春のうららかな日曜日。
祐一は特にすることもなく、やむをえずのんびりと休日を満喫していた。
名雪は朝から、地区大会予選とかで張り切って……多少寝ぼけながら出かけたきり。
真琴はバイト先の保育所の遠足とかでこれまた朝から出ずっぱり。多分美汐がお目付役で付いていっているはずだ。
残る秋子とあゆは買い物で隣町まで行ってしまっている。
ということで現在水瀬家には祐一一人が留守番の格好である。
間の悪いときはとことん間が悪いもので、舞と佐祐理は出かけているらしく連絡付かず。香里・栞姉妹もどうやら出かけているらしい。……もっとも多分、
「あゆや秋子さんと行き先は同じだろうな」
隣町の冬物ラストバーゲン。北のこの町で、冬物衣類の確保は冗談抜きで戦争だ。
ふと、一同が会して衣類を奪い合う様を想像してみる。
「……」
かなり想像が怖くなってきたので祐一は頭を振ってそれを追い払い、同時になんとなし空腹を覚えた。
時計を見れば、昼にはまだ少し間がある、というほどの時間。
「ちと早いけど……食うか」
とつぶやき、生あくびなどしながら祐一は階下へ向かった。
丁度、その足が一階の廊下を踏んだとき。
がちゃり、と玄関が開いた。
「あれ?早かったですね」
てっきり秋子とあゆが帰ってきたものと思い、振り向いてそう声を掛けた祐一は、
「ただいま」
という太い声の返事に思わず足を滑らせかけた。
「は?」
思わず、間抜けな声を上げて、玄関から入ってきた人物を見る。
年齢、30代後半といった風体。
にしては服装が妙に若作りだ。
垂れ目加減の人なつこそうな目だが、口元の髭が問答無用に「だんでぃ」を語っている。
その謎の男と祐一の声がきっぱりハモった。
「「あんた、誰だ?」」
その後、たっぷり一分の沈黙。
「……とりあえずここの家の者だが」
「俺もそうですけど」
ようやく口を開いてもこの調子である。
ややあって、謎の男の方が何やら考え込んだ風になったかと思うと、ぽむ、と手を打った。
「あぁそうかそうか、君がえーと……秀一君か」
「……誰ですかそれは」
ジト目で呟く祐一。
「ん?秋子の甥っ子だろう?今年の初めからこっちに住んでるっていう」
「って何でそんなこと知ってるんだあんたはっ?!」
謎の男が秋子の名を呼び捨てにしたことと、自分のことを知っている気味悪さに、祐一は声を荒らげた。
「すまんすまん。秋子が留守にしてるとは思わなかったんでな。今さらながらはじめまして、名雪の父の浩二郎だ。よろしく、秀一君」
「え?……名雪の……親父……さん?」
うむ、と頷く謎の男。
「仕事でかれこれ15年ばかり家を空けていた勘定になるんだが、これまた仕事の都合でこっちへ短期間戻ってくることになってね。久々に我が家へ顔を出してみたというわけさ」
……胡散臭さ当社比10割増し、という印象であった。
「と言われてもですねぇ。いきなりそれを信じろと?」
なおもジト目でそう言う祐一に、
「いやぁ、信じろも何も事実だし」
はっはっと笑う男。
「ただいま……あら、あなた」
と、男の後ろから祐一の聞き慣れた声がした。男がひょいと振り返る。
「お、秋子。いきなりだが帰ったよ」
「まあまあ。お疲れさま」
両手に一杯に荷物を抱えて、秋子が男に向かって微笑んでみせる。
「あ、祐一さん。紹介しますね、夫の浩二郎です」
秋子自身にそう言われては祐一としても納得するよりほかなかった。
「……えーと……相沢『祐一』です。どうぞよろしく」
一応間違われた名前を強調して、祐一は男──浩二郎に挨拶を返した。
「それにしても突然でしたわね」
秋子とあゆが早々に買い物を切り上げて来ていたので、昼食は浩二郎を含めて4人でということになった。
「ボクびっくりしたよ〜」
あゆは未だに目を丸くしている。
「うん。突然に予定が決まってね」
ずずっ、と茶を啜りながら、浩二郎。
「一体なんの仕事をしてらっしゃるんですか?」
つい、祐一が聞くと、
「「企業秘密」」
夫婦同時の答えが返ってきた。
「それで、いつまでこっちにいるの?」
ひとわたり片づけが済んで、秋子も食卓に戻った。
「今回の件が片づくまでだから……はっきりとは言えないが、長引かせるつもりはない」
浩二郎はきっぱりとした口調でそう言った。
「せっかく帰ったんですから、ゆっくりして行ければよかったんですけど」
秋子は軽いため息を落とした。
(しかし……名雪のやつ、帰ってきたら驚くだろうな……)
などと考えながら、祐一は改めて浩二郎を見やる。
秋子も名雪ほどの娘がいるとは思えないほど若く見えるが、浩二郎もそれに釣り合った若作りである。二人を交互に見ていると、名雪の顔の造作が、両親からちょうどよく受け継いだものであることがよく分かる。
そもそも祐一としては、「名雪の父」という存在は端から鬼籍にあるものと思いこんでいた。小さい頃に世話になっていたときも、浩二郎の姿を見かけた覚えはなかったし、単身赴任だとかいう話を聞いた覚えもなかったからだ(逆を言えば死んだとも聞いていなかったわけだが)。よくよく考えればこれだけ広い家に仏壇の一つもないのは妙といえば妙だが、その辺は個人の信条というものもある。
「あの……」
思わず、祐一は声を発した。
「?」
残り3人の視線が集まる。
「このこと……浩二郎さんが単身赴任してたこと、名雪……知ってるんですか」
浩二郎と秋子はきょとんと顔を見合わせた。
「単身赴任か……ま、言い方はともかく、言ってはあるだろう?」
浩二郎の言葉に、
「ええ、遠いところに行っている、とは……」
「「「それはいくらなんでも意味が違うでしょうが!!!」」」
秋子の答えに思わず残り3人のツッコミがハモる。
「あ、いやまいったなこりゃ。いつの間にか殺されているとは思わなかった。……やはり最強は秋子、きみだな」
秋子に向かってぐっ、と親指を立ててみせる浩二郎。それに対して秋子の返事は例の如く、
「了承」
……実にお気楽な夫婦であった。
というわけで、祐一とあゆは駅前で名雪を待っていた。
地区予選は電車で3駅のところの県立陸上競技場で、2時までの予定であったはずだ。終わってからの諸事を考えても、多分こちらに着くのは3時くらいにはなろう。
「流石に、死んだと思っていた父親がいきなり現れたら、あの天然自動爆睡娘もかなりのショックだろう」
「うぐぅ、言い過ぎだよ」
あゆが突っ込むのは聞き流して、祐一は手に持った缶コーヒーを手持ち無沙汰に放り上げた。そろそろ、この町でも、ホットよりはアイスの方が飲みやすい季節になりつつある。
その、アイスコーヒーが、いい加減ぬるくなった時分に、ようやく駅の出口に見慣れた制服の一団が姿を現した。
それなりに体育会的な挨拶の後で、解散した一団の中から名雪が駆け寄ってきた。
「あ、祐一、あゆちゃん。ただいま」
「お帰り、名雪さん。……あの、ね、」
口ごもるあゆに、「?」マークを顔中に浮かべて名雪は首を傾げた。やむを得ず祐一が後をつなぐ。
「えーとだな……実は、だ、名雪。……親父さん、帰ってるぞ」
あれこれと言い方は考えていたのだが、結局祐一の口から出たのは端的な事実そのものだった。
「……??」
端的に過ぎたのか──名雪の表情はしばらく「?」のままだった。
ややあって……ゆっくりと、その表情が硬くなる。
「祐一。……怒るよ」
「ちょ、ちょっと待て、落ち着いて聞け。お前は知らなかったかもしれんし、俺も知らなかったんだが、お前の親父さんは生きてて、それが今日昼前にいきなり家に帰ってきた。秋子さんが身元を保証してる。これは紛れもなく事実だ」
落ち着いて、という割に自分の方が慌てて、祐一は一気にまくし立てた。
「……お母さん……が?」
その一言がかなりの揺さぶりになったらしく、名雪の怒りは静まったようだった。が、今度は祐一達が予想していたとおり、相当にとまどった様子である。
「でも……なんで……今頃……」
「仕事の都合とかいろいろあったらしい。とりあえず、帰るぞ」
祐一が差し出した手を──名雪は、取らなかった。
「……少し、本見て、百花屋寄ってから帰る」
うつむけた視線を逸らして、独り言のように呟く、名雪。
「じゃ、俺達も……」
言いかけた祐一の袖をあゆが引っ張った。振り向いた祐一に、ふるふる、とかぶりを振ってみせる。
「ごめんね。遅くならない内に帰るから」
くるり、と二人に背を向けて、名雪は商店街の方へ歩いて行った。
「ボクだって……いきなりお父さんなんて出てきたら、ああなると思う……」
あゆがぽつり、とそう言い、祐一はため息をつきながら、名雪の背中を見送った。
日曜の夕方の校庭には人影がなかった。
名雪は日陰に荷物を置き、その横にぺたん、と座りこんだ。
(お父さん……なんて……)
物心ついたときには、すでに水瀬家は母と二人だけの空間だった。
祐一や香里といった人間が訪れることはあっても、あくまでそれは「客人」だった。無論、居候という立場になった今の祐一は違うにしても。
少なくとも……「父親」などという存在は、水瀬家になかったのだ。
おとうさんはどこ?
……幼い日には聞いたこともあるのかも知れないが、覚えてはいない。
それは──聞かずともよいこと、聞かぬ方がよいこと。
無意識にそう、思っていた気が、名雪はしていた。
幸いにして、周りの人間にも恵まれていた。彼女に父親がいない、ということを、ことさら名雪に意識させるような言動を取る人間はほとんどいなかった。
今になって……記憶の限りでは初めて会う父親など、
(まるで……お母さんの再婚相手みたいに、見えるんだろうな)
一目見て父親だ、とは、思えないに違いない。
正直言って、家に帰りたくなかった。
一瞬、父親がまた家を出るまで、香里の家に泊めてもらおうか……などという子供じみた考えが浮かぶ。
ふぅ、と息を落としたとき、誰もいないはずの校庭から規則正しい足音が聞こえた。
「??」
はた、と顔を上げて校庭を見ると、いつの間に現れたのか、一人の若い男がトラックを走っている。年は20代半ば、というところだろうか。ペースからして多分長距離のトレーニングだろう。フォームもリズムも見事に整い、走る姿が「美しい」と素直に感じられる、そんな走りだった。
ぼう、と見ている内に、名雪と男の視線が合った。
「あ」
名雪は思わず慌てて立ち上がり、スカートをぱたぱたとはたいて、荷物に手を伸ばした。
「どうしたの?」
その声が耳元で聞こえて、名雪は飛び上がった。
「きゃっ?!」
どきまぎしながら振り向くと、男は本当に名雪の目の前にいた。
「見ててくれても良かったんだけどね」
さわやかに微笑んでみせる男。
「あ、あのその……」
ただでさえ混乱していたところへいわば追撃を食らって、名雪は言葉を紡げずにいた。
「女子陸上部部長の水瀬さんだよね?俺は全国大会に向けての臨時コーチで、明日から男女陸上部掛け持ちで面倒見させてもらうことになってるんだ。よろしく」
「よ、よろしくおねがいします」
ようやくそれだけ行って、名雪はぺこり、と頭を下げる。
「それにしてもこんな時間にここで会うとはね。どうだろう、少しだけ時間あるかな?」
「はい?」
名雪は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で答えた。
「20分くらいでいいんだ。今の女子陸上部の状態を、部長さんから直接聞けると、いろいろと参考になるからね」
「え、えぇと……」
名雪の脳裏を秋子、祐一、あゆ、真琴、と水瀬家一同の顔がよぎった。
「いや、無理ならもちろん、明日でもいいんだけど」
「い、いえ、構わないです」
名雪はそう答えて、すこし作り気味の笑顔を浮かべた。
「そう、じゃあ、家まで送ろうか?」
「あ……えっと……よく行く喫茶店があるんです、良かったらそこで……あ、別におごってもらおうとか、そういうの全然ないですから……」
わたわたと答える名雪に、男は苦笑して、
「了解。では参りましょうか、姫」
すっ、と手を差し出す。
なぜか、名雪はその手を素直に取った。
このとき……名雪は、あることに気が付いていなかった。
校庭のトラックから名雪のいた場所まで──
どう考えても、普通の人間には、あれほどの僅かな時間で移動できる距離ではなかった、ということを。
「おなかすいたー」
帰宅するなりそう宣言してテーブルの一角を占領している「たれ真琴」が、またその言葉を繰り返した。だんだんボリュームダウンしているとはいうものの。
「まぁ、もう少し待ってみましょう」
秋子はのほほんとそう言うが、すでに時計の針は6時を回っている。
名雪は、まだ帰宅していなかった。
ひとまず居間に会している一同ではあったが、連絡もなにもなく、ただ緊張だけが漂っている。
カチャ、と受話器を置いて、あゆが戻ってきた。
「香里さんのとこにも行ってないって……」
しょぼくれた様子で力無く言う。
「やっぱり……追いかけた方が良かったかな」
祐一が何度目かの繰り言を漏らした。
「……」
浩二郎は一見平然としているようだったが、よく見ればその表情は強張っていた。
と──
鋭く、電話の呼び出し音が鳴り響く。
途端に、秋子と浩二郎の間に瞬時のアイコンタクトが飛んだ。
浩二郎がすっ……と受話器を取り、秋子はその横にそっと立つ。
「もしもし、水瀬です」
『娘は預かったぞ』
異様な変調の掛かった声で、いきなり相手はそう言ってきた。
「……それで?」
『無事に返して欲しければ余計な動きをするな……ということだ』
「そうはいかんな。売られた喧嘩は必ず倍額で引き取ってもらう。聞くまでもないが、名雪は無事だろうな?」
浩二郎の言葉しか聞こえない一同であったが、その返答で戦慄が走る。
『我々とて三流の役者ではない。貴様さえこの地から立ち去れば何事もなく返してやる。だが、立ち去らないと言うことなら……』
「返答は分かり切っているはずだ。これから名雪を取り戻しに行く。俺の娘に手出しはさせん!」
『既にその娘が我等の手中にあるのだぞ?……ヴァリアン』
「どこまでも卑劣な奴らめ……たっぷりと後悔させてやる」
奇妙な呼び方をされたことは意にも介しない様子で、浩二郎は静かに電話を切った。
「あなた」
秋子の呼びかけに、
「そういうことだ。出動する」
それだけ短く答え、浩二郎は席を立った。
「俺も行きます」
「出動」という言葉が多少引っかかりはしたが、そう言って祐一も立ち上がった。
「……いいだろう。ただし、引き際は理解して欲しい。私がここまで、と言ったら、たとえ名雪が目の前にいたとしても、後は私に任せるんだ。いいね?」
「……そんなに……危ない奴らなら、なんであんな挑発するようなことを?」
祐一がつい激昂して浩二郎につかみかかる。浩二郎はそれを動じずに受け止めた。
「奴らに名雪を害する気があるならもう手遅れと思っても仕方がない……だが、それで割に合うかどうか、の計算は、それこそ背筋が凍るほど冷酷にできる連中だよ。奴らはな。15年渡り合ってきたんだ、やり口はよく知っている」
「……」
「おそらく私が素直に帰るとは連中も思っていまい。私をおびき出し、直接始末するのが狙いだろう」
祐一の手をあっさりと引き剥がしながら、浩二郎は冷静に物騒なことを言った。
「秋子。サポートを頼む」
「ええ。ただ……あゆちゃんと真琴が……」
「そうか。この子達も人質に取られる危険がないではない、か……」
いきなり物騒な話が自分にも降りかかってきたので、真琴は飛び起きた。
「あう、真琴人質なんて嫌よっ」
「……やむを得ませんね。あゆちゃん、真琴、ちょっとこっちへ来て」
「?」
「なに?」
台所の方へと歩いていく秋子の後に付いて行くあゆと真琴。
それを見ていた祐一は、いきなり浩二郎に腕を引っ張られた。
「いくぞ、祐一君。とりあえず、名雪の行きそうなところへ案内してくれ」
「あ、はい」
浩二郎に引きずられるように、祐一は居間を後にした。
がらん……と誰も居なくなった居間に。
台所から一瞬強い光が射し込み、消えた。