○示現流と笠間藩
  JIGENRYU & Kasama-Han


茨城の古武道より抜粋

 示現流
 流祖は笠間の人

 小雨降る稲荷通りは肌寒い日だった。笠間古武道振興会会員、山中奎二(笠間警友会会長)さんの丁重な案内をいただいて、
示現流の流れをたどるため笠間稲荷神社に、笠間古武道振興会会長をされている宮司の塙端比古先生をお訪ねした。
塙先生からは主として史的観点からの懇切な説明をいただき、次いで示現流を伝承されている本間武男さんをお訪ねした。
 確かに伝書がある。「示現流兵法初段二段之巻」には、
夫当流之根源ハ常陸国鹿島大明神氏子飯篠若狭守長威ノ出人明神二参篭シテ兵術妙理ヲ願フ。
とあり、長威斉はここで伝授された神道流を、その子盛近、さらに盛信(参代目)にと相伝えていったのである。
 当時、常陸国佐竹家の随身に笠間生まれの十瀬興三左衛門長宗という武士がいた。
長宗は、盛信に早くから剣を学び師をしのぐ腕になり、自ら工夫を凝らし、ついに一派を成し、
師の流名天真正伝香取神道流の天真正をとり、下に自顕流とつけて、天真正自顕流と称んだ。
 燕の飛ぶ頭を切り割る妙法を得たというが、神道流のなかには講義で有名な、
“佐々木小次郎”の専売特許になっている「燕返し」が、ちゃんとおさめられているし、
十瀬長宗の飛燕切りも関連がありそうだ。
 また、現在の示現流に残っている形に「燕飛」があるが、
この流れは十瀬長宗以前の長威斉までさかのぼることができるかもしれない。
佐々木小次郎の燕返しは、作者の創作またはこじつけだという説も真実味をおびてくるのは、
やはり、神道流の流れのなかに、いくつもの燕の文字が出てくるのも、
神道流自体、奥伝のなかに燕返しがはっきり記されているからである。
 このようにして、天真正自顕流は、継ぎに金子新九郎に受け継がれ、
さらに東郷重位の師、京都松方山天寧寺の善吉和尚に伝わったものとされている。

 帰ってきた示現流

 「示現流は、日向の国延岡から牧野藩とともに伝わった(五代貞通の延享4年3月)もの」という説もある。
 流祖がこの土地にありながら延岡からとはどういうことなのか。流れる歴史には空白もあり、全て解明出来ないが、
少なくとも示現流は善吉和尚から九州島津藩主義久に従って上洛していた東郷重位に伝授され、
後に、薩摩を中心に一部九州地方に広められたものと思われる。一度出た示現流が流祖の地に帰ってくるとは何の因果だろう。
 しかし、長威斉の門人松本備前守政信に師事し、陰流を学んだ上泉伊勢守(日向)も若いころから鹿島を訪れていたこと。
 さらに、流祖十瀬長宗と長威斉の門弟との出合いを考え合わせれば、延岡と笠間の関係は奇遇とはいいきれまい。
 いずれにしても、僅か八万石の小藩であった笠間藩も、
これをきっかけに剣技では九州の久留米に匹敵するほど隆盛を極めるようになり、特に幕末多難の際は、
隣藩水戸の勇剛を以ってしても笠間を撃破することは困難といわれるようになった。
 そうしたことから、諸藩の遊暦剣客も一度は必ず笠間の地を踏んで剣術を練磨していったが、
この剣技の主流はなんといっても示現流と唯心一刀流であったことは明白な事実である。

 その極意

 この秘剣は、東郷重政が待捨流と自顕流の精髄を総合渾和して、示現流を編み出したもので、
示現の文字も法華経の中の「示現神通力」からとったもので、自顕より精神的高さを示しているとされている。
 ただ、示現流には、この流から出た薬丸自顕というものがあるが、幕末薩摩の志士の活躍にみるように、
薬丸はもっぱら下級武士によって盛んだった。
 本家示現流のほうは、上級武士にというよりは、単なる剣術の城を脱し、政治の域まで達していた感がある。
稽古法も、型の稽古以外は独特な発声でかけより、ひたすら立木や生木打ちの繰り返しが中心となり、
しかも打撃力が充実するのに四年間はかかるというから大変なものである。型の稽古と交互に行うのもこの流の特徴である。
 勿論その極意は、音なきに飛来するトンボの構えから、一気に襲いかかる燕返しの燕飛である。しかも、切れ味は「三切」といって
 夢幻泡影ノ如ク
 露ノ如ク亦電ノ如シ
 の瞬息さわやかな技法を厳しい鍛錬から学ぼうとしていたのである。
 立木から約十メートルほど後方に、莚(ゴザ)が敷いてあり、その上に棒が五〜六本並べてある。
長さは同じだが、太さ重さはまちまちである。その前に行き、蹲踞し右手をむしろの端に着いて棒に礼をする。
 実は、礼はあとにも先にもこれが一度きり、これは、戦場などで敵に対したときと同じ心境で、
いったん棒(刀)を手に執ったら、相手を殺すか、殺されるか、目的を達するまでは刀を納める必要ない、
という考えからきているという。
 示現流の精神や刀に対する考え方からみると、「刀は抜くべからずもの」と教えにある。
これは、よくいわれるように“武”は“戈”を“止”もの、とあるが、この精神が生きているのである。
刀を抜かず相手を抑えることこそ、最上の“礼”と考えている。
そのため、示現流の鍔には、小さな穴が二つあいている。この穴に針金で封をしていたとのことである。
 しかし、いったん刀を抜いてしまったら、「一の太刀を疑わず、二の太刀は負け」となる。
相手を斬り伏すまで鞘に納めてはならないとし、「刀は敵を破るものにして、自己の防具に非ず」で、その覚悟を厳しく教えている。

 活かされた文武の道

 塙先生の話しによれば、示現流が育まれた笠間藩は順風満帆の航行のときばかりではなかった。
とくに七代貞喜時代は、全国的に農民の暮らしは苦しく、むしろ旗を立てて領主や代
官に訴える百姓一揆も頻繁に起こった。
 これに対して貞喜は、農村の復興から藩の改革に至るまで広範な対策を講じたが、
中でも、このような苦難な時こそ武士道の建て直しが急務であると痛感した。
そこで優れた人材を育てるため、藩校「時習館」を鋭意開いたが、ここでは武士の子弟が八歳になると入学させ、
儒学を中心とする武士教育を行った。
 示現流の剣客島男也もこの時習館で教育され、後に諸国を巡歴中鹿島流剣法も併せて伝授され、多くの門弟の指導にあたった。
 この間、島男也は藩校での教育を体し、道修行の根本理念が護国・皇道の心にあることを強く訴え、
自らもいっさいの私念私情を捨てて、進行を広く普及実践していた。
 しかし、故あって脱藩した島男也の精神は、時の盛衰を乗り越え、藩の世臣村上家にも受け継がれ、
明治二年藩より示現流指南の命を受けた村上義治に至るまで、一日たりと伝習の道を怠ることなく奨励が図られてきた。
 このようにして笠間示現流は、県内各地にも多くの門人を養成することとなり、
近くは真壁、穴戸、遠くは出島、鉾田、太田、大子まで熱心な武術家を得た。
さらに、この流の指導を乞う人々数百の盛況にのぼり、別道場での稽古も度々であったという。
 さて、示現流の心技が活かされたのはこの頃である。警察史の記録によると、
明治9年11月27日真壁郡吉間村(現明野町)近辺の農民によって、物情騒然として各所に暴動が繰り返されていた。
 手に手に竹木を携えて気勢をあげ、立ち向かってくる暴徒に対して少数の警察官ではなす術もなく、
そこで要請したのが村内在住の示現流に心得のある腕利き剣士旧笠間藩士族であった。
 折りも折り、この種の事案は県内各地で発生していたが、士族班には暴徒の最大の拠点「伝正寺」を警戒させ、
勢いづく暴徒に対しては、それまで培った示現流の心魂を示し、戦わずして鎮圧した記録はあまりにも有名である。


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