○伝正寺と淺野家
  DNESHOJI-temple & ASANO family


(「茨城の史跡は語る」(茨城新聞社刊)より)

 〜但し、写真は現地取材したもの NEW!

 「どっこい真壁の伝正寺」と呼ばれて親しまれている名刹天目山伝正寺は、真壁町桜井の山麓にある。
 石の町の寺らしく、寺号の標石、山道の石段、門柱と石塀、石像と石灯篭など寺のいたる所に花こう石
の石肌が目に映る。その中にあって、慶長年間に建てられた茅ぶきの山門と元禄年間に造園されたという
小堀遠州の流れをくむ庭園がひときわ古寺の面影を漂わせている。
 伝正寺は、文永五年(1268)、真壁城主真壁安芸守時幹が法身国師のために創建した。
 はじめは臨済宗で天目山照明寺と称したが、この開山には次のような伝説が残っている。
 

伝正寺山門
 

 法身国師は若いころ平四郎といい、時幹の下僕であった。ある冬の雪見の宴の折、平四郎は主君の木履
を懐で温めたが、時幹はしりに敷いていたと誤解し、その木履で平四郎の額を割った。これに発奮した
平四郎は、その木履を持って京都に上り、建仁寺の僧となり、性西を名乗り、修業を積んだ。
 後に宗(中国)に渡り天目山経山寺で九年間苦行を続け、仏法の奥義を極めて帰国した。
 法身国師の勅宣を得て、全国を行脚し弘法を広め各地に寺院を建立した。故郷に立ち寄った国師は時幹
の城中に招かれた。かつての下僕平四郎の顛末を知った時幹は、先非をわび、国師のためにこの寺を建立
したという。
 この話は戦前の教科書に「下駄の恩」として掲載され、広く全国に知られた。行為の結果は逆であるが、
信長と木下藤吉郎の出世の緒口の話と類似している。封建制度下における主従関係のあり方や従者の心得
を示唆するもので興味深い話である。この寺は、のちに相模国(神奈川県)早川の海蔵寺の僧安叟宗楞禅師
がきて曹洞宗に改宗された。
 

伝正寺庭
 

 慶長十一年(1606)、淺野長政が隠栖領として真壁・筑波二郡の内五万石を領し、真壁藩が成立した。
これより先、長政は長男幸長とともに関ケ原戦役では、東軍徳川秀忠の指揮下に入り戦功を挙げた。
 これにより幸長は和歌山城主となり、長政は江戸に住していた。真壁を領した長政は、この寺の住職
良雄大円和尚に会い、その徳風を慕い参禅仏法に帰依した。慶長十六年四月七日、長政六十五歳で卒し、
法名を伝正院殿功山道忠大居士とされ、この寺に葬られた。
 

淺野長政公の墓(伝正寺)
 

 長男幸長も間もなく卒し、その跡を二男長晟が継ぎ、後、広島藩四十二万石に転封した。三男長重は
父長政の真壁の遺領を相続し二代藩主となった。父の遺命によりこの寺の大檀越となって、寺号を長政の
法名から今の伝正寺と改称した。山門や本堂はこのころ淺野家の寄進によって建立したと伝えられている。

 長重は、大坂の陣では鴨野の合戦や道明寺口合戦で手柄を挙げた。また、江戸城半蔵門周辺を整備したり、
宇都宮藩主本多正純改易による城守衛をしたり、江戸幕府地固めに尽力した。このような功績によって、
秀忠から長重に加増転封の内示があったが、父の菩提寺のある真壁を領有されれば、加増の望みはないと
答えたという。そこで真壁を含む五万三千五百石で笠間城に転封された。
 笠間城主となっても真壁に居住したと伝えられる長重は、寛永九年(1632)九月三日四十五歳で卒した。
次代の長直は、父長重を祖父長政の墓の隣に葬った。伝正寺には今も本堂近くに、方形型の長政の霊廟と
並べられて長重の墓が残されている。

淺野長直公の墓(伝正寺)
 

 長直は、正保二年(1645)に播州(兵庫県)赤穂に転封した。四十六年後の元禄四年(1691)伝正寺
の本堂が焼失したので、同七年広島・赤穂の淺野両家が造営再建した。
 それから七年後の同十四年三月十四日藩主長矩は改易され、翌年淺野家浪士の討ち入り事件が起こった。
浪士の中には笠間藩時代に仕えた者や、真壁郡出身の子孫もいた。
 淺野家の心の故郷伝正寺を、浪士たちはどのように受け止めていたのであろうか。

淺野長勲(ながこと)公夫妻の墓(伝正寺)
 

天目山伝正寺の銘と淺野本家家紋入りの鋼製水桶?


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