秋野豊先生追悼の山
Memorial of Yutaka Akino



秋野先生関連記事

秋野先生論文

秋野先生略歴

筑波大学国際総合学類(旧国際関係)

△Asano Enterprises Inc.


●2009年7月20日は秋野先生の11回目の命日です。
 昨年7月19日の秋野豊メモリアルコンサートで結ばれた新しい絆。
 先生が我々に起こしてくれた「化学変化」は次々に連鎖反応を起こして
 世代から世代へと引き継がれています。どうか安らかにお休みください。
 そして、どうかこれからも私達を見守り続けてください。


【98年10月の偲ぶ会で配付された秋野先生が御家族に宛てた手紙のコピー】

皆さんお元気ですか?ポーランドはもう寒くなってきました。
先日、フルブライト奨学金のための書類を完成し日本へ送りました。
大変苦労しました。その中でも苦労したのは個人的エッセイを書く箇所があり、
おいたちや得意なもの等について英文で書かねばならないことでした。
和訳すると次のようになります。(一部だけ)

 「父は小さな薬品卸し業を営んでいました。彼は若いころ有名な
  スキージャンパーであり、私は父の実践的な哲学(それは
  ベンジャミン・フランクリンの哲学のような)によって大いに
  影響を受けました。父はよく私に次のように教えてくれました。
  『何事に対しても吐き気を催す迄、訓練を止めるな』と。
  そして
母はとても愛情深く私を育ててくれました。ある12月の
  早朝、私が11才の時のことですが、港へ釣りに行くと私は主張
  しました。母は行くなと説得しました。何故なら冬の港は危険
  だからです。私はそれでも釣りに行きました。母はすぐ私のところ
  へロープを持ってやってきて、それで私が海へ落ちないよう縛り
  雪の中を何時間も待ってくれました。一匹も釣れないのに。
  しかし、これは本当の母と子のきずなのように思われました。

  私は沢山の兄弟を持ち家はいつも人で一杯でした。スポーツを
  することは子供たちにとって義務のようなものでした。それで
  私もスポーツをすることが好きになりました。柔道、スキー、
  ラグビーが特に得意です。我家の主義は『好きなことを何でもやれ
  失敗を恐れるな、自分自身の経験を通じて世界とは人生とは何か
  ということを把握せよ』でした。私はこのように育てられたのです。」

なんと素晴らしい家庭に育てられたことかと思い出し、涙をこらえつつ
タイプしました。今日(14日)結婚後4年が過ぎたことに気付きました。
早いもんだが、この4年間に悔いなし!さやか、おしめとったか?
では、ごきげんよう。 ゆたか



秋野豊先生10周忌 メモリアルコンサート


2008年7月19日(土)つくばノバホールにて
メール連絡はここをクリック!




Asano Enterprises Inc.は、国連タジキスタン監視団の政務官として
活動中志半ばにして凶弾に倒れた恩師秋野豊先生を偲ぶと共に
その意志を継いで設立された「秋野豊ユーラシア基金」及び
関連NPO活動を私的に応援することを一つの柱としています。

(小文:「秋野先生は僕達に化学変化を起こすcatalystだった」)


同日夜、国関2期の同窓会も企画中!




(チケットは以下ポスターをクリックして頂ければオフィシャルHPが開きます。そこから入手可能です)




ユーラシア文化館

○横浜ユーラシア文化館特別展「オロンスム:モンゴル帝国のキリスト教遺跡」
 ・会期 2003年7月26日(土)〜10月13日(月・祝)
 ・休館日 毎週月曜日(ただし、9月15日と10月13日は開館、9月16日は臨時休館)
  同館は、考古学者であった江上波夫氏のコレクションをもとに、本年3月横浜市が設立した博物館。


 平和維持活動への参加―時系列(「外交青書2002」)より
 

●:国際平和協力法に基く派遣 ●:外務省設置法等に基く派遣
1988.6-1989.11 国連アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション(UNGOMAP)
政務官1人 ●
1988.6-1989.11 1988.8-1989.11 国連イラン・イラク軍事監視団(UNIIMOG)
政務官1人 ●
1989.10-11 1989.10-11 国連ナミビア独立移行支援グループ(UNTAG)
選挙監視要員27人 ●
1991.5-11 1991.5-11 国連イラク・クウェート監視団(UNIKOM)
政務官1人 ●
1991.12-1993.9 1991.12-1993.9 国連カンボジア先遣隊(UNAMIC)・国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)
政務官1人 ●
1992.9-10 第二次国連アンゴラ監視団(UNAVEMII)
選挙監視要員3人 ●
1992.9-1993.9 国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)
停戦監視要員8人、文民警察要員75人、施設部隊600人、選挙監視要員41人 ●
1993.5-1995.1 1993.5-1995.1 国連モザンビーク活動(ONUMOZ)
司令部要員5人、輸送調整部隊48人、選挙監視要員15人 ●
1994.3-4 国連エルサルバドル監視団(ONUSAL)
選挙監視要員15人 ●
1994.3-1995.12 国連保護軍(UNPROFOR)
政務官1人 ●
1996.2-現在 国連兵力引き離し監視軍(UNDOF)
司令部要員2人、輸送部隊43人、連絡調整要員4-6人(逐次交替) ●
1998.4-7 国連タジキスタン監視団(UNMOT)
政務官1人

1999.6-9 国連東ティモール・ミッション(UNAMET)
政務官1人 ●
1999.7-9 国連東ティモール・ミッション(UNAMET)
文民警察要員3人、連絡調整要員3人(逐次交替) ●
1999.8-2000.12 国連コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)
幹部要員1人、民生官1人 ●
2000.2-2001.2 国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET)
民政官 3人 ●
 
 上記活動に参加した日本人のなかで、以下の4人の方々が亡くなられました。
 
・久保田洋氏 {(1989年、ナミビア、国連ナミビア独立移行支援グループ(UNTAG)}
・高田晴行氏{1993年、カンボジア、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC) 文民警察官}
・中田厚仁氏{1993年、カンボジア、国連ボランティア}
秋野豊氏{1998年、タジキスタン、国連タジキスタン監視団(UNMOT)政務官}
 

※近年、平和維持活動および関連活動要員の死傷者が増えており、その安全の確保が喫緊の課題となっている。こうしたなか、日本は1995年、「国連要員及び関連要員の安全に関する条約」(1994年、総会採択)の2番目の締約国となった。その後、同条約は、1999年1月に発効した。


国連大学秋野豊記念事業更新:2003年7月8日
1998年7月に、タジキスタン国連監視団 (UNMOT) の一員として派遣され殉職した、筑波大学助教授(当時)の秋野豊氏を記念して、日本政府では国連大学に1億円の拠出を行いました。
国連大学では、その拠出金をもとに、秋野氏の遺志を継ぎ国際貢献のできる日本の人材を養成するために、以下の4つの事業を、向こう2-3年間の予定で展開しています。
関連プレスリリース
 
1. 「秋野記念研究プロジェクト(フェローシップ)」
  ユーラシア研究を専攻していた秋野氏の意志を継ぎ、中央アジア専門家を養成するために5年間の「秋野記念研究プロジェクト(フェローシップ)」を設置しました。
2003年度に選ばれた4人の秋野フェローは3月に国連大学で指導教官から研究指導を受け、「中央アジアの平和と環境」研究のフィールドスタディーを開始しています。
 
2. 国連大学国際講座「秋野記念講座」
 国連大学国際講座のうち「武力紛争と平和維持」または「国際協力と開発」の科目を「秋野記念講座」と指定して開講し、その経費に拠出金を当てています。
 
3. 「秋野記念インターンシップ」

日本国外の国際機関でインターン(実習生)として働きたいと希望する日本人で、秋野豊氏の遺志を継いで国際貢献のできる人に対して、その必要経費(旅費、生活費、保険等)を最長1年まで支援しています。
 ただし、総額に一定の制限があります。募集は年2回(応募締切り:4月1日および10月1日)行っています。
 
4. 国連大学グローバルセミナー北海道セッション

 秋野氏が北海道出身であったことから、国連大学グローバルセミナー北海道セッションの開催経費の一部を、2000年度から3回分、拠出金で負担しています。
 


秋野チルドレン世界各地へ(共同通信)
 国連監視団政務官で元筑波大助 教授の秋野豊さん=当時(48)=が 中央アジアのタジキスタンでPK O活動中に反政府勢力に射殺され てから20日で5年。事件後の1999 年に設立された民間基金「秋野豊 ユーラシア基金」は、異色の行動 派学者とされた秋野さんの遺志を 受け継ごうと、地域紛争の現場で の研究や国際貢献に意欲を持つ若 者の支援活動を続ける。
[共同通信社:2003年07月19日 17時56分]

2003年07月19日(土)
秋野チルドレンを世界へ PKO活動中の死亡から5年

国連監視団政務官で元筑波大助教授の秋野豊さん=当時(48)=が中央アジアのタジキスタンでPKO活動中に反政府勢力に射殺されてから20日で5年。事件後の1999年に設立された民間基金「秋野豊ユーラシア基金」は、異色の行動派学者とされた秋野さんの遺志を受け継ごうと、地域紛争の現場での研究や国際貢献に意欲を持つ若者の支援活動を続ける。基金は学生らに「秋野豊賞」として現地調査のための研究資金を援助。これまでの受賞者の多くが、研究機関や非政府組織(NGO)で活躍しているという。「秋野さんに学びたい」との希望を持っていた森田太郎さん(26)は、事件を機に「何かの形で本人とかかわりたい」とボスニアで内戦時代に敵対し合った民族混成の少年サッカーチームを作ることを企画し同賞に応募。受賞を機に3年前、同国でNGOを設立した。


2001.10/13 リレーエッセイ秋野豊氏の思い出 第3回
(秋野豊ユーラシア基金
ニューズレター第4号掲載)

「秋野先生は僕達に化学変化を起こすcatalystだった」          
                          
 catalyst:化学反応に際し、反応物質以外のもので、それ自身  
 は化学変化を受けず、しかも反応速度を早める物質、触媒

 あの年、東京国際フォーラムでの「偲ぶ会」は、先
生を喩えるとても素敵な言葉で溢れた。
 奥様と二人を称して「セントバーナードとコリー」。
ロシアでぬかるみにはまったジープの脱出の助けとな
った「硬い石」、そして「電光」。この全てが先生を
象徴する素晴らしい喩えだった。

 そんな先生を僕は「触媒catalyst」の様に思う。
 先生が行く所、いつも停滞していた何かが化学変化
を始める。そんな印象がとても強い。
 バラバラな何かがそれに触れる事で激しく化学反応
を始める、しかしそれ自身は決して変化しない。
 秋野先生はそういう方だった。

 1987年10月23日。授業に出るよりも部屋で
本を読んでいたり、夕方になるとクラブの練習に出か
けるといった自堕落な生活をしていたあの頃。
 学食の前で、先生に偶然出会った。

 満面の笑みをたたえて先生は前方からやってきた。
「アサノさん。」
 先生は僕達を呼ぶ時でもいつも「さん」づけだった。
「見て下さい、できたての論文ですよ。よかったら、
 読んでみて下さい。ここにサインしておきますね。」
 そう言ってコピーにすらすらとサインを書いて僕に
手渡すといつもの様に悠然とした足取りで研究室の方
へと歩いていった。

 今、手元にあるサイン入りの論文のコピー。

 浅野学兄23/10/87秋野豊。
「ゴルバチョフの国内改革と東欧ブロック」
(ソ連研究No.5)手書きで10/27発行の意の書込。

 決して真面目な学生とは言えなかった僕に、何故先
生がコピーを渡して下さったのかは未だに分からない。
 もしかすると、最初に出会った誰でもよかったのか
もしれない、あるいは次々と学生皆に配って下さって
いたのかもしれない。
 でもその時は、自分だけに宝物を頂いた様な気がし
て、ただひたすらとても嬉しかった。

 それが本当に宝物になってしまう日がくるとは知ら
ず、学食でそれを読んだ僕は、感想も伝える事なく、
ノートに挟んだまま、やがて卒業してしまった。

 あの日、訃報を聞いた時、本棚の奥からノートを引
っ張りだした。色褪せたブルーの万年筆で書かれた先
生のサイン。不真面目な生徒に過ぎなかった僕にまで
「アサノさん」と呼び掛け「学兄」と気軽に書く、そ
んな先生を思い出し、サインが滲んで見えなくなった。

 その時、何かが僕の中で化学変化を起こした。
 夢中でパソコンを叩き、ホームページに先生の想い
出を綴った。(http://www.mars.dti.ne.jp/~asanos)
 
 昨年末、このホームページを見て、一人の女性がE
メールをくれた。「秋野先生と日本に帰る飛行機の中
で出会い、訃報を知り、北海道へ出掛ける機会がある
ので是非、お墓参りをしたいが連絡先を教えて欲しい」
とのことだった。

 秋野先生のことをホームページに載せながら、実は
奥様にも偲ぶ会の一般参列者としてしか御挨拶をした
ことがない。ましてや御自宅などお邪魔した事もない
僕にとって、頼りは北海道出身同期のH君とユーラシ
ア基金の広瀬さんだけだった。

 そこで早速H君にアドバイスをもらい、広瀬さんに
Eメールで連絡を取り、手筈を整えて頂いた。
(実は、広瀬さんにもお会いした事がないのだが...)

 こうして、僕の中に起こった化学変化が、たまたま
一人の女性にも影響を与えることになった。

 以下は彼女が北海道を訪れた後に下さったEメール
の全文である。ご本人の許可を頂きここに掲載させて
頂く。

------------------------------------------------

11月18日に、札幌の秋野邸にお邪魔させて頂きま
した。事務局の広瀬様より、「豪快な秋野氏をあたた
かく包み込んでいた人」とのメールを頂いていたので、
なんとなく、「日本の母」的な、ふくよかな女性を想
像していたのですが、出迎えてくれたのは、ほっそり
とした笑顔の美しい方でした。

 思えば、氏の生きたワールドワイドな世界とは縁も
ゆかりも無い私が、ご自宅までお邪魔させて頂くこと
となったのは、数年前に、日本に帰る飛行機の座席が
隣り合わせになったことがきっかけでした。
 初めての一人旅の海外旅行でイギリス・フランス・
イタリアと廻って来た私に、モスクワ空港から乗りこ
んで来た国籍不明の男性が秋野氏でした。
 エコノミーの狭い座席に根を上げる私に、大きな体
躯を折り曲げながら「ああ、快適だ−!」と言ってに
っこりしていた氏の旅は、旧ソ連邦の国々の様子をそ
の目で見てくることだったと記憶しています。
 氏の話す全くの「ドキュメント」は、戦場など映画
でしか知らない私には衝撃的の一言でした。私の旅し
た美しい西洋の、陸続きに戦地がある。恐怖というよ
りは不思議な感じがしました。そこから戻って来た氏
だけが、確かな証拠のようによく笑い、深く眠ってい
らっしゃいました。

 居心地のいい明るい暖かい室内で、美味しいコーヒ
ーを頂きながら、奥様にその時の会話のやり取りをお
話していると、なんで、あの不死身の印象を持つ氏が
居ないのかが、分からなくなります。

「憎しみや争いは不毛だと言うことを、小説や映画で
私は学習してきたけれど、秋野さんは大切な者を奪わ
れたら、憎むこと、復讐しようと思うのが当然とおっ
しゃっていました。それは私にとって、凄く衝撃的な
言葉でした。」というと、婦人は「秋野はよくそう言
っていました。そうして、そういう気持ちを持ってい
なければ、戦争によって、傷付いた人の上に、停戦や
ら平和やらは語れるはずも無かったでしょう。」
 どなたかの追悼文に婦人の言葉として「これからは、
秋野はもうずっと側に居てくれる。」と載っていまし
た。私には不死身と思えた氏の命を、婦人はきっと、
「生身」のものと感じていたでしょう。それでも、氏
の言葉を理解でき共鳴できたが為に、世界中を飛び回
る背中の翼を折れず、あるいは、むしろ慈しみ守って
きた・・、そんな思いが致しました。(手前勝手な思
いで叱られそうですが)

あの日、飛行機で隣り合っただけの出会いですが、そ
の圧倒的な存在感と、後に訪れた喪失感は、私の人生
の中に「平和」という言葉を灯して行きました。今後
とも、微力ですが、なんらかの形で平和の活動に関わ
って行きたいと思っております。

最後になりましたが、不躾な訪問に時間を裂いて下さ
いました奥様、お忙しい中、我儘な願いを叶えて下さ
いました淺野様と広瀬様並びに秋野豊ユーラシア基金
の皆様、本当にありがとうございました。
今後、私のようなもので協力できる事がありましたな
ら、お手伝いさせて下さい。

2001年1月6日  菊永 良子

------------------------------------------------

「化学反応に際し...それ自身は化学変化を受けず、
 しかも反応速度を早める...」

秋野先生は僕達に化学変化を起こす。
その想い出もまた。

以上


2001.2/3  ユーラシア紛争調査プロジェクト
       第三回「秋野豊賞」募集要項

対象 ユーラシア大陸の地域紛争の現場に赴き、その地で調査研究活動を行ったり、NGO
   などを通して国際貢献をしようとする熱意を持った人(日本国籍を持つ者または
   日本での永住資格を持つ者)
    ※1.なおここでいう「ユーラシア大陸」とは広義の意味であり、欧州、ロシア、
      中央アジア、中近東、南アジア、東南アジア、東アジアなどを含むものとします。
    ※2.類似のプログラム・奨学金を二年以内に受けている方については、なるべく多く
      の方に機会を与えるという観点から、応募を遠慮願うこともあります。

募集人員
 大学院生部門(オーバードクターを含む、常勤職についていないこと)
                 若干名(第一回実績2名、第二回実績3名)
 大学生または社会人一般部門    若干名(第一回実績1名、第二回該当者なし)

助成金額
 1名につき50万円(旅費およびそれに伴う調査費・研究費など)
  ※最初に40万円を支給し、報告書が提出された段階で10万円を支給します。

採用後の義務
  1.採用された場合は、2001年7月前後に開かれる東京での授与式に出席していただきます
   (ただし交通費は支給されません)。授与式では秋野豊ユーラシア基金と誓約書を交わ
   していただいたうえで助成金を授与します。また第一回受賞者、第二回受賞者などとの
   交流も予定しています。
  2.提出済みの調査・研究プロジェクト計画書に基づき年内に完了するような調査・研究
   活動を実施していただきます。なお調査旅行から帰国後一ヶ月以内に会計報告書(領収
   証添付)を提出し、調査終了後半年以内に調査報告書を作成していただきます。

応募書類
 応募者は次の書類を下記の事務局宛に送って下さい。
  1.履歴書(市販のもので結構です)
  2.調査・研究プロジェクト計画書
   A4版の用紙にワープロにて以下の項目に従って調査・研究プロジェクト計画書を日本語で
   作成して下さい(英文は不可)。分量は自由です。
    (1)どの地域紛争に関心を持っているか
    (2)具体的に何をやりたいのか
    (3)それをどのような方法で実現しようとするのか
    (4)どのような効果・成果が期待できるのか
  3.これまでの活動実績・業績などがあれば添付して下さい。

締め切り
  2001年5月2日(水)必着

採用決定日
  2001年5月末予定

応募先
  〒151-0061
  東京都渋谷区初台2-24-1-205
  秋野豊ユーラシア基金事務局 宛て
※頂いた書類は採用の可否にかかわらず返却いたしません。

問い合わせ先
 問い合わせはEメールまたはファックスで秋野豊ユーラシア基金事務局宛てに
 お願いします。
   E-mail: info@akinoyutaka.org
 ファックス: 03-5350-3932

頂いた応募書類は次の方々による厳正な書類審査を経て採用が決定されます

 審査委員長
  木村 汎  国際日本文化研究センター教授
 審査委員
  大島美穂  津田塾大学助教授
  柴 宜弘  東京大学教授
  立山良司  防衛大学校教授
  村井友秀  防衛大学校教授


2000.11/18 検索エンジンで弊HPをお知りになり、連絡先を尋ねられて、
        秋野豊先生の御自宅訪問をなされた菊永さんのレポートです。

11月18日に、札幌の秋野邸にお邪魔させて頂きました。
事務局の広瀬様より、「豪快な秋野氏をあたたかく包み込んでいた人」とのメール
を頂いていたので、なんとなく、「日本の母」的な、ふくよかな女性を想像していた
のですが、出迎えてくれたのは、ほっそりとした笑顔の美しい方でした。

 思えば、氏の生きたワールドワイドな世界とは縁もゆかりも無い私が、ご自宅まで
お邪魔させて頂くこととなったのは、数年前に、日本に帰る飛行機の座席が隣り合わ
せになったことがきっかけでした。
 初めての一人旅の海外旅行でイギリス・フランス・イタリアと廻って来た私に、
モスクワ空港から乗りこんで来た国籍不明の男性が秋野氏でした。
 エコノミーの狭い座席に根を上げる私に、大きな体躯を折り曲げながら「ああ、快
適だ−!」と言ってにっこりしていた氏の旅は、旧ソ連邦の国々の様子をその目で
見てくることだったと記憶しています。
氏の話す全くの「ドキュメント」は、戦場など映画でしか知らない私には衝撃的の一
言でした。私の旅した美しい西洋の、陸続きに戦地がある。恐怖というよりは不思議
な感じがしました。そこから戻って来た氏だけが、確かな証拠のようによく笑い、深
く眠っていらっしゃいました。

 居心地のいい明るい暖かい室内で、美味しいコーヒーを頂きながら、奥様にその時
の会話のやり取りをお話していると、なんで、あの不死身の印象を持つ氏が居ないの
かが、分からなくなります。

「憎しみや争いは不毛だと言うことを、小説や映画で私は学習してきたけれど、秋野
さんは大切な者を奪われたら、憎むこと、復讐しようと思うのが当然とおっしゃって
いました。それは私にとって、凄く衝撃的な言葉でした。」というと、婦人は「秋野
はよくそう言っていました。そうして、そういう気持ちを持っていなければ、戦争に
よって、傷付いた人の上に、停戦やら平和やらは語れるはずも無かったでしょう。」
 どなたかの追悼文に婦人の言葉として「これからは、秋野はもうずっと側に居てく
れる。」と載っていました。私には不死身と思えた氏の命を、婦人はきっと、「生身」
のものと感じていたでしょう。それでも、氏の言葉を理解でき共鳴できたが為に、世
界中を飛び回る背中の翼を折れず、あるいは、むしろ慈しみ守ってきた・・、そんな
思いが致しました。(手前勝手な思いで叱られそうですが)

あの日、飛行機で隣り合っただけの出会いですが、その圧倒的な存在感と、後に訪れ
た喪失感は、私の人生の中に「平和」という言葉を灯して行きました。今後とも、微
力ですが、なんらかの形で平和の活動に関わって行きたいと思っております。

最後になりましたが、不躾な訪問に時間を裂いて下さいました奥様、お忙しい中、我
儘な願いを叶えて下さいました広瀬様はじめユーラシア基金の皆様、本当にありがと
うございました。
今後、私のようなもので協力できる事がありましたなら、お手伝いさせて下さい。

2001年1月6日  菊永 良子



2000.7/11ハ 秋野豊先生の三周忌に「秋野豊氏三周忌企画「ルナ・パパ」チャリティ試写会」が開かれました。



 開場               17時50分
 開演               18時15分
 記録映像「にんげん秋野豊」上映  18時15分
 秋野洋子氏×筑紫哲也氏対談    18時40分
 映画「ルナ・パパ」上映      19時10分
 終映               21時

 新宿安田生命ホール
 後援/秋野豊ユーラシア基金、主催/ユーロスペース・J-WAVE


 とても良い映画でした。明るくて不思議で。主人公がとてもとてもキュートで。
 画面がとても綺麗で。タジキスタンのイメージが変わりました。見終わってから余韻の残る作品です。
 でも一番印象に残ったのは、秋野洋子さんと筑紫哲也の会談の最後に、筑紫さんが彼女に感想を聞いて
 「私にはあんなハッピーエンドが来るのかしら...」とポツンとつぶやいた時でした。
 明るいファンタジーでありながら、見終わった後、ファンタジーでなければ
 ハッピーエンドはない地域なのかもしれないとも感じましたが、
 それは洋子さんの胸のうちも同じだったのだと思い至りました。
 是非御覧下さい。7月下旬から「シネスイッチ銀座」にて独占ロードショウです。

 対談では、筑紫氏から「行動する」国際政治学者の源泉は「好奇心」であることや、
 「学」という字を「記」に置き換えれば、それがまさに自分のなりたかった姿であり
 羨望のまなざしで見つめていたことや、モスクワ時代に在ロシア日本人関係者達が秋野先生の恩師
 の訪ロシア歓迎会を開催したがその時の最大の興味は「彼(=秋野先生)は本当に学者なのか?」
 ということだったりといったエピソードを紹介されていました。
 彼(秋野先生)の評価は「行動派」ということに傾きがちだが、実際は博士号を取った「偽りの同盟」
 (チャーチルとスターリンの関係について論じた)に代表される緻密な研究者としての側面と
 「行動」を両立させたさせた点が希有な存在であるとも。
 洋子さんからは「秋野が家に居る時の方が楽だった。いつでも秋野が帰ってくるのが楽しみだった。」と。
 秋野先生の自宅でのマメな姿(家事をこなす)が紹介されました。
 同じ会場では秋野先生の遺稿集「ユーラシアの世紀」(日経新聞)が販売されていました。

 以上




99.7/20 秋野豊先生の一周忌に「秋野豊ユーラシア基金」が設立され、
    同時にユーラシア紛争調査研究プロジェクトの一環として第一回「秋野豊賞」の募集が行われます。
    当HPおよびAsano Enterprises Inc.では全面的にこのNPO活動を応援致します。
    基金への御賛同もお願いします。詳しくは下記を御覧下さい。

    会員 上記の趣旨および目的に賛同する個人および団体 [年会費 5000円]
     口座 郵便振替 秋野豊ユーラシア基金 02740−2−3000
     
    問い合わせはEメール(下記)またはファックス(03-5350-3932)で秋野豊ユーラシア基金事務局・広瀬様宛てにお願いします。

    CXJ15250@nifty.ne.jp




秋野豊ユーラシア基金設立/第一回「秋野豊賞」募集

1.秋野豊ユーラシア基金
                             1999年7月20日設立
設立趣旨
 本基金は1998年7月20日、国連タジキスタン監視団の政務官として活動中に凶弾
に倒れた故秋野豊氏の事件をきっかけに、同氏の平和と紛争解決への情熱やその生き
ざまに共感を覚える人々によって設立された。
 冷戦が終わり東西対立がなくなったことで、平和に対する期待は大きく高まった。
しかし現実にはバルカン、中東、中央アジアなど各地でかえって地域紛争が勃発し、
多くの犠牲者を生み出している。ところがこうした状況を直視し、紛争現場に根ざし
た研究を志す若者や国際貢献を行う若者はまだ少ない上に、経済的にも厳しい状況に
置かれている。またそもそも一般にも冷戦後の紛争に対する理解が不足しているのが
現状である。
 故秋野豊氏は国際政治学者として筑波大学で約12年間教鞭をとり、多くの若者を
指導したのみならず、自らすすんで紛争現場に赴き紛争研究・安全保障研究を行った。
 さらに研究者の枠を越えて、一人の人間としていかにして平和のための国際貢献を
果たすかをも模索した。最後となった国連タジキスタン監視団での活動も、
そうした同氏の実践の現れであった。
 本基金はこのような故秋野豊氏の精神を継承し、地域紛争の現場に根ざした
研究や国際貢献を行うような若者を一人でも多く支援し育てようとする運動である。

設立の目的
 本基金は行動する国際政治学者として紛争の解決に尽力した故秋野豊氏の精神を継承し、
ユーラシア大陸の紛争現場に根ざした形で安全保障研究を志す若い人々、あるいは
ユーラシア大陸の紛争現場において国際貢献をしようとする若い人々に対して支援を行い、
平和に資することを目的とする。

事業内容
 故秋野豊氏が研究者であったと同時に現場に根ざした実践家であったことを踏まえて、
事業内容は大きく三つの柱を置く。

 1.調査・研究助成
 2.国際交流・国際理解教育
 3.啓蒙・普及

1.ユーラシア紛争調査研究プロジェクト 「秋野豊賞」
 ユーラシア大陸の紛争現場に根ざした研究、調査、ないしNGOなどで国際貢献をしよう
とする熱意のある若者への旅費およびそれに伴う調査費・研究費等の助成を行う。

  大学院生部門(オーバードクターを含む、常勤職についてないことを条件とする)
               毎年1名(助成額 50万円)             
  一般部門(大学生を含む) 毎年1名(助成額 50万円)

2.国際交流・国際理解教育
 中・長期的な目標として本基金の助成を受けて活動する人々を中心としたシンポジウム
 や国際交流の支援を行い、国際理解の深化に努める。

3.啓蒙・普及
 助成を受けた人々の報告書など著作物の刊行を通して、ユーラシア大陸の紛争や国
際貢献への認識を深め、理解を広げる。

会員
 上記の趣旨および目的に賛同する個人および団体
  年会費  5000円

口座 
 郵便振替 秋野豊ユーラシア基金
      02740−2−3000

役員
 代 表  秋野洋子
 事務局長 広瀬佳一 防衛大学校
 理 事   四十物実 全日本空輸
      伊東孝之 早稲田大学
      岩下明裕 山口県立大学
      川初美穂 筑波大学(院生)
      袴田茂樹 青山学院大学
      細野昭雄 筑波大学
      吉岡 亨 札幌市役所
 監 事   秋野詔夫

2.ユーラシア紛争調査研究プロジェクト

第一回「秋野豊賞」募集要項

 秋野豊ユーラシア基金は、1998年7月20日、国連タジキスタン監視団の政務官として
活動中に凶弾に倒れた故秋野豊氏の事件をきっかけに、同氏の平和と紛争解決への
情熱やその生きざまに共感を覚える人々によって一周忌にあたる1999年7月20日に
設立された。
 冷戦が終わり東西対立がなくなったことで、平和に対する期待は大きく高まった。
しかし現実にはバルカン、中東、中央アジアなど各地でかえって地域紛争が勃発し、
多くの犠牲者を生み出している。ところがこうした状況を直視し、紛争現場に根ざした
研究を志す若者や国際貢献を行う若者はまだ少ない上に、経済的にも厳しい状況に
置かれている。またそもそも一般にも冷戦後の紛争に対する理解が不足しているのが
現状である。
 故秋野豊氏は国際政治学者として筑波大学で約12年間教鞭をとり、多くの若者を
指導したのみならず、自らすすんで紛争現場に赴き紛争研究・安全保障研究を行った。
さらに研究者の枠を越えて、一人の人間としていかにして平和のための国際貢献を
果たすかをも模索した。最後となった国連タジキスタン監視団での活動も、そうした
同氏の実践の現れであった。
 「秋野豊」賞はこのような故秋野豊氏の精神を継承し、ユーラシア大陸の地域紛争
現場に根ざした調査・研究や国際貢献を行うような若者を一人でも多く支援しようとする
研究助成プログラムである。

対象 ユーラシア大陸の地域紛争の現場に赴き、その地で調査研究活動を行ったり、
   NGOなどを通して国際貢献をしようとする熱意を持った人(日本国籍を持つ者
   または日本での永住資格を持つ者)

募集人員
 大学院生部門(オーバードクターを含む、常勤職についていないこと)
                     毎年1名
 一般部門(大学生を含む)       毎年1名

助成金額
 1名につき50万円(旅費およびそれに伴う調査費・研究費など)

採用後の義務
  採用された場合は、提出済みの調査・研究プロジェクト計画書に基づき翌年9月末
  までに完了するような調査・研究活動を実施する。帰国後直ちに会計報告書を提出し、
  3ヶ月以内に調査報告書を提出する。

応募書類
 応募者は次の書類を下記の事務局宛に送って下さい。
  1.履歴書(市販のもので結構です)
  2.調査・研究プロジェクト計画書
      A4版の用紙にワープロにて次のような点を含めた調査・研究プロジェクト計画書
    を作成して下さい。分量は自由です。
    (1)どの地域紛争に関心を持っているか
     (2)具体的に何をやりたいのか
    (3)それをどのような方法で実現しようとするのか
    (4)どのような効果・成果が期待できるのか
  3.これまでの活動実績を示すものがあれば添付して下さい。

締め切り
  1999年10月末日

採用決定日
  1999年11月末日予定

応募先
  〒151-0061
  東京都渋谷区初台2-24-1-205
  秋野豊ユーラシア基金事務局 広瀬佳一宛
  ※秋野豊ユーラシア基金事務局だけでは届かない場合がありますのでご注意下さい
  ※頂いた書類は採用の可否にかかわらず返却いたしません。
  ※審査結果は12月中旬までに通知します。

問い合わせ先
 問い合わせはEメールまたはファックスで秋野豊ユーラシア基金事務局・広瀬宛てに
 お願いします。

CXJ15250@nifty.ne.jp



   E-mail: CXJ15250@nifty.ne.jp
   ファクス: 03-5350-3932

頂いた応募書類は次の方々による厳正な書類審査を経て採用が決定されます。

  柴 宜弘     東京大学教授
  木村 汎     国際日本文化研究センター教授
  立山良司     防衛大学校教授
  袴田茂樹     青山学院大学教授
  村井友秀     防衛大学校教授


国際関係(総合)同窓会98年10月17日(土)開催!

無事終了しました。
世話役の皆様ほんとうにご苦労様でした。
近日中に当日の模様をアップ致します。


綾部学類長のお話より。
1. 「秋野豊記念資料室」構想(実現可能性大)
2. 「PKOトレーニングセンター創設」構想(夢)
心から賛同致します。
当ホームページ上でも上記構想の実現に向けキャンペーンを始めさせて頂きます!


全員集合!(近日中に部分アップも掲載します(^^;。)

1. 秋野先生追悼式
黙祷〜学類長挨拶〜主催者挨拶
〜ビデオ紹介(9/5の模様編集版)
〜各年次からスピーチ〜総括

(昼食:お弁当形式)

2. 同窓会発足式

(特報!)秋野先生「読売国際協力賞」受賞

秋野先生に「第5回読売国際協力賞」が贈られました。
(受賞理由)
(1)中央アジア研究の業績で国際的にも知られた学者として
   任務の危険性を熟知した上で、国際貢献への熱意と強い
   使命感から任務を引き受けた            
(2)現地では、その知識、経験、語学力、行動力を生かし、
   通常の監視活動の枠組みをはるかに超える調停努力で 
   和平進展に大きく貢献した             
(3)日本人の国際貢献への取り組み姿勢の範を身をもって 
   示した                      

(過去の受賞者)
第1回 緒方貞子 国連難民高等弁務官
第2回 AMDA (アジア医師連絡協議会)
第3回 明石 康 国連事務次長   
第4回 海外邦人宣教者活動援助後援会

当日配付予定の「秋野先生略歴」を掲載致します。
(秋野先生追悼文集収録、伊藤孝之先生寄稿「秋野豊小伝」より抜粋させて頂きました)


「行動しなければ自分が腐る」(98.9/5上映ビデオより)


<「秋野豊さんを偲ぶ会」速報>

約900人を集めて東京国際フォーラムで9/5午後1時半から開催されました。
開会〜默祷〜タジキスタン紹介。
小渕首相〜高村外相〜アナン国連事務総長(国連大学長代読)〜北原筑波大学長メッセージ。
ビデオ上映1「永遠に輝く男−秋野豊さんの48年」
佐藤英夫先生〜筑波大学院伊藤さん〜高校同級生四十物さん〜早大伊東教授メッセージ。
ビデオ上映2「Messages for Yutaka−秋野豊さんへのメッセージ」
弔電披露〜家族・代表者献花〜奥様からのご挨拶〜参列者献花〜閉会。
久和ひとみさんの司会によってしめやかに進行した会は、一連のビデオ上映でクライマックス。
先生と奥様を「セントバーナードとコリー」に喩えたお寿司屋さんの御主人に一同微笑み、
ロシアでぬかるみにはまったジープの脱出の助けとなった「硬い石」に喩えた研究者に一同うなずき、
そして高校後輩の方の称された「電光」に胸を刺されました。
そう、先生は私達の人生の一瞬のきらめき、まさに「電光」でした。
先生の力強い声を耳にし、あの大きな体を目にして、
それまでの喪失感でポッカリ開いた胸が静かに満たされていくのを感じました。
会が終わりに近付くにつれ、心に溢れたのは「悲しみ」ではなく、「勇気」でした。
私達の目前から去ってなお、生きる勇気を与えて下さる秋野先生。
胸が震えました。
先生、私達を遠くから見守っていて下さい。
先生に恥じない生き方を精一杯して参ります。
本当にありがとうございました。どうかゆっくりとお休み下さい。





<秋野先生のこと>

秋野先生の授業の思い出といえば、「コーヒー等飲み物持ち込み自由」。
今では珍しくないのかもしれないけれど、当時の僕には新鮮だった。
その許可の仕方も秋野先生らしく「皆さんも是非コーヒーでも飲みながら
僕の話を聞いて下さい。」あくまでも丁寧で、僕達を一人前の人間として
いつも対等に扱ってくれた。

「いつも親友として私と接してくれた」というお嬢さんのコメントを新聞で読んで
国際関係学類棟の研究室で先生と二人で話をしたことを思い出した。

どうして、あの時先生と二人っきりで話すことになったのかは覚えていない。
でも、あの夏の日、先生の大きな身体と青白くて細い僕はテーブルを挟んで座っていた。
ロシアと貿易をする「レポ船」に興味があった子供の頃の話や
「人にものを教える様になったら
堕落のはじまりだ」と人生観を話してくださった。
チェルネンコ書記長死去を夜通しKGBビルの窓の明かりが消えないことと
TV放送が荘重な音楽だけになったことから事前に予測したといった、
心踊らせながらも耳を澄ませた授業の話とは違って、
どうしてそういう話題になったのかは、分からないけれど、
ポツリとお嬢さんのことも話してくれた。

先生は、「なんの為に生きるのか」ずっと悩んでいたという。
「いつ死んでもいい」と若い頃はずっと思っていたという。
ところが、ある日、お嬢さんを連れて公園へ散歩に行き、
持ち上げて無邪気に笑う彼女の笑顔を見たとき、
「ああ、俺はこの子の為に生きているのだ」そう思ったと。
あの大きな身体に優しい笑顔を浮かべながら。
「ああ、俺はこの子の為に生きているのだ」と。

人間味溢れる素晴らしい先生でした。
言いようのない、喪失感を胸に深く感じています。

心から秋野先生の御冥福をお祈り致します。

筑波大学第三学群国際関係学類2期生 淺野茂生

[国際総合学類「秋野豊先生関連情報」HP]


厳密にはcopyrightの問題とか、クリアしなければならない事柄もあるかとは思いますが
とりあえず、ML等で得られた関連情報(新聞記事・論説・学術誌論文等)は、
出典を明らかにしてHP上で掲載していきたいと思います。
(関係者の方で問題があればご連絡下さい。)

秋野先生関連記事

秋野先生論文

23/10/87の日付入りで「浅野学兄」と書かれた秋野先生直筆サイン入り
の論文コピーが手元にあります。私ごときにまで、当時掲載された論文のコピーを
あの人なつっこい笑顔で「淺野さん、読んでみて下さい。」と手渡して下さった先生。
学生である私達のことまで「さん」付けで呼ばれ、本当にいつも丁寧な口調で話されました。
「ゴルバチョフの国内改革と東欧ブロック」(「ソ連研究」87年10月号)
これまでも、大切に書棚の奧にしまってありましたが、いまや私にとって秋野先生を偲ぶ
唯一の宝物となってしまいました。
機会を見つけて、これもHP上で掲載させて頂ければと思います。

<国関MLより抜粋>

(弔電)
あまりにも突然の悲しい知らせに、皆大きなショックを受けています。
ましてや、ご家族の皆様の悲しみはいかばかりかとお察し申し上げます。
からだ全部で研究テーマにぶつかっていく秋野先生のお姿から学んだことは、
私共の中でいつまでも生き続けることでしょう。
どうか安らかにお眠り下さい。

筑波大学第三学群国際関係学類第二期卒業生一同

「秋野先生の授業を受けたことはないんだけど、同じラグビープレーヤーとして、
可愛がってもらいました。卒業式に彼に贈られた言葉が忘れられません。
ぼくは今、みんなに何を伝えようとしているんでしょうか。
ちょっと動揺しています。だけど、何か言いたい気分です。」(T.H.君7/22)

「この事件はラブアン島滞在時に知ったので、詳しい情報は全く入ってこず、
はじめはただただ驚くばかり、次に悲しみが湧いてきて、今は強い憤りを感じています。
...(中略)...
マスコミの力はすごい、ペンの力は強いなぁなどと感じていましたが、
やはり武力の恐ろしさに勝るものはないのだろうかと
改めて怒りと悲しみがこみ上げてきました。」(T.K.君7/26)

【中日新聞7月23日付け夕刊「目耳録」より】
筑波大学の学生だった時、国連監視団に参加し、タジキスタンで非業の死を遂げた
秋野豊さんに、教えを受ける機会があった。と言っても、授業を受けた訳ではなく、
それはラグビー場だったり、居酒屋だったり、専ら、教室の外であったのだが…。
大学まで大型の外国製オートバイで通い、当時三十代半ばにもかかわらず、ベンチ
プレスで百/キロ/を上げた。ラグビーの社会人チームに入り、プロップとして最前
列でスクラムを支えた。
同じラガーマンだったからか、何かと声をかけてくれた。「おお、この前の試合な」。
眼鏡の奥の小さな目が人懐っこかった。
既存の研究者の枠にはまらず、何事にも、まず行動を起こした。閥を組む教授たち
に媚(こ)びることもなく、自ら正しいと思ったことを信じた。
「威張らず、威張られず」。卒業の日、秋野さんに贈られた言葉だ。
その通りの人生だった。
今はただ、ご冥福を祈りたい。(T.H.君7/29)

「秋野氏の遺志を無駄にしないように」って色んな人が言っているけど、「秋野の旦
那の遺志」って何だったんでしょうね。「他に行くひとがいないから自分が行く」と
の発言がえらく誇張されて報道されているような気がするけど、多分旦那はそんな
安っぽい正義感やセンチメンタリズムで行く人ではないでしょう。ヒューマニズムに
はあふれた人ですが、それをストレートに出すほど単純な人ではありません。紛争解
決の枠組みの研究のためではありましたが、単純に「平和を維持する」ために行った
のではなく、紛争の原因となっている人間同士の憎しみはどんなものなのか、それは
解決可能なものなのか或いは解決できないものなのか、解決できるとしたらどうすれ
ばいいのかを考えるために、「憎しみ合っている人間に直接触れてみたい」という冷
静な研究者の目だったのだろうと思います。
(中略)
旦那の遺志は、世界の色んな地域の研究をする人間がもっと日本人からも出てきて、
その人がその地域に入り込んで言葉を学び(旦那はその地域の言葉を学ぶことをとっ
ても重視していました)、現地の人と接しながら研究をして欲しいということなので
しょう。
国際貢献のことについては、旦那と議論をしたことはないので新聞報道の内容と旦那
の本音が一致しているのかはわかりませんが、旦那が尊敬するウィンストン・チャー
チルの言葉が引用されている処を見ると、国際貢献の必要性は旦那の本音なのでしょ
う。だとすれば、「地域研究者」の目的は、その地域の紛争の解決、平和維持、地域
社会・国際社会の安定・発展でなければならないのでしょう。
(中略)
そういう意味で、旦那の言う国際貢献は、観念的・理想主義的なものではなく、「血
を流し汗を流し」ながら行なう、現場に即した現実的・実際的なものなのでしょう。
「秋野ファンド」は、そういう研究者の養成と、彼らが自分の研究と日本の国際貢献
を兼ねて現場に入り込むことのできる機会を与えるために使われるべきなのだと思い
ます。
そして、我々研究者ではない人間達も、常にこの問題について考えていて欲しいと、
旦那としては思っているのでしょう。
かつて旦那の側にいて、旦那一流の「ジョーク」と「本音」を区別することのできる
我々一人一人が、「旦那の遺志」について考え、行動しなければならないのでしょ
う。(本当にどこまでがジョークで、どこからが本音なのか見極めるのがとっても難
しい人でした。)(Y.H.君8/14)


△Asano Enterprises Inc.