がしっ!!
佐祐理さんの背中から飛び出した蜘蛛の足が、ビルの壁に食い込む。
きわどいところで当たってはいないが、完全に身動きがとれない。
無論、落ちた得物を拾うこともできない。
……いや、それ以前に、俺は佐祐理さんを傷つけるようなことはできない。
(打つ手なし……かよっ!!)
奥歯がぎりり、と音を立てた。
「……」
佐祐理さんは微笑みを凍り付かせたまま、じっとしている。
冷たい汗が顔を伝った。
「……!」
どこかで聞いたような鋭い音が聞こえた。
どっ……
ふっと、目の前の威圧感が失せる。
目をしばたたくと、なぜか佐祐理さんは足元に倒れていた。
蜘蛛の足も壁から引っこ抜けている。
「……?」
慌てて周りを見ると……路地の入り口に、長い物を提げた人影があった。
「……やっと見つけた」
聞き間違いようもない、ぶっきらぼうな声。
「舞か?!」
たっ、と人影は走ってくると、いきなりチョップをくれた。……やはり舞だ。
「……何をやっているの」
「何って……今の、舞か?」
今の、とは佐祐理さんがぶっ倒れた件だ。
こく。
舞は頷いて剣を構えた。
「?!」
その視線の先には……立ち上がった佐祐理さん。
「舞?!」
俺の声など聞こえていないかのように、舞は地を蹴り、佐祐理さんに斬りかかっていった。
佐祐理さんも黙ってはいない。俊敏に横へ飛び、手から白い奔流を繰り出す。
糸だ。
佐祐理さんの手から出た蜘蛛の糸が、舞の足を狙う。
舞の振るう剣がその糸を弾き飛ばす。
そこへ佐祐理さんの蜘蛛の脚が襲いかかる。
舞は危うく横飛びにそれをよけた。
二人の位置が入れ替わったところでようやく俺は現実に追いついた。
「舞っ、よせ!!」
とりあえず得物を拾って、呼びかける。
「分かってるのか?佐祐理さんだぞ、相手は?!」
「……だから……」
ぐっ、と舞が腰を落とし下段に構える。
「……だから、私がっ!!」
再び、佐祐理さん目掛け疾走する舞。佐祐理さんは……両手から糸?!
「くそっ!!」
俺は「力」を刃に乗せて槍を突き込んだ。正直へぼな一撃なので当たりはしないが、それでも佐祐理さんの姿勢が崩れ、糸が舞から逸れる。その佐祐理さんを狙っていた舞の体勢も同じく崩れた。結果、鋭さを失った舞の斬り込みを、佐祐理さんの蜘蛛の脚がどうやら受け止める。
「……祐一……邪魔するなら……帰れ……っ!!」
ぎりぎりと剣を押し込みながら、舞がうめく。
対する佐祐理さんは、舞の剣を蜘蛛の脚でひたすら押し返す。
そして俺は……それ以上手が出せない。
理屈では分かっている。佐祐理さんが今の俺にとって敵でしかないと言うことは。
だが……
「……くそっ」
俺は息を飲み込んで止め、目前の状況を見据えた。
このままでは、どちらかが深手を負う。死んでも不思議はない。
そして、佐祐理さんが勝てば、俺は真琴への道を閉ざされる。
覚悟を決め、俺は槍を構えた。二人ともそれには気づいたようだが……佐祐理さんは舞とのつばぜり合いに精一杯で、悲しいかな俺に手を回す余裕がないらしい。
「……佐祐理さんっ」
俺は呟いて──
佐祐理さんの、左側4本の蜘蛛の脚を一気に薙いだ。
「ぎ……ぐえぇっっ?!」
ひとの物ではない声を上げて佐祐理さんがのけぞる。
舞が地を蹴り、宙を飛んだ。
「……こんなもの……!」
落下の勢いを付けた舞の一撃が残る蜘蛛の脚4本を斬り落とした。
「ぐげぇぇぇぇぇっ!!」
舌を突き出し、佐祐理さんはわなわなと震えながら、数歩歩いた。
そして……そのままばったりと、うつ伏せに倒れていった。
「……」
言葉も……ない。
ひくりひくりと、佐祐理さんは弱々しげにけいれんを続ける。
その側に舞が近づいた。と思うと、いきなり剣を佐祐理さんのうなじに当てる。
「よせ、舞!」
それ以上は──舞にはさせられない。そう思った。
が、舞の剣はそのまま佐祐理さんの背中の上を走った。ぺらり、と服がはだけ、佐祐理さんの背中がむき出しになる。
舞はしゃがみ込むと、その背中から生えた蜘蛛の脚を掴み、ぐいと引っ張った。
べり。
肉質の音がして脚は佐祐理さんの体から引き剥がされた。
「……こんなもの、佐祐理には要らない」
べり。
べり。
一つずつ、舞は脚を引きちぎる。
佐祐理さんの背中が瞬く間に朱に染まった。
俺には止められなかった。
最後の一本が引き抜かれるとき──
佐祐理さんの体が、電流でも流したように大きく跳ねた。
「……」
舞は低く何かを呟く。
すると佐祐理さんの背中から、血が消えていった。白い肌には、傷の跡もない。
「……傷だけふさいだ。後は……私にもどうしようもない」
舞はそっと佐祐理さんを抱き起こし、上半身をビルの壁にもたせかけた。
そして、ふら、と、倒れた。
「舞!」
駆け寄り、舞を抱き起こす。
「……つかれた」
そう言って、舞は目を閉じた。息は……している。
「とにかく、お前も休め」
佐祐理さんから、ひとまず邪気の気配は消えている。俺は舞を、佐祐理さんの隣に座らせた。
「……あと、ひとつだけ」
舞は目を閉じたままそう言って、空中に手を伸ばした。
「……」
呟いたと思うと、そこには10才くらいの女の子が一人立っていた。どこかで見た顔だ。
「……これは!?あのときの」
「……分身を作った。前の魔物と同じだけど、ちゃんと祐一の言うことを聞く」
小さい頃の舞にうり二つの少女。その子が舞の剣に触れると、ちょうどその子にあったサイズの剣のミニチュアが、その子の手に現れた。
「……祐一、後は……お願い」
そう言って舞はくたり、とくずおれた。気を失ったようだ。
佐祐理さんも隣で弱々しいながら息をしている。
俺は女の子を見た。
女の子は頷くと、剣で路地の奥を指した。
佐祐理さんから引きちぎられた脚から、一本の糸が延びている。
佐祐理さんは小蜘蛛に過ぎなかったのだ。
これが……大本の蜘蛛の、操り糸か。
狐の忠告通り、蜘蛛は巣の中心にはいなかったわけだ。
「真琴は……そこなんだな?」
こく。
女の子が頷いた。
そして、見る間にその姿を変える。
頭だけが倍に膨れ上がった犬……と言うと一番近いだろうか。
犬はがちん、と歯を鳴らし、俺を促すように首を振った。
「よし……!」
俺は舞の分身にならって舞の剣を借りた。金属の抜き身の量感がずしりと重い。
そして、糸をたどり、再び駆け始めた。
「それ」は自分が焦っていることを不快に思っていた。
確かにいくつかの誤算はあった。
思慮が足りない故の過ちもある。
この娘の同族がいないわけはなかったのだが、その力を考慮することを失念していたことなどだ。
おかげで巣を失ったが、巣は又張り直せばいい。
獲物ごとに巣を張り替えるのは、蜘蛛にとってそれほど特別なことではない。
また、祐一とかいう男が娘の同族の力を得たことも余りよいことではない。
その程度でどうにかなるほど「それ」はやわではなかったが、棘が刺されば痛いのも確かだ。
そう言ったことはしかし、些事に過ぎぬ。
だから、「それ」は自分の焦りに苛立った。
けれども、今祐一が自分を目指していることはむしろ好ましかった。
祐一とこの娘を併せて苛むのもまた一興。
「それ」はじっと祐一を待った。
蜘蛛の狩りは──待つことに始まる。