「遅すぎた 恋だから
命をかけて くつがえす」
ふたたび「風の盆恋歌」(作曲・三木たかし 作詞・なかにし礼) より
一同はひとまず水瀬家へ戻ってきた。ただし、香里については、さすがに日を改めてと言うことになったので、祐一、名雪、あゆ、真琴の4人だけである。
帰途の間一言も口をきかないまま、とりあえずまたダイニングに落ち着く。
しばらく続いた沈黙を破ったのは祐一だった。
「あゆが言ってた『知ってること』……って、あのことだったのか」
あゆは無言でこく、と頷く。
「でも……栞ちゃん、ご飯食べてたよ……」
かなりショックを受けた様子の名雪がつぶやく。
「栞ちゃんが死んだのって今年なんでしょ?だったら、この町なら、今年だけは普通の人みたいに帰ってこれるんだよ」
あゆが小声でそう言った。
「どうして……そんなこと、分かるの?」
名雪が不審そうにそう言うと、
「うぐぅ……」
あゆは呻いたきり、うつむいて押し黙った。
「なによ、知ってることがあるんだったら言いなさいよっ」
横から真琴があゆをつついたが、あゆはつつかれたままにくらくらと体を揺らす。
「……もう、いい。今日はここまでにしとこう。あゆにも言いたくないことくらいあるだろうしな」
祐一がそう言って席を立とうとすると、
「……うぐぅ、待って……」
あゆはうつむいたまま、手振りで祐一を止めた。
「なんだ?」
「言うよ……だから」
あゆは顔を上げた。
目から、光るものがこぼれていた。
「あ、あゆちゃん、言いにくいことなら言わなくていいよ」
あわてて名雪が止めに入る。
「ううん、いいよ、名雪ちゃん」
言って、あゆは祐一を見据えた。
「ボクも……同じだからだよ」
あゆの言葉に、ダイニングを沈黙が包んだ。
「お……同じっ、て」
名雪のかすれた声に、あゆはただ頷く。
「あ、あんたも……幽霊なのっ?!」
真琴が心持ち顔を青くしてあゆから椅子を離した。
その真琴を──あゆは悲しげな目で見る。
「な、なによぅ……」
上体をのけぞらせて、真琴。
「真琴ちゃん……やっぱり気が付いてないんだね」
その、あゆの言葉の意味を。
真琴本人はもちろん、祐一と名雪も理解するのにしばらくの時間を要した。
「ま……ことも、なの……か?」
祐一がどうにか紡ぎだした言葉を、あゆは肯定も否定もしなかった。
ただ、悲しげな目でじっと真琴を見る。
「ち、違うっ!!真琴、幽霊なんかじゃない!!」
あゆの視線に耐えかねたようにばっと顔を逸らして、真琴が叫ぶ。
「真琴ちゃん……冬に眠って、起きたら夏なんて、普通はないんだよ」
あゆが諭すように語る。
「知らない知らない知らないっ!!」
激しくかぶりを振る真琴。
「入院とか……してたら、何年も眠ったままってことも……あるけど。それは、真琴ちゃんが普通に寝てたんじゃないことの──証拠だよ」
あゆの言葉に、真琴はそっぽを向いたまま唇を噛み、うつむいた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。真琴は、今年の1月に熱だして、で、翌朝になったらいなくなってたんだ。まさか、熱だしたまま外へ出て、それで……ってことなのか?」
いつの間にかあゆの言うことを肯定する形で、祐一があゆを問いつめた。
「うぐぅ……そこまでは分からないよ」
ふるふる、と首を振って、あゆが答える。
「ねぇ、真琴……?この半年、どこにいたの……?」
名雪が震える声で問いかける。真琴は小刻みに体を震わせて、
そして、ふと呟いた。
「やれ、めでたやだきにのけんぞく」
「?なんだそりゃ」
祐一が真琴の顔を覗き込むようにする。
「やれ、われのいのちをえこうして」
微かな声で真琴は呟き続ける。
「真琴ちゃん……?」
あゆが眉をひそめて呼んだが、真琴は答えない。
「やれ、このみをひとにけしょうせば」
名雪がたまりかねて椅子を立ち、真琴に駆け寄る。
「やれ、くいることさらになし」
そう、呟いて。
真琴は──顔を上げた。
その顔から、表情が消えている。
ただ、目には強い光があった。
何の感情も表さない、ただ、強い光。
「わたしが……命を捨てて人の姿になったのは……」
その瞳が祐一を見た。
「……真琴?おい、どうした、真琴!」
真琴はゆらりと立ち上がり、すい……と祐一に近寄った。
その間、祐一も、あゆも名雪も、身動きが出来なかった。
「祐一 ── 一緒に、行こう」
ふわりと、その両手が祐一を抱く。
そのまま……すっ、と、滑るように、祐一をかき抱いたまま、真琴は部屋を出た。
「真琴っ?!」
名雪が悲鳴を上げた。途端、二人の金縛りが解ける。
「真琴ちゃん……もしかして?!」
あゆが叫ぶのに、名雪が勢いよく振り返った。
「あゆちゃん、なにか心当たりあるの?教えて!!」
あゆの胸元を掴んで揺する名雪。
「うぐぅっ、あ、あのね、『ものみの丘の狐』の話って知ってる?」
揺すられながらあゆは少し苦しそうにそう言った。
「え?えっと……小さい頃お母さんから聞いたような……」
「ボクも小さい頃に聞いただけだからよくは覚えてないんだけど……たしか、狐が人に化けて会いに来るんだったよね?」
「うん、そんな話だったと思う……え?まさか」
「荼枳尼(だきに)の眷属、ってさっき真琴ちゃんが言ってたでしょ?荼枳尼天っていったらお稲荷さんと同体だから、つまり荼枳尼の眷属って狐のことだよっ」
「あゆちゃん、詳しいね……」
名雪が呆けたようにそういうと、
「それもお母さんから聞いたんだよっ。真琴ちゃんが、ものみの丘の狐が化けてたんだとしたら……」
あゆは首をひねって考え込んだ。
「じゃあ、真琴と祐一の行き先は……ものみの丘?」
名雪の問いに、さらに首を傾けて、
「なのかなぁ……うぐぅ、よく分からないよ〜」
あゆはとふとふ、とこめかみをつついた。
名雪はぐっ、と拳を握りしめ、
「わたし、ものみの丘行ってみる。あゆちゃんはどうする?」
「ボクも行くよっ」
頷くあゆ。
「わたし、全力で走るから、置いてきぼりになったらごめんね」
そう言い捨てて、名雪は玄関へ飛び出し、入念に靴紐を確かめながら履く。
(大会とか体育祭とか以外で、こんなに真剣に走るなんて初めてだよ)
使わない靴から靴紐を抜き取り、手早く髪をくくる。靴を履き終えてドアを開け、スタート前の気合い入れにぱし、と頬を叩いて、
「ふぁいとっ、だよ、名雪」
そう呟いて、名雪は地面を蹴った。
濃密な青草の匂いで祐一は意識を取り戻した。
「……ここは……?」
森を背後に、草の茂る開けた丘の上に、祐一はいた。
傾いた夏の日が目を刺す。
「わたしたちの庭……」
横から聞こえてきた声にがば、と起きあがると、少女の姿があった。
「誰だ……?」
「さっきまでは沢渡真琴と名乗ってたわ。祐一がそれでいいなら、わたしは沢渡真琴」
少女はそう言って微笑む。
「真琴……だって?!」
祐一は改めてその少女を上から下まで眺める。
言われてみれば……面差しはたしかに真琴だ。
だが、髪型も服も、祐一の知る「沢渡真琴」とは、似ても似つかない。
髪をストレートに落とし、服は洗い立てのような白の和服。
「そうよ。……ふふ、覚えてる?7年前、ここで始めて、わたしと祐一は出会ったのよね……」
そよ風に、気持ちよさそうに目を細める「真琴」。
「7年前だ?馬鹿言え、俺がお前と会ったのは今年の初めだろうが」
「この姿では、ね」
どこか婉然とした雰囲気を漂わせながら、「真琴」が微笑った。
「なんだ、そりゃ」
「祐一。7年前、ここで一緒に遊んだ子狐がいたでしょ……覚えてない?」
真琴の瞳に、祐一は射すくめられたように硬直した。
「7年前?子狐?……あぁ……そんなことも……あったか」
「あれがわたしよ」
真琴の言葉に祐一はぽかんと口を開いた。
「わたしたち一族は、自分の命を力に変えて人の姿になることができる。もっとも、ひと月と保たないけどね……でも、もうそんなことは関係ない」
硬直したままの祐一に、真琴は歩み寄った。
「今日からはずっと一緒よ。今のわたしの力なら、この山の精気を吸って祐一に分けてあげることもできる。祐一もわたしも、ここにずっといられるの。どこへも、行かなくていい……」
祐一にしなだれかかり、真琴は祐一のうなじに手を回す。
「7年前、置いて行かれてから、わたしは祐一をずっと憎んでた……でもそれは、こうしてずっといっしょにいたかったから……」
底知れぬ深さをたたえた目で、真琴は祐一の目を見つめた。
「もう、離さないからね、祐一」
と──
真琴の背後の景色が揺らめいた。
影のようなものが湧き、なにかが光を反射してきらめく。
光は……真琴の首を、横様にまっすぐ突き通した。
「?!」
真琴の表情が驚愕と苦痛に歪んだ。
「……動物と人間の境界なんて、そんなにたいしたものじゃない」
影が低く、呟く。
「……ただ、たった一つ、なくては世が立ち行かない境界がある。それは……生死の境界」
影はなおも呟きながら、次第に形を整えた。
真琴の首を貫く光は白銀の刃に。
そして、それを握る影は一人の少女の姿に。
「祐一、探した」
真琴の背後の少女は、鋭い視線を和らげて、そう言った。
「なによ……なんで、わたしの邪魔をっ……」
首に刃を食い込ませたまま、真琴はもがく。だが、両の刃は天地に向かっており、切っ先へと体を動かしでもしなければ、抜けるものではなかった。
「……死者は──生者を束縛してはいけない」
少女はどこか悲しげにそう言って、刃を真琴の首から抜きはなった。その勢いに引かれ、真琴の体も横面を張られたように飛んで、地に倒れた。
すと、と少女が剣を地に突き立てる。
「間に合って……良かった」
少女の姿を正面から見て、祐一は目を見開いた。
「舞……か……?」
剣を持った少女──川澄舞は無言でこく、と頷いて見せた。
「……戻ってきてたのか」
再び頷いて、舞は地面に倒れたままの真琴に目を向けた。
ぴくりとも動かないが、かといって血の一滴も流れてはいない。
舞は剣を地面に突き立てたまま、真琴のそばにしゃがみ込んだ。
「……お前も……昔の祐一を知っていたの」
そっ、と舞が真琴の首筋に手をやると、真琴の首の傷がかき消えた。そのまま舞は真琴の首に腕を回し、抱き起こした。
「……この子は、わたしが連れて行くから」
祐一の方は見ずに、舞はそう言った。
「連れてくって、その……あの世とか、そういうこと……か?」
こくり。
頷いた舞の姿が、祐一の目にふと、奇妙に幼く映った。
それだけではなかった。
せいぜいくるぶしに届くかどうかだった一面の草が腰に届くほどに伸びる。
草の先に穂があった。
麦の穂だ。
「祐一」
くるり、と舞──の面差しを残した、幼い少女が振り向いた。
「……覚えている?」
夏の西日の射す麦畑──
たたずむ少女──
先ほど、真琴に7年前のことを思い出させられたこともあったのだろう。
祐一は記憶の底から、その情景を見つけだすことが出来た。
「舞、お前……」
「……確かに、顔かたちも変わってしまってはいるけど」
うんせ、と舞は真琴の体を背にしょった。身長が縮んだので、真琴の足は完全に地面に引きずっているが。
「……思い出せなかったのはお互い様だから、何も言わない。ただ、最後の時、やっと気付いて……すごく、悔しかった」
舞はきゅっ、と唇を噛んだ。
「祐一に、行って欲しくなくて……だから、わたしが……力で、魔物を呼んでしまったの」
「ああ……あの、電話……か」
こくり、と舞が頷く。
「最後の一体を斬って、その時、何もかも……思い出した。あの魔物たちは、みんなわたしの分身。すべての魔物を討ち果たすときは、だから、わたしも生きてはいられなかった」
不意に辺りは丘の上に戻り、舞も18の少女の姿を取り戻す。
「祐一。わたしと一緒にいてくれて……嬉しかった」
「それは……佐祐理さんに言ってやれよ」
祐一はたまらず目をそらして、言う。
「佐祐理には今朝会ってきた。元気なかったから、なぐさめてあげられればよかった」
「そうか」
そう答えて、祐一はきびすを返す。
「祐一」
背中に舞が投げかけた声に、祐一は不承不承立ち止まる。
「もう一人、いる」
「……なんのことだ?」
「祐一が、思い出してあげなければいけない人」
その時、山道を駆け上がってくる人影が祐一の目に映った。
名雪と、その後を懸命に追ってくるあゆ。
「わたしのことも、この子のことも、その人のことも。できれば……ずっと忘れないで」
舞の口調に湿り気が混じった。
祐一が振り向いたときには、そこにはもう、草が揺れているだけだった。
「はぁ、はぁ、ゆ、ゆういちっ、まこと、は?」
息を切らせて問いただす名雪に、祐一はただ首を振って見せた。
「……そう……」
安堵半分寂しさ半分の複雑な顔をする名雪。
「う、うぐぅ、なゆき、ちゃん、ほんと、はやいね……」
ようやく追いついたあゆがぜえはあと荒い息をつく。
「7年前……」
ふと、祐一は呟いた。
舞や真琴と出会った、その年。
祐一は、なぜか、その年の冬のことをよく、思い出せない。
何かひどく辛いことがあった。
だから……祐一は、見送りの名雪に、めちゃくちゃに八つ当たりした。
それは思い出したが、が、どうして名雪にひどく当たったのか、それだけを祐一は未だに思い出せずにいた。
舞の言う、思い出してあげなければいけない人。
そのひとは──その、辛いことの、中心にいたのではなかったか。
祐一は何気なく森の上空を見上げた。
そして、喪失感にとらわれた。
そこにあるはずのものが、ない。
狐だった真琴と遊んでいた頃、見上げればあったはずのもの。
「そうか……だから、ここへ来ても、すぐに思い出せなかったのか……」
祐一はふい、と視線を下ろした。
「?」
不思議そうな顔の名雪と、
「……」
唇を結んだあゆ。
「ボク……行きたいとこがあるから、そこに寄ってから行くね」
すい、と体を翻して、あゆは森の中へ消えた。
「あゆちゃん?!」
慌てて追おうとする名雪の手を、祐一は掴んで止めた。
「少し、訳ありでな……あいつは、俺に見送らせてくれ」
「……」
わずかの間祐一をじっと見ていた名雪は、ふっ、と表情を緩めて、
「うん。いってらっしゃい」
そう言って、逆に祐一の手を握り返した。
「絶対……戻って来てよ。もう、おいてきぼりは、嫌だよ……」
祐一は頷きだけを返し、森の中へと分け入った。
場所は──おおよそ、見当が付く。
7年前、一本の巨木がそびえていた、広場であった。