予測していたことではないが、大したことではない。
「それ」は、小蜘蛛が弑されたことを、その程度に認識していた。
時間はたっぷりとある。
肉を得た「それ」は、十日に一人、人を苛めば充分に肉体を維持できる。食らうまでもない。
だが、かつての力を取り戻そうと思えば、一日に百人の人を食らっても追いつかぬ。
そのことは「それ」の力がどれほどのものであったかの証でもあった。
だけに、その日「それ」が見つけたものは、垂涎の獲物であった。
「それ」と同じく、ひとの姿をしてはいるが、ひとではないもの。
あやかしの体を持つ者。
その獲物についての情報を得ようと、「それ」は一匹の小蜘蛛を飛ばしたのだ。
だが、その小蜘蛛は、獲物の側にいた女に潰された。
その際の感触から、「それ」はその女も、ただの人間ではないと知った。
常ならざる力を有する者。
それはそれで、甘美な贄である。
だが、狙う獲物に比べれば、遥かに質が落ちる。
あの獲物を息が絶える寸前まで嬲り、壊れる寸前までいたぶり、そして食らう。
思うだけで「それ」の意識は高ぶりを覚えた。
「それ」は小蜘蛛が死ぬまでの時間に、わずかな手がかりを得ていた。
獲物の名前は「マコト」。
その時隣にいた女は「サユリ」。
小蜘蛛を潰した女は「マイ」。
一緒にいた男は「ユウイチ」。
じわじわと、「それ」はこの町に糸を放ちつつあった。
町全体に糸が行き渡ったとき、町は「それ」の巣に堕ちる。
そうなれば、この四人を捕捉することなど造作もない。
するり。
するり。
「それ」は薄笑いを浮かべながら、一本、又一本、糸を伸ばしていった。
数日後、常の目には見えぬ蜘蛛の巣が、北の町を捕らえた。
その気配を感じ取っていたのは一匹だけではなかった。
何匹もの狐が前足を上げ、ひくひくと不安げに鼻をひくつかせる。
<よからぬモノが来たようだの>
「長老」がそうつぶやいた。
<年経た蜘蛛めでございましょう>
側の狐がそう返す。
<少し前に蜘蛛を見た者がおったと聞くが>
<はい。白銀に輝く禍々しい蜘蛛が、人の姿に変ずるところを>
「長老」はしばらく口をつぐんだ。
<確か……あの町には、あの娘が暮らして居るのじゃな>
<は……>
<彼奴は気配を隠そうともして居らぬ。これほどの力を以てすれば、早晩目を付けられようの>
<しかし……もはや我々があの娘に関わることは禁忌では>
「長老」はじろりと側の狐を見やる。
<儂等とて安泰ではないぞ。あの娘には、人として生涯を全うできるほどの力を注いだのだ。それを食われてみよ。儂等がいかに隠れようとも、じわじわと見いだされ、狩られるが落ちじゃ>
「長老」はつい、と頭を上げた。人の姿とてない丘の上を、濃密な緑の匂いを含んだ風が過ぎて行く。視線の先に、人の作り上げた石の町があった。
<奴が力を付けぬ内が勝負じゃ。一族を挙げて、蜘蛛を討つ>
<かしこまりました>
ふっと側の狐の姿が消える。
間を置かず、ものみの丘は草ずれの音ばかりを残して、静まり返った。