「生きて添えない 二人なら
旅に出ましょう 幻の」
「風の盆恋歌」(作曲・三木たかし 作詞・なかにし礼) より
その日、祐一が帰宅してみると、名雪がめずらしくしかめ面で台所で何やらやっていた。
彼女が台所で母の手伝いをしているのは珍しいことではないのだが、たいていそれは休日の昼食か、夕食である。陸上部の選手である彼女は、高三とはいえ夏の大会までは現役であるから、こんな風に平日に帰っているのは珍しかった。
更に言えば、名雪がやっていることは料理には見えなかった。
「なにやってんだ?名雪」
祐一が呼びかけると、名雪はびくり、と体をすくませて、振り返った。
「あ、祐一、お帰り。びっくりした」
言葉の割にびっくりした様子もなくそう言う。
「茄子に……マッチ棒かそれ。食べ物を粗末にしちゃだめだって秋子さんいつも言ってんだろが」
祐一が不審そうにそう言うと、名雪はにこにこ笑って、、
「うん。だから粗末にしてないよ。余計な包丁とか入れてないから、後で食べられるし」
「……????」
確かに、茄子そのものではある。
マッチ棒を四本突き立てて、それを支えに置いている以外は。
「だから……食べるもんでそんな妙な遊びをするなって」
名雪はきょとんと目を見開いた。
「遊んでないよー。あ、そう言えば祐一って、この時期にこっちにいたことなかったっけ」
ぽん、と手を打って一人納得した体の名雪は、ふたたびキッチンに向き直ると、今度はキュウリにぷすぷすとマッチ棒を刺して行く。
「それが遊んでるんでなくてなんなんだ?」
「お迎え作ってるんだよ。祐一のとこではしないの?」
名雪の言葉は祐一にとっては謎だった。
「お迎えって……それで誰を迎えるんだ?」
「うーん……うちの場合は……お父さんとかかな」
「?」
と一瞬疑問符を頭に浮かべて、ようやく祐一にも得心がいった。
「そっか……お盆か。こっちだと今頃なんだな」
「そだよ」
名雪はキュウリの置物を置いて、もう一度祐一の方に向き直った。
「今年、十七回忌だから。無理言って今日は部活抜けてきたの」
現世に戻ってくる死者を迎えもてなす、というこの習慣がこの国に根付いたのが厳密にいつかというと、絶対確実な説はない。大体、本来仏教では死者が戻ってくるということはありえない。にもかかわらず、この習慣と行事は盂蘭盆会──お盆という仏教行事として認識されている。
「うーん……俺の家だと墓参りくらいしかしなかったよなあ」
祐一は改めて実家の年中行事を振り返ったが、墓参り以外に特段こういったお盆の行事をした記憶はなかった。
「ね、祐一、一個つくって」
名雪はそう言ってひょいと祐一に茄子を手渡してきた。
「……いや、作らんもんでもないけど、なんで俺?」
「祐一はこれからずっとここにいるんだもん。あいさつあいさつ」
「あのなぁ」
脱力しながら祐一はマッチ棒を受け取る。
「まあそのなんだ、そういうことに多分なるんだろうが、ひょっとして俺の親みたいなことで引っ越さないとも限らないだろ」
「そのときはそのときだよ」
名雪はそう言って、一個の茄子の先の部分にマッチ棒を二つ、余分に刺した。
「ほら、茄子うさぎ」
「ってより、それだと豚に見えるぞ」
「豚じゃないよー。うさぎだよ」
むくれてみせる名雪の頭を軽くぺし、とはたいて、
(そういや……あいつも新盆か)
ふと……ひとりの少女を思いだした。
「?」
不思議そうな名雪に、
「あぁ、ちょっと知り合いにな……今年死んだ奴がいて」
祐一はもごもごとそう言った。すると、すかさずキュウリが一本伸びてくる。
「はい、じゃもう一個」
「……いや、俺なんかより、そいつにはもっと親しい友達がいるから」
なんとなくキュウリを受け取りづらくて、祐一は手をポケットにしまう。
「だめだよ。お友達だったらちゃんと作って上げなきゃ」
なおも名雪はぐいぐい、とキュウリを祐一に押しつける。数分の攻防の末、祐一は根負けしてキュウリとマッチ棒を受け取った。
キュウリにマッチ棒を刺しながら、
(あいつ、キュウリは好き……いや、「嫌いじゃなかった」かな)
その少女のことを考えた。
それほど──深いつき合いがあったわけではない。
彼女と、その友人と、なんとなく一緒に昼食を取って。
よく分からない「もの」と剣で渡り合う彼女に、時に手を貸そうとしたこともあった。
そんなことをしている内に──
彼女、川澄舞はこの世を去った。
死因は心不全。朝の校内を見回っていた教師が発見した。
祐一がたまたまちょっとした用事のために、夜の学校で「魔物」と戦っている彼女を、サポートしに行けなかった、その日だった。
おそらく、ただの心不全ではなかったのだろう。舞が目に見えない、しかし明確に物理的な害をなす何かと、毎夜渡り合っていたことは、それが一体何者なのかは祐一には分からなかったにせよ、とにかく実体験として知っていたからだ。実際、彼女の手足は体に付いているのが不思議なほどの状態だった、とも聞く。──噂には過ぎないのだが。
あれ以来、舞の友人の、倉田佐祐理にも、会っていない。合わせる顔がない。ある意味では都合良く、それからほどなく佐祐理は祐一の高校を巣立っていった。舞と佐祐理は祐一より一つ上級生の三年生だったからだ。
今さら──どの面下げて舞の霊を迎えられると言うのか。
心の底にしこりを感じはしたが、祐一は黙ってキュウリの馬をこしらえた。
「ただいま」
しばらくして秋子が帰ってきた。
「あ、お帰り」
ぱたぱたと名雪が出迎えに行った。
「あれ、久しぶりだね〜」
と、名雪の素っ頓狂な声が玄関で上がる。
「なんだ?」
手持ち無沙汰にテーブルの上でくるくる回していたキュウリを放り出して、祐一も玄関に向かう。
と……
「わっ、祐一君だっ」
秋子の隣には一人の少女がいた。
「……あゆ?」
「ええ。帰り際にそこでばったり会ったんですよ」
秋子はにこにこと笑いながら靴を脱いだ。
「さ、あゆちゃんもどうぞ」
「お邪魔しまーす」
同じく少女も靴を脱ぐ。
「って、こら」
すたすたとダイニングへ向かおうとする少女の襟首を祐一は掴んで止めた。
「うぐぅ、何するんだよっ」
涙目で、それでも頬を膨らませてにらみつけてくる少女。
「……お前、本物のあゆか?」
「本物だよっ。ボクの偽物なんていたら怖いよっ」
言い募る少女。
「う〜ん、それはそれで可愛いと思うけど」
名雪がお得意のずれっぷりを発揮した意見を述べた。
「お前はとりあえずあっち行ってろ。……よし、じゃ合い言葉だ」
祐一がそう言うと、少女は目を丸くした。
「合い言葉?なにそれ」
「そらみろ、偽物じゃないか」
「うぐぅ、本物だけどそんなの知らないよ……」
少女は途端に情けない顔になった。
「じゃとりあえず……『たい焼き』」
「んー……『焼きたて』っ!」
少女が元気に答える。すると祐一は首を振って、言った。
「残念だな……その返しは『食い逃げ』だ」
少女はその言葉に一層情けなさそうな顔になると、
「うぐぅ、だからお金はちゃんと払ったんだよ〜」
そう言って祐一をじっと見つめた。
「……冗談だ。お前みたいのが100人も1000人もいてたまるか」
「1000人もいたらさすがに怖いよ〜」
名雪はなおもずれっぷりを遺憾なく発揮している。
「うぐぅ、なんでそんなに増えるんだよっ」
少女──あゆの方も再びふくれっ面で祐一をにらみつけた。
「どーせ夕飯に誘われたんだろが。居間にでも行ってろ」
「うぐぅ、ボク、邪魔?」
何やらひどく悲しげに祐一を見上げてくるあゆの肩を叩いて、
「俺達も居間に行くとこだからな。さて、この半年近くどこで何してたのか、洗いざらい吐いてもらうぞ」
「祐一、刑事物の見すぎ……」
後ろからの名雪の突っ込みは無視して、祐一はあゆを先に立たせて居間へと向かった。
商店街で、分かるような分からないような別れの挨拶を受けてからこの方、祐一達はあゆの姿さえ見かけたことはなかった。
その間、ほぼ半年。
一体このはね回り娘がどこでどうしていたのか、確かに祐一ならずとも興味のあるところではあったろう。
「ごちそうさま」
満面の笑顔であゆは手を合わせてそう言った。
「おそまつさま」
と、返す秋子の顔も満足げである。一緒にいる人が、特に食事時には、多いほどこの人は楽しいらしい。その点、特に祐一にも名雪にも異論はない。
「やっぱり秋子さんのごはん、おいしいねっ」
にこにこと、あゆ。
「どういたしまして」
ほのぼのとした雰囲気でダイニングが満たされている。
この雰囲気が戻ってから──やっと、二ヶ月になる。
春先、秋子は交通事故に遭い、生死の境をさまよった。
その日から、水瀬家から、まず当然、秋子の姿が消えた。
そして、同時に、名雪の笑顔が消えた。
それで、水瀬家の全ての安らぎは失われた。
不安をうち消すように名雪と祐一はお互いを求めあった。
ようやく名雪の自然な笑顔が戻ったのは、秋子が奇跡的に快方へと向かい始めたときだった。
どうやら秋子が退院して……やっと、二ヶ月になったところだった。
「それであゆちゃん、どうしてたの?」
名雪の問いに、
「うん、いろいろだよ」
と、さっきからあゆはそれしか、言おうとしなかった。
「いろいろじゃ何もわからんだろ。これ以上親御さんに迷惑を掛けるな」
「うぐぅ、いろいろはいろいろだもん」
困った顔のあゆ。その目の先ににこにこ顔の秋子を見つけて、
「そう言えば秋子さん、元気になってよかったねっ」
「あら、ありがとう」
秋子はやはりにこにこと礼を言った。
「あれ……?あゆちゃん、お母さんのこと……」
名雪が怪訝そうにそう尋ねる。
「え??……う、うん、ちょっとね」
えらく慌てたようなそぶりで、あゆはそう返して、えへへと笑った。
と……
窓の外を、三味線の音が行き過ぎた。
「?」
きょとんとした表情の祐一とあゆに対して、
「あ、今年もやる人いるんだね」
「そうね。でも近頃はめっきり少なくなって……」
と、訳知り顔に名雪と秋子は言った。
「なんです?あれ」
祐一がそう聞くと、
「夜流しですよ。八尾の風の盆はよく知られてますけど、この辺ではお盆に夜通し踊る風習があって、昔は結構踊る人がいたんです。保存会なんかもあって、今はそう言う人たちだけで踊るようですけど」
秋子がそう説明した。
「名雪はおど……る前に寝てるな。聞くだけ野暮だった。すまん」
「祐一……もしかしてかなりひどいこと言ってる?」
祐一の言葉に名雪が眉をひそめる。
「……仲いいねー」
そんな二人を見ていたあゆが、ぽつりとそう言った。
すっかり遅くなってしまったと言うことで、あゆはその夜水瀬家に泊まることになった。
「ごめんね、秋子さん」
「いいのよ、気兼ねなんかしないで」
名雪のパジャマをぶかぶかに着ながら、頭を下げるあゆは、とりあえず二階の空き部屋に寝ることになった。
布団を運び込みながら、ふと、祐一はその部屋にいた少女を思いだした。
(……あいつ、ちゃんと家に帰れたのかな)
布団を敷いて、少女の面影を思い起こす。
あゆもかなり子供っぽいなりをしているが、その少女は輪を掛けて外見から言動から子供じみたところのある少女だった。
自称、沢渡真琴。
祐一がここへ越してきて早々出会った厄介者だ。
名前すら当初は思い出せないほどの記憶喪失のくせに、なぜか祐一の顔だけは憎しみの感情と共に見知っていたという変な少女だった。
しばらく水瀬家に逗留していたその彼女は、出会ったときと同様、唐突にふっと姿を消した。
おそらく記憶が戻り、家へ帰ったのだろう。
水瀬家一同の意見はそこに落ち着いた。
聞く話では、記憶が戻ると、記憶を失っていた間の記憶が逆に曖昧になるとも言う。信憑性は定かではないが、だとすれば真琴は記憶を取り戻すと同時に、見知らぬ家で寝ていたことになるわけだ。気味悪さに、誰にも告げずそそくさと逃げ出しても、とくに彼女の場合不思議はない。
当然と言えば当然のごとく、彼女からの連絡はそれきりなかった。
(そういえば……)
あゆも、真琴がいなくなってから半月ほどして、いなくなったのだった。
そして……もう一人。
(病気、治ったかな……)
同じ頃出会って、そしてやはりその頃以来会っていない一人の少女。
あゆと共にたい焼き屋から逃げて、逃げたその先で出くわした彼女とは、祐一は昼休みの学校の裏庭で何度か昼食を共にした。ちなみに真冬、雪の積もる中で、彼女が食べていたのはよりにもよってカップのアイスである。
美坂栞。
名字が祐一や名雪のクラスメイトの一人と同じなのだが……当人達に聞いてみた限りでは偶然の一致、らしい。
体が弱くて、学校に通えないと言っていた割には、彼女はほとんど毎日昼休みに裏庭を訪れ、バニラアイスをひとカップぱくぱくと平らげては帰っていった。
そんな彼女も、突然ぱたっと学校に来なくなって以来、姿を見かけない。
事情が事情だけにいささか心配ではあったが、どこの誰とも付かない以上、祐一としてもどうすることもできなかった。
なんとなく、そうして呆けたように考え事をしていると。
「わっっっっっ!!!!」
「うぎゃっ??!!」
後ろから浴びせかけられた大声に祐一はひっくり返りそうになった。
「やったっ!!ついに祐一に一矢報いたもんねっ!!」
きゃらきゃらと楽しげな声に、祐一は弾かれたように振り向いた。
「ま……こと?」
「そ。で、その布団、なに?」
ひょいと体を傾けて、声の主──真琴が、祐一の後ろの布団を覗き込む。
「これはだな、あゆの……じゃなくて!!いきなりいなくなってどこ行ってたんだ?!」
おもわず真琴の両肩を掴んで揺さぶる祐一。
「あ、あぅっ、わ、かん、ない、のっ」
「なんだ……そりゃ」
「気が付いたら家の前にいたのっ。なんか暑いと思ったら夏だったのっ。分かんないからとりあえず家に入ったら祐一が布団しいてたのっ。それだけっ」
真琴は憤然と理屈の通っていないことを並べ立てた。
「まさかまた記憶なくした……とかいうんじゃなかろうな」
祐一も憮然と真琴を見やる。真琴の服装は冬に失踪したときのままだ。よく見れば見える範囲見える範囲汗だくである。……冬の服を夏真っ盛りの今にしっかり着込んでいるのでは暑くない方が変だ。
「あのな、真琴。この季節になってその服を着ている人間にこういう事を言うのも空しいんだが……暑いならせめて上着くらい脱げ」
「へ?」
きょとんと自分の体を見回して──
真琴はばさっとジャンパーを脱ぎ飛ばした。それでも厚手のトレーナーの袖口にじっとり汗がにじんでいる。
「で、長袖ってのは、暑けりゃまくってもいいんだ」
「あうー」
ぐにぐにと、まくるというか寄せ上げるというか。
真琴はとりあえずどうやら格好だけでも半袖になった。……じきに長袖状態に戻る気はするが。
「それで、秋子さんたちに挨拶はしてきたのか?」
「あ、まだだった」
真琴はつぶやくなりどたばたと部屋を出ていった。
部屋に取り残された祐一は、仕方がないのでとりあえずジャンパーを畳んで部屋の隅に置いておいてやると、とりあえず隣の空き部屋の様子を見に行った。
(問題は……布団、足りるのか?)
場合によっては、当分、水瀬家は居候を三人、抱え込むことになりそうである。