾走してみたい。

ベンヤメンタ学院(ブラザーズ・クェイ/1995/英)
禁断の香り豊かな学院で、際限なく同じカリキュラムを繰り返して服従することを学ぶ生徒たち。ある授業で、マーブル紙で装幀された一冊の教科書をのぞきこむシーン。

おそらく『執事の心得』のような内容なんだろうけれど、その時黒板には「1、2、3」とか、ナプキンの畳み方などか図解されていたりして、それから推測すると本の内容も結構キッチュなものなのかも。

プロスペローの本(ピーター・グリナウェイ/英)
友人ゴンザーロが、プロスペローの船に積み込んだ24冊の本。彼の流浪の航海は、この本によって類稀なる力を与えられる。
『水の本』『鏡の本』『神話の本』『小さな星の入門書』『オルフェウスの地図書』『幾何学の本』『色彩の本』『ヴェサリウスの生誕の解剖学』『死者のアルファベット一覧表』『旅人の物語』『地球の本』『建築学と音楽の本』『ミノタウロスの92の綺想』『言語の本』『植物の本』『愛の本』『現在・過去・未来の動物寓話』『ユートピアの本』『宇宙構造学の本』『愛しき物の消滅』『パシファエとセミラミスの自伝』『運動の本』『ゲームの本』『36の戯曲』。

グリナウェイが、原作である『テンペスト』が書かれた頃の世界観を24巻にしたもの・・・この分類の仕方、船の中という、時空ともに閉ざされた場所に持っていく本としての選択の仕方にニヤリ。内容は、装丁は、どんなふうになるんだろう。