ほけっ。
その少女を見て、アイスクリーム屋の親父ははて、と首をひねった。
心ここにあらず……と、言う様子なのは、不思議ではあるが、まぁ人それぞれ事情というのはあるものだ。馬に蹴られてなんとやらいう言い回しもある。ただ……
(暑くないのか、この子は?)
着ている服も厚手に見えるが、何より、首周りにしっかり巻いたストール。
冷える体質なのかも知れないが、それにしても、今日は気象庁お墨付きの真夏日だ。
しばらくその子を見ていると、ふい、とその女の子が歩み寄ってきた。
「あ、あの、バニラアイス……ください」
親父はもじもじとそう言った女の子の様子に、くすりと笑った。
「んー、悪いがバニラはやってないんだ。こいつでよかったら一つ、どうだい?」
言って親父はアイスクーラーの蓋を開けて、中を見せる。卵をふんだんに使って、黄色く見えるほどの、いわゆる昔ながらのアイスがひんやりとした冷気と、素朴な甘い香りを漂わせた。
「うー……」
その女の子はしばらく思案する風だったが、
「すみません、やっぱりいいです……」
そう言ってぺこりと頭を下げた。
「ま、しょうがねえ。夏の間はアイス屋だからよ、また気が向いたら食ってくれ。味は保証するから」
親父は苦笑してクーラーの蓋を閉める。
「すみません……だって」
「ん?」
「バニラじゃないと……あの人に分かってもらえないから……」
聞こえないほどの小声で呟いて、女の子はとてとてと歩いていってしまった。
(なんだ、バニラアイスが待ち合わせの目印か?)
「おっちゃーん、アイスいっこ!!」
「お、まいどあり」
アイスをコーンに盛りつけている間に、親父の意識から少女のことはすっぱりと消えていた。
「ふう」
盛夏ながら山中の早朝の空気は肌に心地よい。
久しぶりの休日である。
ここのところ、休みという休みは、行ける限りのボランティア活動に費やしてきた。
正直、父には疎んじられている。
そんなことは──もうどうでも良かった。
いっそ、勘当でもしてくれれば、面倒がないとさえ、思ったりもする。
倉田の家には……一弥が死んだときから、もうなにも──なかったのだ。
舞が死んで、佐祐理はようやくそのことに気付いた。
自分が世間を一人で渡っていけるほどの才覚を持っているとは思っていないが、そのことが分かる程度の知恵はある、と思う。
ボランティアは佐祐理の心を満たしてくれたが、それで暮らしていくことができるわけはない。漫然と高校生活を過ごしてしまったせいで、手に技術があるわけでもない。
だから平日はアルバイトも始めた。
特にたのしみのない佐祐理だから、わずかずつでも貯金はたまっていった。
(百万円貯まったら……家を出よう)
佐祐理はそう決めていた。
家だけではなく、この町を離れたかった。
ゆっくりと……石の上に水を注ぐ。
水は複雑に別れて、四角い石の表面を流れ落ちていった。
そこは。
町外れの霊園墓地だった。
石の表面には「川澄家」と刻まれ、その側面には白字で友人の名前と、赤字でその母親の名が刻まれていた。
本来なら墓守はその母親の役目かも知れない。だが、舞の死後、舞の母は昔の病気が再発し、ほとんど病院から出ることもかなわなかった。
だから墓守をしているというわけではないが、佐祐理がこうして詣でてこなければ、彼女の墓に訪れる者とてないのも確かである。
この墓を建てるのに力になってくれたのは彼女の父だが、それで佐祐理は父を余計疎ましく思うようになった。
濁る思いを振り払うように佐祐理は激しく頭を振り、墓石を雑巾で拭った。
(……舞……)
売店で買った花束と線香を手向け、墓前にしゃがみ込んで、佐祐理はそっと手を合わせた。
舞が夜の学校で何かをしているのは知っていた。
佐祐理は舞という人間を信じていたから、それが人様に仇なす事だとは考えなかった。
ガラスが割れても備品が壊れても、不可抗力だったのだと思っていた。
何か、事情があるのだと。
そして、結局その事情を、佐祐理は聞き出すことが出来なかった。
舞の死に対し学校の対応は素っ気なかった。
校内の管理不行き届きで校長と教頭が陳謝し、数ヶ月の減俸を食らって、それでことは終わった。
佐祐理の心の底深くでぼこ、と何かが沸いた。
沸いたモノは外に出ることのないまま学校に、父に、世の中に向かい、結局自分にぶつかって止まった。
「舞……佐祐理、どうして止めてあげられなかったんでしょうね……」
山犬に己の手を差し出す舞を見た時から、自分は舞の力になろうと、ずっと決めていたのに。
「舞は、佐祐理のこと、邪魔だったんですか……?」
言って、自己嫌悪に寒気がする。
肯定されても否定されても、どのみち自分の気持ちがどうなるわけでもない。
まして──答えの返ってくるわけでもない死者を相手に、自分は何をしているのだろう。
「ごめんなさい……佐祐理、馬鹿ですから……何もできない馬鹿ですから……舞のこと、何にも分かってあげられてなかったから……」
頬を涙が伝う。
哀しみと、そして悔しさに涙が止まらない。
(……佐祐理)
耳に聞こえてきた言葉に、佐祐理は最初気が付かなかった。
「……え……?!」
弾かれたように立ち上がる。
いつしか薄く霧があたりに立ちこめていた。
その中に、見覚えのある影がうっすらとよぎったような気がした。
「ま……い……?」
覚えず佐祐理はその影の見えた方へと、墓石の間を縫って駆けだした。
角を曲がろうとして礎石に足を取られ、砂利にしたたかに顔を打ち付ける。
うめきながら立ち上がって再び影を探した。
(……佐祐理は悪くないから)
再び声が聞こえる。
「舞っ?!どこなの?!」
死者の声が聞こえる不思議など、佐祐理の意識はみじんも感じていない。
ちらちらと見え隠れする影を追い、墓地の狭い通路を右へ左へと走り回る。
(……ごめん。時間がない。もう、行かないと)
「ま、まってっ、舞っ!!」
絶叫する佐祐理の耳に、
(……佐祐理のことは、ずっとずっと、いつまでも、嫌いじゃないから)
囁くように声が聞こえて──
はらり、と霧が晴れた。
見れば先ほどと同じ、佐祐理の他には人一人いるでもない墓石の列。
「うっ……舞……まいぃ……」
佐祐理はその場に膝をつき、いつまでもいつまでも、涙を落とし続けた。
とりあえず一夜明けた水瀬家では、朝食をかねてそれぞれの自己紹介が行われる……予定であった。
しかし。
「くー」
当然のように食卓に着くなり夢の世界へ舞い戻ってしまった名雪はともかく。
「……誰?」
じとっとあゆを見つめる真琴と、
「うぐぅ、この子怖い……」
引き加減のあゆ。
妙な緊張状態のおかげで朝食すらままならない。
「……だあっ!!だから二人とも落ち着けっ!!」
祐一がたまりかねて二人の肩を掴んでがたがた揺する。
「あ、あう、うっ」
「うぐ、ぐ、ぐぅっ」
ようやく真琴とあゆの間の変な緊張は落ち着いたが、今度は祐一が二人に睨まれることになってしまった。
「何するのよっ」
「うぐぅ、何するんだよっ」
きっちりハモった攻撃に、祐一は一瞬ひるむ様子を見せながらも、
「だから、まずお互いにどこの誰か名乗れ。合戦はそれからだ」
「だめよ、家の中で合戦なんかしちゃ」
秋子が何かずれた注意を飛ばす。
「う〜」
心持ち上目遣いにあゆを見据える真琴に対して、
「えと、じゃボクからね。ボクは月宮あゆ。祐一君の幼なじみだよ」
とりあえずあゆが名乗る。
「あぅ……真琴は沢渡真琴。祐一の最大最強の敵っ」
一応真琴も名乗り返したが、名乗られたあゆの方は頭の上に「?」マークを山のように浮かべている。
「……なんで祐一君の敵なの?」
きょとんとしたままあゆが尋ねる。
「だって、祐一見てたらとにかくむかつくんだもの」
憤然と言い切る真琴。
「うぐぅ、そんなの変だよっ」
「むかつくんだからしょうがないじゃないっ」
「う〜」
「ふ〜」
額を付き合わせてうなり声を上げる二人。
「やめれ。どーぶつだかなんだか分からなくなるのは猫見た名雪だけでたくさんだ」
再び祐一が二人を引き離す。
「「ふんっ」」
音を立てて二人はそっぽを向いた。
(この二人が居着いたりしたら、一体この家はどうなるんだ……)
普段は忘れたい、受験生という身分が、祐一は妙に気に掛かった。
朝食後。
「二人とも了承」
例によって秋子の一秒即決で、祐一の不安通り二人の当分の居候が決まった。
祐一にとってはせめてもの幸いに、朝食を食べ終わるなりあゆと真琴はあてがわれた部屋へ引っ込んだ。
「……助かった……」
祐一はげんなりした顔で呟くと、自室へ戻ろうと階段に足をかけた。
「祐一」
呼ばれて見上げると、にこにこ顔の名雪が祐一を見下ろしていた。
「買い物付き合ってほしいな」
「……パス」
あっさり言い捨てて名雪の横を通り過ぎようとする。
「う〜……いいこと教えて上げようと思ったのに」
「百花屋のいちご祭りか?」
振り返りもせずに、祐一。
「……あ゛。ばれた?」
悪びれた様子などこれっぽっちもない言い方にしぶしぶ祐一は振り返った。
「お前と付き合ってると、こっちまでいちご中毒になるぜ。そのくらいの情報、仕入れていないとでも思ったか、うつけ者」
「うつけ者はひどいよ〜」
情けなさそうな顔で名雪は言い返した。
「で、外になんか買いたいものでもあるのか?」
「うん。今日昼から香里が家に来るから、お菓子とか少し買っておきたくて」
名雪の幼なじみで、祐一と名雪のクラスメートでもある少女の名前を名雪は口にした。
「へえ。美坂がね」
確か、謎のジャムを口にして以来、香里は水瀬家に近寄ろうともしないという話を、祐一は聞いていたのだが。
「お母さん出かけるからって、拝んで来てもらったの」
「なーゆーき。ひょっとして……宿題遅れてるな?」
「う゛」
微笑む名雪の頬を一筋汗が伝う。
「まぁ、俺も人のことは言えんが……」
「じゃ、祐一も一緒にしようよ、宿題」
祐一は一時考え込んで、
「美坂がいいってんなら頼むわ。学年トップに見てもらえりゃ進むだろ」
「じゃ、買い物付き合ってね」
「ああ」
……祐一が名雪に引っかけられたと気付いたのは、もう商店街にさしかかろうかというところだった。
「いちご、いちご、どっれにしよぉかなぁ♪」
喫茶「百花屋」のショーケースの前で、名雪は小躍りでも始めそうな様子で品定めをしていた。
「……念押しとくが、それの払いはお前の自腹だからな」
「う、分かってるよ……それより、いちごっ♪」
名雪という少女は、好きなものが目にはいると外が見えなくなるたちらしい。
殊に苺系の食べ物と猫に関してはもう雨が降ろうが槍が降ろうが、である。
「よし、この『限定スペシャルイチゴサンデーデラックス』にしよっと」
こころもちスキップ踏み加減に店内へ入る名雪。
祐一は覚悟を決めてその後に続いた。
「……あ」
店内に入って……祐一の目が、客の一人と合った。
「名雪、悪いがちょっと席、立て」
「えー、せっかく座ったとこなのに」
不満顔の名雪を引っ張って、祐一はその客の前に立った。
「栞ちゃん……か?」
「えと……祐一さん……ですよね」
少女はアイスを口に運ぶ手を休めてそう答えた。
「?」
横で名雪が不思議そうな顔をしている。
「元気そうじゃないかぁ。お兄さんは心配したぞ」
「もぉ、だからそういう言い方する人、嫌いですったらっ」
ぷく、と少女──栞は頬を膨らませた。
「悪い悪い。しかしあれっきり学校にも来なくなったし、どうしたかと思ってたんだぜ」
名雪がくいくい、と祐一の袖を引っ張った。
「ね、祐一、この子誰?」
「あ、この子な、美坂栞って言って、ほんとなら俺達の一年後輩だ」
「美坂栞です」
栞は席を立って名雪に頭を下げた。
「わたしは水瀬名雪だよ。よろしくね、栞ちゃん」
「ということで、相席していいか?」
「はい、どうぞ」
4人掛けの席に、テーブルを挟んで栞と、祐一と名雪が相対して座る。
「あの……」
おずおず、と栞が切り出した。
「ん?」
「その、名雪さんって、祐一さんの、その……」
「はい?」
「こ……こ……こい……」
「「?」」
祐一と名雪が首をひねっている間に、栞は真っ赤になって、徐々に言葉を尻つぼみにして、うつむいてしまった。
「す、すみません、なんでもないです……」
消え入りそうな声でそう言うと、栞はわたわたとグラスの中のアイスをぱくぱく口に運んだ。
「で、体の方はもういいのか?……って……そのかっこじゃ、まだすっかり元気って訳でもなさそうだな……」
祐一の言葉に栞はひょこっと顔を上げ、続いて祐一の視線を追って、
「?」
小首を傾げながらストールを持ち上げて見せた。
「あ、栞ちゃん冷え性なの?わたしの友達もそうなんだよ」
名雪がそう言って、改めて栞の食べているものを見た。
「だめだよ、こんな冷えるもの食べてたら、体に悪いよ」
心配げな表情で栞を見つめる。
「でも、やっぱり夏はバニラアイスですよー」
そう言って、栞はもう一口アイスを口に運んだ。
「っていうか、栞は一年中バニラアイスだろ。よく飽きないよな」
雪の中で平気でアイスをぱくついていた栞の姿を見慣れた祐一には、さしてどうこう言うこととも思われなかった。
「そーゆーこと言う人はとっても嫌いですっ」
ふん、とそっぽを向きながらアイスを食べる栞に、祐一は苦笑した。
そんな栞を見ていた名雪はしばらく考え込んで、ぽむ、と手を打った。
「ね、栞ちゃん、良かったら今からわたしたちの家に来ない?手作りアイスごちそうするよ」
「お前、言ってることが微妙にずれてないか……?」
祐一の突っ込みは聞こえていないらしい。
「え?……でもでも、お、おふたりのっ、その……」
なにやら栞は顔中真っ赤にして慌てている。
「わたしのお母さん、料理すごく上手なんだよ〜。バニラアイスもたしか作り置きあったし」
「え?お母……さん?え、じゃ、どうせ……わわっ、あの、わたしたち、って……」
きょときょとと名雪と祐一の顔を交互に見ながら、わたわたと栞。
「うん。わたしの家に祐一が居候してるんだよ」
「……名雪、居候はやめてくれ……確かに事実はそうだが……」
祐一がテーブルに突っ伏してうめく。名雪は見ない振りで続けた。
「まだおなか大丈夫だったら、おいでよ。あとで体があったまるアイスとかもあるんだよ」
ぱく、と最後の一口を口に含んで、栞は少し、思案する風だったが、
「そぉですね……それじゃ、せっかくだから甘えさせてもらいます」
ぺこり、と頭を下げて、そう言った。