芥川龍之介の作品について

 はじめに

 『羅生門』『鼻』『芋粥』『藪の中』など芥川龍之介の代表的な作品を読むと、他の作家にはない才能を感じることができるのですが、結論が理屈によって与えられているようで、何度も読むとそれが鼻についてきて、好きにはなれませんでした。私にとって芥川は、面白いとは思うけれど、どうも奥深い魅力に欠ける作家でした。
 数年前ニフティの13番会議室で『羅生門』に関する論争に参加したことがあり、その直後、もう少し芥川を知ろうと思い、芥川の作品を読み直しました。様々な作品を読むうち、中後期のあまり有名でない作品の中に印象的なものを見つけることができ、芥川のこれまで知らなかった側面を知ることができました。その時13番会議室にむけて書いた文章を、少し手直してこのホームページに掲載することにしました。しかしその時の印象をさらに深めて分析することはできませんでした。それは今後の課題にしたいと思っています。

 『枯野抄』

 『枯野抄』では、芭蕉の死に際した弟子たちの心境が描かれています。師匠が死ぬ時はどんなに悲しいだろうと予想していたものの、予想に反してやせ衰えた師匠の姿に嫌悪を感じる弟子。これまで師匠を十分に看病したという満足と、その満足にひたることへの後悔とが交錯した心持ちを感じる弟子。師匠が死ぬことより、師匠を失う自分たちのこと師匠の死による影響や違いを考える弟子。師匠の次に死ぬのは自分ではないかという恐怖を感じる弟子。激しい慟哭が、一瞬笑い声のように響き、他の弟子たちをギクリとさせる弟子。そして臨終のその瞬間には、全員が限りない悲しみと同時に、限りなく安らかな心持ちを感じたと書かれています。
 ある感情が他の感情に転化していく様々のパターンが描かれています。芥川はある感情が、ある瞬間にそれが対立する感情に変わってしまうという変化を描写することをねらっているように思われます。『羅生門』や『鼻』『芋粥』などでも、主人公の心理を描写する際に使われている手法です。この描き方には確かに芥川の才気が現れていますが、どうしても一種のテクニックに流れているように感じてしまいます。一般に「理知的」だと評価されているのは芥川のこのような側面だと思われます。

 『蜜 柑』

  『蜜柑』は短くまとまって、素直に読める作品です。この作品においては「あたかも卑俗な現実を人間にしたやうな面持ちで、私の前に座ってゐる」と軽蔑を感じた娘に、卑俗な現実を忘れさせてくれるような感動を受ける、という感情の転換に焦点があてられています。一瞬の出会いから「私」と娘の人生全体の対比をおこなっていることが、この作品に他の前期の作品とは違う味わいを与えているように思います。

 前半、語り手の知識人が倦怠や憂鬱を感じる心理が描写されています。「私」は子犬が悲しそうに鳴いている様子が、今の自分の心情に不思議なほど似つかわしいと感傷に浸っています。
 この後「私」は乗り込んできた娘を田舎者で下品で不潔だと観察し、二等車に三等の切符しかもっていないのに入りこんできたことへ強い不満を感じます。「私」は憂鬱をまぎらわせるために夕刊の紙面を読んで、講和問題、新郎新婦、汚職事件、死亡広告など世間は余りにも平凡な出来事だと嘆きます。社会問題や個人情報がごちゃまぜにされ、すべてひっくるめて平凡とされています。問題の内容に関心がなく、すべて彼の関心から遠い問題であることが示されています。感傷を好む心理は、複雑な問題を回避し、回避していることを理解できずに世の中は平凡だと決めつけます。とりわけ自分の前に座っている娘に露骨な軽蔑や敵意を感じます。下層の娘の生活や感情、これが彼の観察力や理解力からもっとも遠い事柄です。しかしその直後彼の娘に対する印象が一変する出来事が起こります。

  >>やつと隧道を出たと思ふ。−−その時その簫策とした踏切りの柵の向うに私は頬の赤い三人の男の子が、目白押しに並んで立つてゐるのを見た。彼等は皆、この曇天に押しすくめられたかと思ふ程、揃つて背が低かつた。さうしてこの町はづれの陰惨たる風物と同じやうな色の着物を着てゐた。それが汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉に手を挙げるが早いか、いたいけな喉を高く反らせて,何とも意味の分からない喊声を一生懸命に迸らせた。するとその瞬間である。窓から半身を乗り出してゐた例の娘が、あの霜焼けの手を
つとのばして、勢よく左右に振つたと思ふと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の幌に染まつてゐる蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて来た。さうして刹那に一切を了解した。小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴かうとしてゐる小娘は、その懐に蔵してゐた幾顆の蜜柑を窓から投げて、わざわさ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。
 
  >>私はこの時始めて、云ひやうのない疲労と倦怠を、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅かに忘れる事が出来たのである。

 娘は貧しさのため奉公に行かねばならず、幼い弟たちと別れねばならない。娘とその弟たちの貧しく厳しい生活の中では、深い人間関係が形成されています。別れの最後の瞬間、彼らをこの蜜柑がつないでいます。
「私」は娘と弟の間に強い愛情がかよいあっていることに感動します。しかしこの出会いは彼の憂鬱を「僅かに忘れ」させるだけであることが自覚されています。娘にいくら感動をおぼえたところで、ただすれ違うだけの運命にあります。彼は娘のような貧しさや厳しい生活を経験することはありません。同時に「私」には娘と弟たちのような深い人間関係が失われています。下等で卑俗な現実にまみれていないことが、彼の倦怠と憂鬱を作りだしています。彼にとってこの憂鬱は容易に解消することのできない感情です。
                       
  『秋』

中期に書かれた『秋』は芥川が歴史小説を脱皮しようと新しい方向をめざした意欲作だと言われており、文壇でも高い評判を得ています。芥川が手紙で「これからは悟後の修業だ」と言っていると解説に書かれてありました。確かにこれまでの理知的といわれるパタ−ンを打ち破ろうとしているのが感じられました。

 主人公は女子大生のころ才媛の名が高く、小説家を目指していた信子という女性です。彼女は、同じく小説家をめざしている従兄の俊吉を愛していましたが、高商出身の青年と結婚し大阪に移ってしまいます。最初読んだ時は、妹に従兄を譲った後の心理的葛藤、夫への親しみやいさかい、妹への嫉妬など、他の作品より緻密な心理を描写しているなという印象をもちました。しかしどうして信子が俊吉への気持ちを諦めて妹にゆずったのか、よく理解できず、ひっかかりました。

 私の場合芥川の作品を最初読んだ時は印象が強く残るのに、何度が読みなおしていると、飽きてくるということが多いのですが、この作品は少し違っていました。最初は男女間の関係や心理に注目してしまいましたが何度か読み返すと印象が変わって行きました。 


  >>彼女の結婚は果して妹の想像通り、全然犠牲的なそれであらうか。さう疑ひを挟む事は、涙の後の彼女の心へ、重苦しい気持ちを拡げ勝ちであった。

 妹の照子は姉は自分のために俊吉をあきらめたのだと思っています。信子自身は疑いなからこの点をつきつめて考えようとはしません。結婚後しばらくして落ちついてから、捨ててあった創作にとりかかった時、思いの外ペンは進みません。夫との間に彼女の創作をめぐってちょっとしたいさかいがおこります。夫に「お前だつて何時までも女学生ぢやあるまいし。」「今夜は僕が帰らなかったから、余つ程小説が捗取つたらう。」といやみを言われ、「もう小説なんぞ書きません。」と答えます。にもかかわらず、彼らの関係はそれほど悪化しません。彼らの家庭の経済問題の話題が二人をつなげます。しだいに小説を書きたいという信子の思いがだんだん薄れていきます。
 それを思い出させるのは俊吉の存在です。久しぶりに上京して俊吉に会って話しをしていると、昔の才気活発な信子がよみがえってきます。彼女の口をついて出てくるのは「私も小説を書き出さうかしら。」という言葉です。
一晩妹夫婦の家に泊まった翌日信子は「照さんは幸福ね。」と冗談半分でつぶやきます。妹は信子と彼女の夫との関係を心配したり、信子と俊吉の間を嫉妬したりします。感情的・感傷的に衝突した後結局信子と妹は和解します。
信子の場合、俊吉への未練が残っているというより、小説への未練、自分の才能への幻想に苦しめられているように思われます。自分の才能に幻滅することを、妹の為に俊吉を諦めたという感情が粉飾しています。
 俊吉と会ったことで創作の意欲が刺激されましたが、今の信子の感情と生活においては長続きしません。彼女は寂しい諦めの心で妹の家を出ます。家に戻る俊吉を見かけ、声をかけようかどうしようか迷った挙げ句結局はすれ違ってしまいます。

 才媛として注目され小説を発表して小説家として名声を得る、というのは当時の女子大生にとって憧れだったのでしょう。当時はこのような女性が大勢文壇の周囲を取り巻いていたようです。信子の場合彼女と妹を育てるために後家を通して苦労してくれた母の手前わがままを言っていられませんでした。お嬢さんの精神を維持する生活を続けられなかったことが、いつまでも幻想にしがみついていられない結果をもたらしています。お嬢さんの人生経験で小説が書けなくなるというのは、当然の成り行きでしょう。「基督教の匂のする女子大学趣味の人生観」と芥川も書いているように、世間知らずの娘の感覚は軽く見られています。
 いつまでも創作に未練を持つことは、彼女にとって幸福ではありません。彼女自身も最後寂しさを感じながら、過去に戻ろうとはしません。彼女は未練を振り切ろうとしています。女子大学生の文学趣味をぬぐいさることが、彼女自身の人生を始めるために必要であり、新しい生活の中で別の充実を得る可能性があることが描かれているように思います。     

 『文章』

 中期から後期にかけて、「保吉もの」と呼ばれるシリーズが書かれています。堀川保吉という人物が主人公で、いくつかの作品は芥川の子供のころの思い出を基に書かれ、いくつかの作品は芥川が海軍学校に英語の講師として教えにいっていたころの経験を基に書かれています。自分自身の非常に細かい心理を分析しています。
  『文章』という作品は、保吉が弔辞の作成を頼まれたことを題材にしています。彼は同僚だった本多少佐の葬式で校長が読む弔辞の代筆を頼まれます。弔辞を頼まれるのはすでに三度目で、以前は持つことができた弔辞作成への興味が今は失われています。

  >>云はば現在の堀川保吉は註文を受けた葬儀社である。何月何日の何時までに龍燈や造花を持つて来いと云はれた精神生活上の葬儀社である。−−保吉はバットをくはえたまま、だんだん憂鬱になりはじめた。……

 保吉は教師の仕事は本職ではなく、創作を一生の事業と思っています。保吉は今書いている雑誌用の原稿の時間がこの弔辞に割かれてしまうのを忌ま忌ましく感じます。しかし弔辞程度の文章を書くことに困難を感じるようでは、作家としてやっていけないとも考えます。弔辞を頼まれるというちょっとした事件が、彼の作家としての微妙な立場と自意識を浮かび上がらせています。
 弔辞を書き上げた保吉は葬儀に参列します。そこでは海軍独特に上下関係や、同僚との関係が展開します。周囲は作家としての保吉に興味をもってはいるが、たいした作家とは誰も認めていません。保吉はこれに反発を感じます。誰もが認める偉い作家になってしまうとこのような遠慮のない親しい関係は失われがちです。芥川はこのような関係をなつかしく思い出しているような印象を受けました。
 弔辞が始まった後の保吉の心理は揺れ動きます。深刻な調子で調子を読みつづける校長の俳優的才能に感心していると、親族席からくすくすと笑い声が聞こえぎょっとします。それが本多少佐の妹の泣き声であることがわかり、最初人を泣かせた作者の満足を味わうものの「尊い人間の心の奥へ知らず泥足を踏み入れた、あやまるにもあやまれない気の毒さ」を感じて悄然となってしまいます。保吉は複雑な心境で葬式から帰ります。
                    
  >>半時間もかからずに書いた弔辞は意外の感銘を与えてゐる。が、幾晩も電燈の光りに推敲を重ねた小説はひそかに予期した感銘の十分の一も与えていない。・・

 私には家族の涙は弔辞の名文に対する感銘というよりは、彼を失った家族の深い悲しみの現れであるように思われますが、将来への不安を感じている保吉は、作家としての才能に関する深刻な問題として受け取っています。
 「保吉物」の作品を読んでいると、若い時期は極端な設定や心理を描くテクニックが目立っていたのが、この時期になって人間関係の観察や自分の心理の研究が深まって、自伝的作品としていわゆる自然主義的な私小説とはちがった芥川独特の内容を獲得しているように思われます。(しか自伝的作品以外ではまだ思いつきに頼っているように思います。)

 『大導寺信輔の半生』

  「保吉もの」のシリーズで自伝的作品を断片的に書いた後、芥川は『大導寺信輔の半生』という作品で、生まれてから高等学校までの自分の半生を描いています。この作品で信輔は自分の生活と精神を「中流下層階級」のものと規定しています。このような社会的規定をおこなうのは、当時興隆してきたプロレタリア文学や社会主義的運動の影響を受けているのではと思われます。


  >>信輔の家庭は貧しかった。尤も彼等の貧困は棟割長屋の雑居する下流階級の貧困ではなかった。が、体裁を繕ふ為により苦痛をうけなければならぬ中流下層階級の貧困だつた。

 彼の家庭の貧困には体裁を繕うための虚栄、気取り、嘘が伴っています。彼は貧困に対してと同時にその虚栄や嘘に対する憎悪をいだきます。そしてその憎悪に対しても嫌悪をいだきます。


  >>「予は憎悪を憎悪せんとす。貧困に対する、虚偽に対する、あらゆる憎悪を憎悪せんとす。……」

  >>これは信輔の衷情だつた。彼はいつか貧困に対する憎悪そのものをも憎んでゐた。かう言ふ二重に輪を描いた憎悪は二十前まで彼を苦しめつづけた。

  >>この豪奢に対する憎悪は中流下層階級の貧困の与へる烙印だつた。或は中流下層階級の貧困だけの与へる烙印だつた。彼は今日も彼自身の中にこの憎悪を感じてゐる。この貧困と闘はねばならぬプチ・ブルジョアの道徳的恐怖を。
  
 この時期の芥川はこの二重化された憎悪を分析しその社会的位置づけをおこなおうとしています。ここで分析されている心理は、『羅生門』において「あらゆる悪に対する憎悪」として一般化さている憎悪と関係を持っているように感じます。『羅生門』では下人の憎悪は正義感として、そして簡単に悪人に転換する心理というレベルでとらえています。この二つの憎悪の相違は興味深く思えます。

 信輔にとって中流の貧困から脱出する手段は、教育によって学歴をつけエリートの地位を得ることでした。成績は優秀であったけれど中学校の生活は苦痛に満ちていました。無用の小知識を学んでいると強く感じられ、拘束の多い学校生活にそして教師に対し憎悪を抱きます。信輔は教師に生意気な態度を取り反抗します。芥川は中学校時代の苦しみをなつかしく思いだして「悪夢だつたことは必ずしも不幸とは限らなかった」と書いています。作家となった後の孤独と比べると憎悪や反抗は彼の苦悩とその主張であり、教師への反抗や教師からの復讐も関係の一つであったからだと思われます。教師にとっても優秀で品行方正な生徒より、生意気で反抗的な生徒の方がいつまでも印象にのこるものです。ある芥川の伝記に、『大導寺信輔の半生』の中では、生意気な反抗的な生徒として自分を描いているが、事実はけっしてそうではなく、成績優秀かつ品行方正な生徒であったと書いてありました。私には事実がどうであったかは確かめようもなく、また確かめる必要があるとも思いませんが、もし品行方正であったならより孤独な不幸な中学校時代を送ったといえるのではないでしょうか。

 『十円札』

 『十円札』という作品は「保吉もの」のシリーズの一つで海軍機関学校に英語の講師として勤めていた時の金の貸し借りをめぐる話です。芥川のような中流の知識人では金の問題が道徳的価値観と直接的に結びついているという『大導寺信輔の半生』の分析と深く結びついた作品だと感じました。  

 保吉は給料日の二週間前にもかかわらず、財布に六十何銭しかありません。本を買い、エジプトの煙草を吸い、シルク・ハットを被り、日曜には東京に行き、音楽会を聞き、友人と食事をするという出費がかさむため、彼はいつも金に困っています。教師の仕事から開放されて芸術家として享楽を堪能するための日曜日の東京行きをあきらめねばならないのは、彼にとって大きな苦痛です。
 日頃から温厚で英語について博学である点で一目おいていた粟野さんと話をしている内に「君は何しろ月給の他に原稿料もはひるんだから、莫大の収入を占めているんでせう。」と言われ、彼は売文に糊口することの困難を力説します。すると今度は粟野さんが「これはほんの少しですが、東京行の汽車賃に使つて下さい。」と十円をさしだしたため、保吉は狼狽して断ります。

  >>保吉は大いに狼狽した。ロツクフエラアに金を借りることは一再ならず空想している。しかし粟野さんに金を借りることはまだ夢にも見た覚えはない。

  >>粟野さんの好意を無にした気の毒さを感じはじめた。粟野さんは十円札を返されるよりも、寧ろ欣然と受け取られることを満足に思つたのに違ひない。それを突き返したのは失礼である。

 親切な金持ちがポンと金を与えてくれるような幸運が舞い込まないだろうかと保吉は空想していました。ロックフェラアのような金持ちなら、返しても返さなくても特に影響を及ぼさない金をもっているにちがいないと考えがちです。そんな偶然は起こらないものですが、その場合その金は同情と哀れみの対象となるという代償を伴い、自尊心がある限り強い屈辱を感じ、受け取ることができなくなります。このような関係と心理を夏目漱石が『野分』の中で描いています。
 保吉の場合、学校の教師という同じ立場の粟野さんだから、金を貸してくれることを好意として、またそれを借りることを好意として受け取れる関係にあります。保吉は金の貸し借りとそこに反映している人間関係について考えるだけでなく、この問題を道徳的範疇で考えます。

  >>のみならず窮状を訴へた後、恩恵を断るのは卑怯である。義理人情は蹂躪しても好い。卑怯者になるだけはさけなければならぬ。

 保吉は最初断ったものの再度借金を申し込みます。金を借りた後は、この十円札を返さなければならぬ、返すことで粟野さんの前に威厳を保ちたいと真剣に考えます。しかし十円を使ってしまえば返すあてがありません。興味深いことはこの悩みが次のような葛藤を呼び起こしていることです。

  >>あらゆる芸術家の享楽は自己発見の機会である。自己発展の機会を捉えることは人天に恥づる振舞ではない。(中略)粟野さんは成程君子人かも知れない。けれども保吉の内生命には、−−彼の芸術的情熱にはついに路傍の行人である。その路傍の行人の為に自己発展の機会を失ふのは、−−畜生、この論理は危険である。

 もっと貧乏なら僅かの金に生活がかかってくるのに対し、中流の知識人の世界では十円の貸し借りに道徳的な魂が賭けられます。彼にとっては生きるか死ぬかほどの葛藤です。恩恵に報いなければならないという考えと、自分のためには他人など踏みにじってもかまわないのだという考えの間を動揺します。両者とも道徳的価値観の内部の観点であり、恩恵や恩義を重大視し利他的な考えに囚われる時、同時に利己的なエゴイスチックな感覚にも囚われる様子が描かれています。
 保吉は東京には行かず、この葛藤にあけくれます。幸い出版社から印税が送ってきたため臨時の収入を得ることができ、粟野さんの前に彼自身の威厳を全うできる満足を感じます。

  『羅生門』で下人の善から悪へ飛躍する心理は、あらゆる時代、人間に通じる心理として一般化されていますが、保吉のような中流の知識人に特徴的な動揺であることが、この作品の中で芥川自身によって分析されているように思われます。

 『歯車』と『或る阿呆の一生』

 芥川の全集を読みつづけて、やっと最後の作品にたどりつきました。彼の自殺は創作に対する不安、社会の変化に対する不安、人間関係に対する不安、発狂に対する不安など様々な要因が複雑に絡んでいる問題ですが、彼の最晩年の作品『歯車』と『或る阿呆の一生』から、感じたことを書いてみたいと思います。
  
 >>彼は彼の異母弟と取り組み合ひの喧嘩をした。彼の弟は彼の為に圧迫を受>け易いのに違ひなかつた。同時に又彼も彼の弟の為に自由を失つてゐるのに>違ひなかつた。彼の親戚は彼の弟に「彼を見慣へ」と言ひつづけてゐた。しかしそれは彼自身には手足を縛られるのも同じことだつた。彼等は取り組み>合つたまま、とうとう縁先へ転げて行つた。縁先の庭には百日紅が一本、−−彼は未だに覚えてゐる。−−雨を持つた空の下に赤光に花を盛り上げてゐた。               

 『或る阿呆の一生』

 彼は成績優秀なために、周囲の親戚から高く評価されています。彼と比較されている弟は、そのために圧迫を感じ、その悔しさを彼にぶつけます。周囲から褒め上げられる彼の場合は、誰にも反抗を示しようがありません。彼は見えない紐で縛られているようなものだと感じでいます。周囲の人々の称賛に縛られる苦しさは、弟にも誰にも理解されません。          

 >>先生、A先生、−−それは僕にはこの頃で最も不快な言葉だった。僕はあらゆる罪悪を犯してゐることを信じてゐた。しかも彼等は何かの機会に僕を先生と呼びつづけてゐた。僕はそこに僕を嘲る何ものかを感じずにはゐられなかつた。何ものかを?(中略)−−「僕は芸術的良心は始め、どう云ふ良心も持ってゐない。僕の持つているのは神経だけである。

 『歯車』
    
 世間の人々は彼を尊敬し崇めています。それはたいていの場合形式的な表面的な尊敬です。彼はむしろ嘲られているように感じ、露骨に不快感を示します。彼らのお世辞に付き合うことによって、疲れ果てる自分の神経を守るために、彼らの相手をする良心を自分は待たないと彼は宣言しています。

  >>養父母は勿論僕の帰るのを待ち暮らしてゐるに違ひなかつた。恐らくは僕の子供たちも、−−しかし僕はそこへ帰ると、おのづから僕を束縛してしまふ或力を恐れずにはゐられなかつた。運河は波立つた水の上に達磨船を一艘横づけにしてゐた。その又達磨船にも何人かの男女の家族は生活してゐるのに違ひなかつた。やはり愛し合う為に憎み合ひながら。……                     
 
 『歯車』

  >>彼は結婚した翌日に「来そうそう無駄費ひをしては困る」と彼の妻に小言を言つた。しかしそれは彼の小言よりも彼の伯母の「言へ」と云ふ小言だつた。彼の妻は彼自身には勿論、彼の伯母にも詫びを言つてゐた。彼の為に買つて来た黄水仙の鉢を前にしたまま。……
                              
 父も母も妻も彼を愛しています。彼を中心に、彼のためを思って、彼に気づかって暮らしていることが、互いを縛り合う結果をもたらしています。その雰囲気に耐えられず家族に対して不快を示すと、その反動が彼自身にはねかえり、自分は暴君であり利己主義者であるという嫌悪感が生じます。それに対して家族が気をさらに使い、そうされると彼の神経がますます消耗する、という悪循環が繰り返されています。

  >>彼はいつ死んでも悔いないやうに烈しい生活をするつもりだつた。が、不相変養父母に遠慮勝ちな生活をつづけてゐた。それは彼の生活に明暗の両面を造り出した。彼は或洋服屋の店に道化人形の立つてゐるのを見、どの位彼も道化人形に近いかと云ふことを考へたりした。が、意識の外の彼自身は、−−言はば第二の彼自身はとうにかう云ふ心もちを或短編の中に盛り込んでゐた。             

  『或る阿呆の一生』       

 これまで自分が小説の中に盛り込んできた心理は、遠慮勝ちな生活の中で生み出された心理だった、ということに芥川は気がついています。若いころは自分の才能によって人とはちがった烈しい生活ができるという希望をもつことができ、実際に作家としての名声を得ることができた。その才能によって彼は窮屈な生活に縛られていることを自覚する道をたどり、同時にその自覚の過程を描く道をたどったのではないでしょうか。                  

  >>そこへ誰かが梯子段を慌ただしく昇つて来たかと思ふと、すぐに又ばたばた駆け下りた。・・・妻は突つ伏したまま、息切れをこらへてゐると見え、絶えず肩を震はしてゐた。
 「どうした?」
 「いえ、どうもしないのです。……」
 妻はやつと顔を擡げ、無理に微笑して話しつづけた。
 「どうもした訳ではないのですけれどもね。唯何だかお父さんが死んでしまひそうな気がしたものですから。……」
 それは僕の一生の中でも最も恐ろしい経験だつた。−−僕はもうこの先を書きつづける力を持つてゐない。かう云ふ気もちの中に生きてゐるのは何とも言はれない苦痛である。誰か僕の眠つてゐるうちにそつと絞め殺してくれるものはないか?

  『歯車』

 妻は心から彼を心配し、彼の自殺を危惧し、彼の一挙手一投足に気を使い、神経をはりつめています。このような愛情が彼をさらに追い詰めています。 

 以前に『歯車』と『或る阿呆の一生』は読んだ時、もう半分気が狂って書いた暗い話だなという印象を持つことしかできませんでした。芥川龍之介といえば『羅生門』『鼻』『芋粥』『藪の中』のように、観念的で抽象的な結論にもっていきやすいところがあまり好きでありませんでした。小理屈を手際よくまとめる才能にはすぐれているけれど深みに欠けていると感じていましたが、全作品を読んでみて印象は変わりました。芥川の作風や文章が変化し深みをもっていく様子が興味深く感じられ、初期の作品に現れている才能の枠、その観念的な殻をやぶろうとしていたことがわかりました。しかし殻を破りきれずにもがき苦しみ自己否定し自殺にいたるまでの彼の精神的な苦闘が伝わってきました。
 自殺をはかったことは、この時代の大きな流れと関係しているのだと思われます。今後この時代の他の作家の作品も読み直して考えを深めたいと思っています。

      
 芥川と漱石

 芥川は漱石に関する文章をいくつか書いています。芥川は漱石から大きな影響を受けており、彼が自分を否定していく上で漱石の存在は大きかっただろうと思われます。芥川の漱石についての文章を読むと、漱石と芥川の両方の個性がうかがえて面白く、芥川が漱石を心から尊敬していることが伝わってきます。漱石の死後、漱石の家を訪れた時に芥川は、漱石がこの寒い部屋で小説を書いていたんだと思うだけで感傷的な気分になっています。

 漱石が死んだ時の彼自身の心境を『葬儀記』という小品に書いています。本当にたんたとした文章で、彼の素直な感情を綴っています。最後にすこし涙を流してしまったことを恥ずかしそうに書いています。
 『枯野抄』でも師匠の芭蕉の死を弟子たちが悲しんでいます。この小説を構成する上で設定された感情と、彼自身漱石の死に対して味わった感情との違いが興味深く感じられます。『葬儀記』の書き方と比べてみると、芭蕉の弟子たちの感情は「悲しみがこみあげてくる」と最初に設定されている悲しみ自体が表面的にとらえられているような気がします。その悲しみが他の感情に移る過程も、他の嫌悪や満足や疚しさや恐怖も深く分析されていません。
 『葬儀記』の方は、「限りない悲しみ」などという単純な言葉は使われません。たんたんとした描写の中に、これまでの漱石と芥川の関係や漱石と芥川の人柄が現れているような気がします。

 漱石の墓参りのエピソードでは、芥川が迷ってなかなか墓までたどりつかなかった様子が書かれています。去年の春、東京に行った時、私も漱石の墓に行ってみました。私は場合は、事務所で墓地の見取り図をもらいました。漱石だけではなく、他の有名人の墓の場所もしっかりチェックされていました。あの地図がなかったら、春の冷たい雨が降る中、芥川と同様墓地の中をさまようはめに陥ったと思います。
漱石の墓は立派でした。この墓をどんな墓にするか、かなりもめたエピソードが夏目鏡子の『漱石の思ひ出』に書かれているのを思い出しながら写真をとりました。『葬儀記』をその前に読んで、芥川もこの墓に参ったと知っていたなら、とすこし残念です。

                                                                    平井 薫

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