3.冷たい邂逅

 昼前に栞を連れて祐一と名雪が帰宅してみると、既に秋子は出かけていた。
『お昼は作り置きを適当に暖めてね 秋子』
 のメモに、名雪が確認してみると、あゆと真琴を勘定に入れたくらいの野菜炒めがフライパンに出来上がっていた。
「これだったら、少し加減して、栞ちゃんの分もいけそうだね」
 名雪は時計を見上げて、エプロンを付けると、
「祐一、あゆちゃんと真琴呼んできて」
 言いながら冷蔵庫の中から追加の野菜を物色し始めた。
「う゛……やむをえんな……俺が台所にいてもしゃあないことだし……」
 祐一はげっそりとつぶやいた。あの二人を呼んでくるのはできれば願い下げというところだが、外に人がいない以上仕方もない。
「あの、名雪さん、何か手伝えることありませんか?」
 栞の言葉に名雪は振り向いて、
「座っててくれていいよ。お客さんに手伝わせたら悪いよ」
「でも、私もただごちそうになるのも何ですから」
 名雪は少し思案して、
「じゃ、お皿並べてもらっていい?」
「はい」
 栞はぱたぱたと、名雪の指さした食器棚の方へ走っていった。
 それを見て、祐一は覚悟を決めたように溜息一つ落とし、二階へ向かった。

 数分後。
 ぐったりした様子の祐一と、相変わらずそっぽを向いたままのあゆと真琴が降りてくると、食卓の用意は既に調っていた。
「できてるよ〜」
 名雪がぽん、と手を打って一同を出迎える。栞は少し小さくなり加減で、既に椅子に着いていた。
「わ、おいしそう」
 皿の上の料理を見た途端ぱっと破顔してこれもひょいと椅子に納まるあゆ。真琴もあゆとは二つ椅子を空けて食卓に着いた。祐一が慎重にその反対側に座り、空いたところに名雪が掛ける。
 そこで、
「あれ、えっと、ボクが祐一君と感動の再会をしそこなったときの……」
 ようやく、まずあゆが栞に気が付いたらしい。
「あっ、そういえば、あの時祐一さんといっしょだった……」
 栞もあゆを思い出したようだった。
「祐一、この子も知り合い?」
 心持ち顔をしかめ気味に真琴が聞いてくるのに、祐一は半ば投げやりに頷いた。
「あの、美坂栞と言います。今日はその、突然押し掛けてしまって……」
 かしこまってお辞儀をする栞。
「ボクは月宮あゆ。ひさしぶりだね〜」
「沢渡真琴よ。よろしくね」
 真琴は栞にはにこにこと呼びかけた。
「さて、お互い名前も知れたところで、昼食ファイト60分一本勝負、行くぞ」
 祐一が時計を指さしながら言うのに、
「いつからお昼ご飯がファイトになったの……?」
 名雪が困った顔で呟いた。
「いいから食べようよっ。いただきまーす」
 あゆは早速箸をのばす。間髪入れず真琴が横から同じものを狙う。
「「……」」
 無言の二人。次の瞬間、少なくともこの二人については昼食ファイトとやらが始まった。
「……お前ら、俺と名雪と栞のことも少しは覚えててくれよ……」
 祐一は言いながらとりあえず小皿に自分の取り分をよそった。
「あ、祐一、一人だけずるいっ」
 名雪が慌てて自分の分と栞の分を取り分ける。
「ありがとうございます、名雪さん」
 約二名を除いて、昼食の時間は穏やかに過ぎていった。

 とりあえず後かたづけが一通り(洗い物を除く)済んで、一同は食卓でくつろいでいた。衣食足りて何とかだの言うが、満腹状態ではどうやらあゆと真琴も休戦するらしい。
 名雪がこく、と麦茶のコップを傾けたところへ、チャイムが鳴った。
「あ、香里だよ、きっと」
 ぱたぱたと玄関へ急ぐ名雪。
 その一方で……
 栞の表情が凍り付いていた。
「どうしたの?栞ちゃん」
 あゆがきょとんとした目で尋ねる。
「……どうして?」
 意味不明なことを呟いたきり、栞は小刻みに震えながら椅子を立とうとした。
 そこへ。
「祐一、香里来たよ」
 にこにこと名雪が入ってくるのに続いて。
 一人の少女が入ってきた。
「久しぶりね、あいざ……」
 ダイニングに入った瞬間、その少女の言葉が途切れた。
「ん?どした、美坂」
 祐一が片眉をひそめて問う。
 少女──美坂香里の顔色が青ざめていた。
 唇がわなわなと震え、紡ごうとする言葉が言葉にならない。
 その目は……一点を見据えて動かなかった。
「かお……り?」
 ただならぬ様子に名雪も表情を改める。
「なによ……これ」
 ノリで固めた人形の首を無理に動かすような動きで、香里は名雪の顔を見た。
 唇からも血の気の引いた顔の中で、目だけが爛々と燃えている。
 激しい──怒りに。
「どういうつもりよ、名雪!なんのつもりであたしを呼んだの?あ、あたしが、あたしが……」
 平手が飛んだ。
 名雪の頬に。
「あたしが何したっていうのよぉっ!!!!!!」
 その勢いのまま、香里は身を翻す。バタン、と重い音が続く。
 一同の視線は、香里が凝視していたものに向けられた。
 ──香里同様に、顔を青ざめさせ、椅子から身を起こしかけたまま、凍り付いたように動かない、栞に。
「……栞ちゃん」
 沈黙を破ったのはあゆだった。
「ひょっとして……親しい人?」
 栞は答えなかった。
「……まさか、姉妹とか親戚じゃないよね……」
 やはり、答えない。
「もしそうなら、最初に行っておかなきゃいけなかったんだよ……」
 その言葉に、栞は蒼白な顔を上げた。
 目だけが……爛々と燃えている。
 ちょうど、先ほどの香里のように。
「私には……お姉ちゃんなんて、いません」
 はね回りそうな言葉を無理矢理抑えつけたような、静かな口調。
 そして、栞ははったと祐一と名雪をにらみつけた。
「どうして……どうして、あの人が来るのに、私を連れてきたりしたんですかっ!!」
 小さな口から、呪詛のような絶叫が迸った。
「あの人にだけは、会っちゃいけなかったんです!!それなのに……それなのにぃっ!!」
 栞の両の目から、涙が滝のようにこぼれ落ちた。
「栞……?」
 祐一は混乱しながらも栞に歩み寄ろうとした。
「来ないでくださいっ!!祐一さんも、名雪さんも、あゆさんも……みんなみんな、大っ嫌いですっ!!!!」
 そう、言い捨てて。
 栞も又、ダイニングを飛び出した。
 ばたんっ、と激しい音が響く。
「……祐一君。名雪ちゃん。……栞ちゃん、追いかけた方がいい」
 あゆが呟いた。
「あゆ。お前……なにか、知ってるな……?」
 祐一の言葉に、あゆはかぶりを振った。
「詳しいことは知らないよ。ボクが今知ってることは……言いたくない。どうせすぐばれるけど」
「なんだそりゃ。まぁいい、名雪、行くぞ」
「う、うん。あゆちゃん、真琴、留守番頼んでいい?」
 あゆがぶんぶんと首を振った。
「ボクも行く」
 すると、真琴も、
「あう、だったら真琴も行く」
 慌てて席を立った。
「しゃあないな。人捜しに余り大人数で動くのもあれなんだが……」
 祐一はとりあえず玄関へ移動して、奇妙なものを見つけた。
「……これは栞の靴だろ?で、こっちは……」
「これ、香里が履いてきた靴……」
 横から名雪が覗き込む。
「あいつら、靴履く余裕もないほどとちくるってたのか……一体何があったんだ?」
 祐一は一瞬考え込んだが、素早く靴を履いてドアを開けた。
「香里にしても栞にしても名雪みたく鍛えてるわけじゃなし、しかも靴なしだ。そう遠くへは行ってないだろう……」
 名雪、あゆ、真琴がばたばたと出てくるのを見て、ドアを施錠する。
「人海戦術だと誰が見つけるかわからん。効率は悪いが、まとまって探すぞ!!」
 とりあえず外のメンバーが着いてきているかはもう確かめずに、祐一は山勘に任せて走り出した。

 妹の告別式だというのに、私はまるで他人の葬式にでも出ているようなつもりでいた。
 それ以上の感慨を、私は持つことができなかった。
 なぜなら──妹は、とっくに死んでいたはずだから。
 いまさら葬儀など──
 空々しくて悲しくもならない。
 周りの人はそれを勝手に解釈していて、下手をすると吹き出しそうになった。
 とりあえず、大多数の意見は、「悲しみが強すぎて云々」と言うことになったようだ。
 こういうとき「品行方正な優等生」だと得をする。
 結局、今の今まで……私は、妹のために、涙を一滴もこぼすことはなかった。
 死んだはずの妹の姿を、友人の家に見るまで。
 あれは……一体なに?

「……あの」
 声で分かったから、香里は振り返りたくなかった。
「どなた?」
 今さら空々しいとは思いながらも、震える声で、そう聞いてみる。
「……伝言、預かってきてるんです」
 うつむいたままで、栞はそう言った。
「私……に?」
「だと、思います」
 香里はごくり、とつばを飲み込んだ。
「……聞かせて」
「はい」
 香里の背後で、栞は一瞬押し黙った。
 しばらくの逡巡の間に時が移る。
「……あの」
「なに?」
 跳ね返すように香里は答えた。
「馬鹿な女の子からの伝言なんです」
「……そう」
「その子は、お姉ちゃんがいて……それで、お姉ちゃんが大好きなんです」
「……」
「でも、お姉ちゃんに会えなくなってしまったんです」
 香里は、何も言わない。
「ただ、今年だけは……みんなに会えるから……だから、戻ってきたんです」
 栞はそれでもしゃべり続けた。
「でも、……その子は、お姉ちゃんには……会いたくなかったんです」
「そりゃそうよね」
 香里は吐き捨てるように言った。
「その子のお姉ちゃんは、まだ生きてたその子を、殺してたんだから」
「……」
 今度は──栞が、言葉を失った。
「いくら好きだったにせよ……ううん、だからこそ、今じゃ、顔も見たくないくらい憎んでるのよね」
「違います……」
 栞は絞り出すような声を上げた。
「その子は、お姉ちゃんに会えなくなる前に、お姉ちゃんのことを忘れようとしてたんです……あんなに可愛がってもらった、大好きなお姉ちゃんを……だから、合わせる顔がなかったんです……」
「うそ……よ」
「ほんとは……会いたかった。会って、ごめんなさいって言いたかったの……」
 栞はそっと、香里に近寄った。そのまま背後から、体に手を回す。香里は一瞬電気でも流されたようにびくり、と体を震わせたが、そのままじっとしていた。
「お姉ちゃん……ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさいっ……」
 栞の嗚咽を背中に感じながら。
 香里は……声もなく、慟哭していた。

 しばらくして、祐一達が二人を見つけたときも、栞と香里はそのままの格好で泣き続けていた。
「……」
 掛ける言葉もなく、一行は二人から距離を取って、ただ二人を見ていた。
 やがて、栞がそっと香里から身を離した。
 くるりと振り返って、笑顔を作る。
「あ、皆さん……すみません、ご心配をおかけして」
 ぺこり。
 お辞儀をして、栞は祐一の方に歩み寄った。
「あの……祐一さん」
「……なんだ?」
 栞の目尻に雫が光っているのを見て、祐一はふいと目をそらした。
「実は……一言、お礼が言いたかったんです」
「ずいぶんとまた……改まったもんだな」
 少しうわずり気味の声で、そう返す。
「あんな寒いのに、私なんかのために、一緒にアイスを食べていただいて……本当にありがとうございました」
「だから、それくらいでそんなにかしこまるなって。だいたい、『私なんか』なんて、怒るぞ」
 祐一が少し顔をしかめてみせると、栞はくすり……と笑った。
「すみません。それじゃ……」
「ん?」
「私、もう……行きます」
 栞はふわり、とストールを翻した。
「行きますって……どこへ?」
 祐一が聞くと、栞は黙って首を振った。
「さようなら。どうぞお元気で」
 その言葉と共に。
 栞の姿が──霞んで、消えた。
「「「な?!」」」
 祐一と名雪、真琴が揃って素っ頓狂な声を上げる。
 その声につられて……でもあるまいが、ようやく香里が一行の方を向いた。
「あの子……相沢君に会いたかったのね」
 目尻に涙は残っているが、その顔は微笑んでいる。
「美坂……」
 祐一が呆然と呟く。
「ねぇ、香里……栞ちゃんて、なんだったの……?」
 呆けたような名雪の問いに、
「私の妹よ」
 香里は答えた。
「今年の春、病気で死んだんだけどね」

(つづく)


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