「それ」は、存在である。
今の「それ」に名前はない。
姿も、ない。
ただ確固として、存在する。
「それ」は霧散していた。
天地の間に遍満していた。
稲光が「それ」の間を駆け抜ける。
「それ」の有り様に変化が生じた。
「それ」は周りの「気」をとりこむ。
原生動物のように、うねり、食らう。
あめつちの間の精気を、「それ」は貪った。
やがて一つの姿が凝る。
月光を照り返す表面は冷たい輝きを放つ。
地をえぐる八つの足はどこまでも鋭い。
その姿をひとは蜘蛛と呼んだ。
巨大な
一体の、銀色の蜘蛛。
「それ」が一度、ささいなことで蜘蛛の姿を失ってから、長い月日が過ぎていた。
(ちからがいる)
「それ」は思った。
(ちからが)
蜘蛛の姿を持った「それ」の糧は人の精気だ。
人の命、精力、「それ」はそういったものを食って力を得る。
(人里を探すのだ)
(人に紛れねばならぬ)
微かに残る以前の記憶から、「それ」は己の取るべき行動を判断する。
(人の姿を取るのだ)
「それ」は糸を吐いた。
しゅる
しゅる
白い糸が巨大なあやかしの姿を覆う。
昼夜が過ぎ、その中から銀と白との色がこぼれ出た。
二色は混じり合うことなくうねり、一つの形を作り出す。
銀は流れる髪。
白は肌。
若い人間の男の姿をして、「それ」はいた。
後に残した糸が形を変えて「それ」──男にまとわりつく。
見る見るうちに糸は遊行の僧侶の姿を作り出した。
これで長い銀の髪がなく禿頭であれば一層違和感のないであろう、一人の完璧な男の姿があった。
「人里を探すか」
つぶやいた男の肩に、小さな白いものがぽとりと止まって、消えた。
「雪か」
だが、この森の艶めかしさは、明らかに春の闇を男に感じさせた。
「名残雪だな」
男の姿が宙に舞う。
そして次の刹那には、男の姿は森から消えていた。
……その姿を一匹の狐が、じっと見ていたことなど、気にも留めずに。