俺達4人がものみの丘へハイキングに行ってから2週間が過ぎた。
このごろ、どうも様子のおかしい人間が二人、いる。
……いや。この二人は普段から行動がおかしいから、「めちゃくちゃ様子がヘン」くらい言ってもいいかも知れない。
真琴と、舞である。
この内真琴の方が、おかしさの具合が分かりやすい。
「あうー、誰か真琴のこと見てる……」
と、やたらに視線を気にするのだ。
秋子さんあたりに言わせると、
「真琴もお年頃ね」
とゆーことになったりもするのだが。
ただ、一人で部屋の中にいるときでさえ、視線を感じるというのは尋常ではないと思う。季節が暖かくなってきているせいもあるだろうが、ここのところ真琴が好物の肉まんをほおばっている姿をついぞ見ない。四六時中神経をとがらせているようだ。真琴がそんな様子なためか、ここのところぴろの姿も見ない。
一方、舞。
こちらの奇矯さは当然それに輪を掛けている。
顔をしかめっぱなしで、いらだたしげにぱたぱたと顔の前で何度も手を振るのだ。
舞が卒業した今となっては駅前でたまに会う位なのだが、会うたびにそんな様子である。
隣の佐祐理さんも、
「はえ〜……舞、ここのとこずっとこうなんですよー」
と困り顔だ。
「……糸がまとわりつく」
舞はそんな妙なことばかり言っている。
これだけなら。
これだけなら、単に普段から変な奴がよけい変になったと言うだけのことだ。特段よそさまに迷惑を掛けているわけでもない。
その日曜は、真琴姫が先のごとく御不例で、俺は暇を持て余していた。
世間様では俺のような立場の学生は寸暇を惜しんで勉強すべきなのだろうが(一応高校三年生というのは一般にそういうもののようだ)、真琴ではないが気が乗らないものはしょうがない、と過去問を放り出してベッドに横になっていたところだった。
とんとん。
ノックの音に不承不承ドアを開けてみれば、秋子さんが、
「祐一さん、電話ですよ」
と立っていた。
「誰からです?」
「川澄さんって、女の方。お知り合い?」
「あ、こないだ真琴と一緒にハイキングに行った奴ですよ」
俺はそう答えて階下の電話口へ急いだ。
受話器を取ると、
「……祐一、遅い」
いきなりぶすっとした口調で言われてしまった。
「しょうがないだろ、俺の部屋は2階で電話が1階なんだから。で?」
「……すこし……力の訓練をしたい。付き合って欲しい」
かなりためらいながら、舞はそう言った。
力、とは無論、かつて舞が「魔物」を生み出した例の力だ。
この力と言う奴、正直俺にも、どころか舞自身にもよく分かっていない。
よくある話で、この力のおかげで舞は小さい頃珍獣扱いされたことがあって、そんなこんなで自分が力を持っていることを舞が受け入れられるようになったのは最近のことだ。
端的に言えば、「現実を直接変える力」──というのが、その本質らしかった。
と言ってもごく小規模に、限定された範囲で、である。望んでいる現実と実際の現実の間にギャップがあって、それを埋めたいと思うとき、誰でも様々な手段を使って望んでいる現実を引き寄せようと試みる。舞の力は、そのプロセスを一切合切省いて、望んでいる現実を直接実現しようというものだ。
例えば、暑くてたまらないとき、涼しくなるように力を使えば、「うまくいくと」涼しくなる。そんな具合だ。そして、とりあえず今舞が使える力はその程度のものである。
そんな力が暴走でもした日にはかなわないので、舞は折を見て訓練をしていたようだ。それが、人に見せてもいいレベルに達した……ということだろうか。
「いいけどさ。なんで俺に?」
「……祐一の訓練に付き合ったお礼」
以前舞が「魔物」と戦っていたとき、俺の素振りを見てもらったりしたことがある。どうもその借りを……とまあ、そういうことらしい。
「じゃあ……例の丘でいまから30分後。それでいいか?」
「……はちみつクマさん」
まったく融通の利かない事では天下一品、舞は未だに俺に対してはこの受け答えを通している。最近では飽きるまで言わせとこう、と思うようになった。
「うし。じゃ、30分後な」
電話を置き、俺は秋子さんに外出する旨伝えると、支度をしてものみの丘へ向かった。
行ってみると、舞は動きやすそうなトレーニングウェアに身を包んでいた。少し頬が赤い。
「別に照れることないだろう」
開口一番そう言ってからかってやると、一瞬片眉をひそめて、いきなりチョップが飛んできた。
「……ここまでジョギングしてきた」
律儀に訂正する。ま、そんなところだろうと思ったが。
舞は目を閉じてすーはすーはと深呼吸をすると、
「……少し離れてて」
と言った。言葉通り、舞の顔色を見ながら都合5メートルほど遠ざかる。背後の木々の影が落ちかかった。
「……!」
言葉にならないほどの、瞬間の鋭さを持つ声が、舞の唇から放たれる。
すると……俺の目の前が、なにか、ぼんやりと歪んだ。
「?」
疑問符を顔中に浮かべて舞を見る。
「……今から、焦点を合わせる」
とたん、目の前にはっきりした像が結ばれた。
大体、半径50センチくらい。その範囲だけが、町を挟んで向こうの山の景色を、手が届くように映し出している。だが、そこには何も仕掛けはない。
「なんだ、こりゃ?」
「……望遠鏡」
……なるほど。たしかに……遠くのものが近くに見える。望遠鏡というのはそう言う道具だ。ただし、筒もなければレンズもない……が。
──舞の力ってこういう使い方もできるのか。
「なるほどなー。こりゃ便利だ」
その本人に目を移すと、いつの間にかぺたんと座り込んでいた。
「……つかれた」
そう言ってとうとう大の字になる。……某ぱんだか、おまいは。
「これ、他のところは見えないのか?」
「……ちょっと待って」
舞は大の字のまま目を閉じ、きゅっと唇を噛んだ。
「……」
無言で促す。俺はさっきの歪んでいた辺りに向き直った。
「お、よく見えるよく見える」
ちょうど駅前の辺りだった。道行く人の顔まで分かる。ちょっとした展望台気分だ。
だから、それがどうしても気になった。
「なあ、舞」
「……?」
今度は舞が疑問符だらけの顔でこちらを見る。
「さっき、向こうの山が見えてた時は綺麗に見えてたんだが、なんか曇って見えるんだ」
舞は首を傾げながら、不承不承といった体で体を起こし、俺の側まで来た。
「……」
ちょうど俺が見ている辺りを見て──
舞は顔色を変えた。
「……糸」
それだけつぶやき、舞はいきなり身を翻した。その右手をどうにか掴んで引き留める。
「ちょ、ちょっと待てって!!なにがどうしたんだよ!!」
「……気のせいじゃなかった。蜘蛛が糸を張っている」
舞はぐい、と俺の手から腕をほどいた。そして、今度こそすごい勢いで駆けだして行く。
「おい、待てって言っただろっ!!」
俺の声は舞の背中と山道に吸い込まれてしまった。
「……なんだってんだよなぁ……」
仕方ないので俺はもう一度『望遠鏡』を覗き込んで、
そして気づいた。
視界を曇らせていたもの。
もやのようなそれは──
無数に絡み合う細い、細い糸。
「これの……こと、か?」
そう言えば、舞はこの間から言っていた。「糸がまとわりつく」……と。
「でも、だから……なんなんだ?」
妙な糸であることは確かだ。少なくとも街を歩いていて、こんな糸が見えたことはない。見えない糸が、舞の『望遠鏡』を通して覗くことで、見えた。それがどういう意味を持つのか、さっぱり見当が付かない。
「帰る……か」
なんとなし呟いて俺はきびすを返した。
<小僧>
突然聞こえた声に、俺はぎく、と身をすくませた。
「だ、誰だ?」
きょろきょろと辺りを見回す。……誰もいない。後ろの木立の中に、一匹毛並みのぼろけた狐がいるだけ──
<ぬし、あの娘の婿であろう>
……また、声が聞こえた。やはり誰もいない。狐は……なにやら、俺の方をじっと見て──まさか?!
「今の声……お前……か?」
<ぬしのような小僧にお前呼ばわりされる謂われはないわ。痴れ者め>
狐の眼光が鋭くなった気がした。
やはり……この狐の声が、聞こえている、のか。
<ぬしとあの娘の祝言、儂ら一族、確かに見届けた。故に、娘の魂に一族の力をそそぎ込み、ぬしと添い遂げらるるよう計ろうた>
あの娘……というのは、真琴のことらしい。
<小僧。婿として娘を守れ>
狐はそう「言って」、林の中からこちらへ歩み出てきた。
「まも、れ?」
意味が分からず、「言われた」言葉をそのまま返す。
<先ほどの女が見抜いたとおり、谷にあやかしの蜘蛛めが巣を張っておる。このままのさばらせておけば、遠からず娘は蜘蛛めの餌食となろうぞ>
「蜘蛛?」
確かに舞もそんな風に言っていたが。
<蜘蛛の巣の内に蠢くものは、全て蜘蛛の手の内にあると同じ。小僧、ぬしもな>
「そいつが真琴を……狙ってるってのか」
その自分の言葉で、俺は二つのことを思いだした。
ハイキングの日、真琴の肩から、舞が銀色の奇妙な蜘蛛をはたき落としたこと。
真琴が視線恐怖に怯えていること。
あれは──
蜘蛛はもう、真琴に目を付けている……?
<古……この地にやはりよからぬモノが紛れ込んだ。儂ら一族は一人の人を選び、そ奴に力を貸し、あやかし奴を倒させた……それによって儂らも又あやかし呼ばわりされる羽目になったわい。口惜しや口惜しや、儂らに力があらば己を守るになんで人など頼ろうか>
狐はがりがりと地面を前足で掻いた。
<小僧。あの娘をあやかしと承知で娶ったぬしを見込んでの頼みじゃ。儂ら一族の力を貸す。蜘蛛を倒してくれ>
「……」
真琴を守る……ことが、嫌であろうはずもない。
だが、それが「蜘蛛を倒す」ということになると、話が変わってくる。
俺は、その蜘蛛の巣の中で、何も分からないまま、呑気に生活していたのだ。
嫌ではないが、出来るとも──思えない。
それが、狐たちの力を借りることで、可能になるのか。
ならば。
「その力を借りて、蜘蛛とかと渡り合えるってんなら……話に乗るぜ」
<……是し。なれば──>
狐の目が、光る。俺は身動きが出来なくなった。
<狗道回向法・討破力!!>
目の前が一瞬白く染まった。
<小僧。儂らはこれより、蜘蛛の糸の要に置かれた小蜘蛛を叩く。全ての要蜘蛛が討たれれば、一時、蜘蛛の巣は払われよう。その間が蜘蛛めを討つ機となる>
狐はくるりと体を返し──不意にもう一度振り返った。
<蜘蛛はしばしば下僕を作る。よく覚えておけ、蜘蛛は常に巣の真中に居るわけではない>
俺は街を見る。──蜘蛛の糸に白く霞む街を。
(糸が見える!)
「真琴……!」
俺は山道を全力で駆け下った。