糸は古ぼけたビルの中に続いていた。
ビル全体が白い糸に覆われている。
これが、蜘蛛の棲み家──ということか。
「真琴……」
犬──「魔物」が、がしゅう、と蒸気のような音の息を吐いた。
「行くぞ!」
入り口のガラス戸は壊れ、侵入を妨げるものはない。
……ということは、蜘蛛には、こちらの動きは読まれていると思うべきだろう。
むしろ、誘われている。
無性に腹が立った。
ぎりりと歯を噛みながら屋内に飛び込む。
中もまた、糸でほぼくまなく覆われている。
たまに混じる粘性の糸で、足場は最悪だ。
「魔物」は体の表面を滑らかな金属質に変えて、糸の付着を防いでいるようだ。
「力」を使って蜘蛛の気配を探る。……近くにはいない。
「魔物」が、不意に天井を見上げた。
「上にいるのか?」
俺の問いに、歯を噛み鳴らして答える。
俺は何も言わずに階段を探して走った。
程なく狭い階段が見つかる。それを駆け登る。
2階……蜘蛛の気配はない。
3階……やはり気配はない。
4階……いない。
5階……いない。
6階……いない──?
(待てよ。この辺に駅ビル以外、5階建て以上のビルなんてあったか?)
「くそ!!」
下り階段を見る。糸がいつの間にか、びっしりと俺達の退路を埋め尽くしていた。
「いい加減出て来やがれ、クソ蜘蛛野郎!!」
苛立ちに任せて、「力」を乗せた剣を手すりに打ち付ける。古びた石を砕くように手すりが砕けた。
がちがち……
「魔物」が激しく顎を噛み鳴らす。と、いきなりぐん、と体をたわめたかと思うと、胴体のない顎だけの姿になり、目の前の壁を、ぼろ布のように噛み裂いた。
がら……
崩れた向こうに、ひときわ濃い糸の塊。
一つ、二つ、……ざっと見て10個は下らない。
「なん……だ?」
思わず呟いたが、何であるのかは「力」がおよそ教えてくれた。
蜘蛛の餌食になった人たちの、あれが末路だ。
──まさか、あの中に真琴も?
「うわあああっっ!!」
もう自分でも何がなんだか分からない声を上げて、壁の向こうへ踏み込む。
糸の塊を斬り裂く。斬り裂く。斬り裂く。
ミイラのような、だがそれでも生きている──否生かされている人、ひと。
真琴の姿はない。さらに斬り裂く。斬り……
その時。背中に──凍り付くような、冷たい圧迫感。
あっと思ったときには俺の右腕は糸に縛められていた。しびれる手からまた、得物がこぼれ落ちる。
硬直する全身の筋肉をどやしつけて、それでも俺は振り返った。
僧形の妖魅が、そこにいた。
「ようおいでだの、祐一」
蜘蛛が薄く、笑った。
どうやら結局、俺はまんまと蜘蛛のまやかしに掛かっていたらしい。
蜘蛛の背にする壁には、さっき「魔物」が開けた穴など、跡すらなかった。
いつの間にか糸に包まれた人々も消えている。
「てめえ……真琴を」
蜘蛛は答えの代わりに、背後の床に転がっていたそれを、足蹴に転がした。
「?!」
自分がひっ、と息を呑んだ音がまるで遠くに聞こえた。
間違いなくそれは真琴だった。
だが──
けして太めではなかった真琴の体は、見る影もなくやせ衰えていた。
蝋のように白い体のそこかしこに青あざや細い傷が見える。
その哀れな肢体を、傷を、隠す布きれだにない。
そして遠目にも、その目が何も映していないことが分かった。
死んでいない……と、いうだけの、それは状態だった。
「……生かしておかねえ」
殺意というのがこれほど静かなものなのだと、俺は初めて知った。
「心地よい気よ……考えてみれば、人の身で我に挑むは、貴様が初めてだな」
ば、と笠を脱ぐ。下から、冷たく輝く銀の長髪と、可笑しげに笑う金の瞳が姿を見せる。笠は見る間に糸にほどけ、消えた。
「敬意を表して、我も人の姿で戦ってやろう」
馬鹿にしている。人の姿では、あやかしは本来の力を出し切れないはずだ。
右腕を縛める糸がふわりとほどけた。反射的にしゃがみ込み、剣を取り直す。
「後悔しろ、化け物!!」
俺は「力」を剣に込められるだけ込めて床を蹴った。右上段から蜘蛛の首根を狙い斬り下ろす。蜘蛛は糸を出すでもなく、揺らめくような動きですい、とそれをかわした。
(……!)
「力」の警告にあわててその場を飛び退く。稲妻のような蹴りが数瞬の差で俺のいた空間を薙ぐ。続けざまの拳と蹴りを紙一重でどうにかよける。蜘蛛は──笑っていた。
「我を化け物と言うたな、祐一。その化け物と契ったはどこの誰だ?」
蜘蛛は……わざと、手を抜いている。俺の反撃の機会だけを奪い、意識を奴に向け続けさせるために……。
「我に苛まれながら、真琴は貴様の名を呼び続けておったぞ。健気にのう。どうだ、今からでも聞いてみるか?まだ真琴の心は壊しきってはおらぬ故にな」
「うるせえぇっっっ!!」
「力」を込めて大きく飛びすさり、剣を構え直す。その間をあっさりと詰め、蜘蛛はふわりと俺の右手首を手で掴んだ。
吐く息が掛かるほどに顔を近づけ、蜘蛛は囁いた。
「そう焦ることもないか。遠からず貴様が力つきれば、その時は再び仲良く夫婦で睦ませてやる。我はそれをじっくりと苛ませてもらおうよ」
「……」
もう、感情が言葉を紡げない。
闇雲に放った蹴りを蜘蛛はふわ、と下がってかわす。
「う……うぅぅぅぅ……」
何かが俺の中で肥大していた。
それに、「俺」が少しずつ押しのけられて行く。
それは奇妙に心地よかった。
剣が床に落ちたが、もう気にもならない。
体中の体毛という体毛が逆立つのが分かった。
冷たい殺意と熱い怒りが相殺することなく混じり合い、それを土台に俺ではない俺が俺になってゆく。
「ほう……注がれた力に喰われたか。それもまあ面白い」
蜘蛛の言葉などどうでもよかった。
上体を傾け、半ば獣のような体勢で身構える。
「力」そのもので俺は床を蹴り宙に舞った。
蜘蛛は今さらのように糸を放つ。
小賢しい。
俺は向かってくる糸にためらいもなく噛み付いた。
釣られた魚のように宙を引き寄せられる俺。
蜘蛛の右拳が待ちかまえたように襲ってくる。
俺は左の手刀で拳、というより俺自身を反らし、口を開くと、蜘蛛の目を狙いざまに指を繰り出し、併せて喉笛目掛け食らいつく。
蜘蛛の左拳が鳩尾に決まり、俺は部屋の反対側まで吹き飛ばされた。
一瞬息が止まったが、痛みを俺は感じない。
再び蜘蛛目掛け床を走る。
蜘蛛も同じく俺に向かってくる。
伸び上がって再び喉笛を狙ったところを、逆に蜘蛛の手に喉笛を捕らえられる。
そのまま俺は壁に押しつけられた。
息が詰まるのは感じるが、それ以上の苦痛も恐怖もない。
「ぐるるる……」
獣のうなりが俺の喉から漏れた。
「存外しぶといな。あの拳、ただの人なら胃の腑が裂けていようものを」
「があっっっ!!」
蜘蛛の両腕に爪を食い込ませ、わずかなりと肉を千切ろうと俺はあがいた。
どす。
蜘蛛の膝が俺の脾腹にめり込んだ。
口から鉄臭い暖かいものがこぼれる感覚があった。
どす。
さらに蜘蛛の膝が極まる。
だが、痛みはなかった。
今の俺は、痛みを怒りで塗りつぶしていた。
「……吻」
蜘蛛は壁から俺を離し、勢いを付けて反対の壁へ放り投げた。
一瞬肺の中の空気がほとんど抜けて失せる。
壁に激突し、床に倒れた俺に蜘蛛はゆっくりと歩み寄ってきた。
「もうよいか。あまり痛めつけても、精が抜けてしもうてはかなわぬ故な」
ちょうど蜘蛛が部屋の中央にさしかかったときだった。
ぞぶり。
奇妙な音で、俺は俺でない俺から俺に戻った。
同時に戻ってきた痛覚に意識が飛びそうになる。
「……が?」
蜘蛛が、その口から、緑色の体液を吐いていた。
そのまま近寄ってこようともしない。
よく見ると、蜘蛛の下半身が妙なものに変わっていた。
くすんだ鉄のような、金属質の色をした、巨大な顎──
「舞!!」
俺の叫びに呼応するように、顎は軽く体を揺すった。
水気の多い音がして、蜘蛛の上半身だけが俺の右手の壁に叩きつけられた。
「な……ぜだ?あの時、こ奴は部屋の外に置き去りにしたはず……」
顎はがぱり、と口を開き、床と蜘蛛の下半身とを部屋の隅目掛けて吐き出した。
「……祐一が手間取っているから、何とか探せた」
どこから声を出しているのか、顎から舞の声がする。若干声が高い気がするのは、これが舞の分身だという証拠だろう。
「くおぉ……この我が、この我が人風情に!肯んぜぬ、肯んぜぬぞぉっっっ!!」
口と、腹の傷口から緑色の体液を垂れ流しながら、蜘蛛が叫んだ。
その体が小刻みに震える。
太い腕が各2本に分かれ、銀の長髪はするすると伸びて体を覆う。
めきめきと音を立てて体躯が膨れ上がり──
腹から後ろを失った巨大な銀色の蜘蛛が、声なき咆吼を上げた。
ほぼ重ねて外からのものとおぼしき轟音がとどろく。
と、顎が飛び上がり、天井を噛み砕いた。
ざあ……
同時に篠突く雨の音と雨そのものが室内に吹き込んだ。
光が閃き、再び轟音が辺りを揺るがす。
外はいつしか激しい雷雨になっていたようだ。
顎はくるりと方向を変え、俺の近くへ降り立ちざま、子供の舞の姿に変じた。
「……」
そのまま俺に抱きつく。いや……ではなく、俺の中に染み込んできた。
体中が上げる激痛の悲鳴がふっと和らぐ。
(……とりあえずわたしで傷をふさぐ。祐一、蜘蛛のとどめは)
「分かった。ありがとな、舞」
それでもきしむ体に俺はムチを打って立ち上がった。蜘蛛の目が俺を睨み据える。
カササ……!
4本しかない脚で蜘蛛は俺に迫ってきた。ちょうどその軸線上に、さっき取り落とした舞の剣がある。
俺は剣に走り寄った。蜘蛛が迫る。迫る。
がきん。
耳元で蜘蛛の顎が閉じる嫌な音をやり過ごし、投げ出した体の勢いで俺は剣をつかみ取った。
方向転換しようとあがく蜘蛛。その心臓の位置を俺は「力」で察した。そして残りの「力」を全て剣に託し──
全体重を掛けて俺は蜘蛛の体に剣を突き刺した。
オオオオオオォォォォ……!!
蜘蛛の苦痛のうめきが部屋の空間を揺るがした。
かさかさと脚を動かす。だが、剣は床にまで突き通っていた。
そして……
目の前で白い光がはじけた。
それが、偶然に剣に落ちた落雷だと知ったのは、
半ば融けた剣の残骸を残して、蜘蛛の姿が消えているのを見たあとだった。
「やった……のか?」
「力」を使い果たして、もう俺には蜘蛛の気配を知ることは出来ない。
だが、部屋の隅に転がっている奴の下半身が、すさまじい勢いでひからびて行く。
雨に曝されて、なおも渇いて行く。
それが全てを告げていた。
「……まこと」
俺はよろよろと、身じろぎ一つしない真琴に近づいた。
座り込み、抱き上げる。
雨に濡れそぼち、冷え切った体。
瞳は相変わらず何も映してはいない。
「……真琴……」
「ゆーいち……」
微かに──唇が動いた。
「真琴?真琴!真琴!真琴っ!」
俺は真琴を力一杯揺さぶった。
「ゆーいち……まことは……ばけものなの……?」
虚ろな瞳のまま真琴はうわごとのように呟く。
「まことは……ばけものだから……ゆーいちといっしょにいちゃ……いけないの?」
背筋が凍った。
真琴は自分の出自を覚えていないはずだったのに。
きっと真琴は、蜘蛛の手に落ちてから、ずっとそう言われ続けてきたのだ。
その事実で、真琴の心をかみそりで削ぐようになぶるために……。
俺は、真琴を力の限り抱きしめた。
何も──俺をも映していない瞳を正面から見つめる。
そしてゆっくりと言った。
「俺は……真琴が狐だって、知ってる」
「……」
真琴の瞳の中で何かがゆらいだ。
「だからそんなこと気にしなくていいんだ。俺は……命がある限り、真琴と一緒に歩いて行くから。だから……」
俺は痛む肺に息を吸い、精一杯の笑顔を作る。
「おかえり、真琴」
「う……」
真琴の瞳の中でゆらぐものがあふれ出した。
「う、う、う……うあぁぁぁぁぁーーーーーんっっっっ!!!!」
童女のように泣きじゃくる真琴を、俺はそっと抱いていてやった。