前置きB
−筆者背景A及びその後の人間椅子−


 中学生時のイエローマジックオーケストラから始まって現在に至るまで、私の音楽への傾倒の加減には特筆すべきものがあると自負している。それも「広く浅く」でもない「狭く深く」でもない「広く適度に深く」のタイプなのである。私が相も変わらず貧乏街道を疾走している原因は全てここにある。以降の文章を読んで戴ければ、貧困の理由についても海よりも深く納得して貰える筈である。

 YMO、THE ALFEE、安全地帯、オフコース、T-SQUARE、聖飢魔U、徳永英明、吉川晃司、布袋寅泰、尾崎豊、崎谷健次郎、m.c.A.T、E-Zee Band、錦織健・・・(人間椅子を除く「心のベストテン」ランクイン順)

 と、一見共通点の無い人々(熟考しても共通点は見出せないが・・・)を次々と愛してきた。レンタルCD止まりのアーティストをこれに加えて列挙すれば際限ないと思われる。

 私の好きになり方というのは、自分では認めたくないのだが「熱しやすく冷めやすい(友人談)」らしく、ある一定期間(平均して1年程であろうか)特定アーティストに執心しているのだが、次なるターゲットが現れると、それ迄のベストワンは「心のベストテン」第2位以下に移動となり政権交代を迎える訳である。只、それ迄のベストワンに対して興味が無くなることは殆どない(今迄に興味を失ったのはウッチャンナンチャンのウッチャンだけである。彼には、彼と私との恋愛小説を執筆する程に心奪われていたのであるが、失墜するのも早かった・・・)。つまり、歳月と共に対象は増える一方なのである。上記の殆どのアーティストのコンサートには九州内であれば参加するし、何故か鹿児島が村八分を喰らっているこの2〜3年(T-SQUARE、徳永英明、吉川晃司など、ツアー日程に必ず入っていた鹿児島公演が削られるようになったのである。)交通費も莫迦にならない状況が続いている。

(余談ではあるが、昨年秋頃より読書にも没頭しており、本代にも金が嵩むようになり財政は逼迫中である・・・。)


 そんな中で人間椅子の位置する処は特別であった。
 一度も「心のベストテン」第1位に輝いたことが無いのである。
 既に書いたように、人間椅子ファンになった頃、私は聖飢魔Uの信者として各地のミサに出没していたし、平行して「ベスト2」の徳永英明に関しても県外進出を始めた頃であった。暫く二大王朝時代が続き、先程話に登場した「御免、これだけはちょっと・・・」の青年に別れを告げられる迄(於、悲しい話だ・・・。)栄華を極めたのだが、失恋し立ち直る際の常として尾崎豊に手を出し、以降「心のベストテン」ランクイン順にベストワンが入れ換わっている。

 さて、人間椅子は何処に潜んでいたのか。
 常に3〜4位を維持して動くことが無かったのである。
 バンドブームが衰退し、雑誌やテレビジョンに人間椅子が登場しなくなり、積極的にライブ情報など入手しよう、という意志は聖飢魔Uや徳永英明に阻まれ、CDのみで人間椅子に接する日々が続いた。アルバムの発売日など知る由も無く、大抵は遅れて手に入れるのだが・・・50ccバイクで陳腐な遠出などを行い、ふらりと寄ったCD屋で怪電波をキャッチ、ふらふらと発信源へ歩いて行くと発売間も無い人間椅子のアルバムが一枚そこに在った、ということが2〜3度あった。この体験だけは不思議である。ライブ参加が無かった為、突発的に情熱が高まるということが起こる筈も無く、人間椅子は地下に潜行し続けた。しかし、アルバムだけの接点で彼らが3〜4位を維持し続けた要因は、彼らの「音」のすばらしさ、偏にそれだけである。

 私如きが語るのも何だが、比較的キャッチーと思われる文芸ハードロック的1・2枚目のアルバムを経、3枚目で彼らの音はプログレッシブの色合いを濃くし、4枚目に至っては貫禄さえ感じる人間椅子の世界を確立したように見受けられた。これからが彼らの名を世界に知らしめる時である。私は確信していた。

 そんな私が、遅ればせながら辛い事実を知ったのは、人間椅子ベストアルバムをこれまた怪電波で入手した時であった。

 人間椅子、現行レコード会社を離れ地下に潜行、と。
 失礼な言い方をすれば、レコード会社から首を斬られた訳である。
 地下に潜行するのは、私の「心のベストテン」の中だけにして欲しかった。


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