さて。
神原早樹[かんばら さき]、当年取って16才。それなりに16年分の人生経験は積んできたつもりである。
だが。
大勢の人でにぎわう商店街で、いきなり年の頃10ぐらいの女の子、それもその子の背丈ほどもあるでっかいスーツケースを引きずった、その空いた方の手でスカートつかまれて、
「だいどーげいにんさん」
……なんて呼びかけられたときの対処法なんて、からきし分からなかった。
とりあえず。
「えーと、わたし、大道芸人じゃないんだよ」
確かに街頭でパフォーマンスをしていたのは間違いない。が、それはあくまで大道芸などではなく、
「プロモーション。つまり、広告、お知らせなの。分かった?」
「……だいどーげいにんさん」
しかし、その子は小さな声でそう繰り返して、早樹のスカートを強く握りしめた。
ぴく。
(落ち着くのよ、早樹。わけ分かんなくてこんなこと言ってるだけなんだから、この子)
とは思いつつも、その、30分ほど前のプロモーションに殴り込みをかけてきたアホ──返り討ちだ、もちろん──の捨てぜりふが、ついつい脳裏に浮かぶ。
『何が新しい格闘技の世界だ。貴様らは所詮、こうして己の技を見せ物にする大道芸人だ!』
「へへへ。お姉ちゃん、これでも武道家なんだぞ」
びしっと構えてみせる。すると、その女の子は眠そうな目をぱちくりさせて、
「かっこいー」
と言った。
(ふっ、ご覧なさい。何にも知らない子供だって、私たちエクストリーム・ファイターの真剣さは分かってくれるんだから)
ひそかに勝利の喜びに浸る早樹。だが、
「次はなんの芸?」
とその子に聞かれて、一気に気合いが萎えた。
「……うぅ」
早樹はそっとしゃがんで、スカートを握る手を包み込み……優しく外した。
「まだまだ修行不足だわ……というわけでお姉ちゃん旅に出るからまたね」
そして早樹は素早くその場を後にした。
「エクストリームの世界に身を投じて10年……子供って正直だもんなぁ……」
ふう、とため息など付いて青い空を見上げてみる。
「3期連続クラスチャンピオン──そんなもんで浮かれてられないや。まだまだだなぁ」
無差別格闘──あらっぽく言えばルール厳守のケンカ。エクストリームとはそのルールを指し、またそのルールに基づいて行われる企業主催の公開ファイトをも言う。拳法家だった祖母の血を引いてか、幼い頃から格闘技を続けて、気づいてみればその世界の、一つの頂点に立っていた。とは言っても、そこに「賞金」そして「ショービジネス」という要素が絡むことで、エクストリームを茶番呼ばわりする格闘家が多いのは事実だ。さらに言えば、企業お抱えのエクストリームファイターには、その言葉通りの茶番役者がいることも事実である。
だからこそ。エクストリームの本質はそんなものではない、と信じ、また分かって欲しいから、次回大会の街頭プロモーションに参加したのだ。ちなみにそんなこだわりでバイト代は断った。
「……葵ばっちゃんに稽古付けてもらおっかなー」
小柄ながら、エクストリーム高齢者部門では未だに上位をキープする祖母のことをふと思う。
そのとき。
「きゃあああっ!」
突然上がった悲鳴に早樹ははっと振り返った。黒いスーツ姿の男三人……その内の一人に抱えられたさっきの女の子。
その悲鳴に振り返った通行人は多かったようだ。が、素早く彼女を抱えた男がその口をふさぐ。残る二人はそれをブロックして、何が起こっているのか周りには分からない。──その動きを怪しい、と見抜ける、早樹のような人間以外には。
(なに、あれ……まさか誘拐?でもなんかでっかいスーツケース持ってたし、家出少女を連れて帰るだけとか……)
瞬間考え込んだが、
(もー、間違ってたら後であやまるっ!)
とん、と踏み出す。踏みだしは力強く……そしてそれを受ける踏み込みは軽やかに。人混みを素早く縫って黒服三人に肉薄すると、女の子を抱えた黒服にとりあえず一撃。
「このっ!」
バランスを崩したところへ、女の子を引っ張って奪い取り、とりあえず前へ下ろす。
「間違ってたらごめん。誘拐?」
こくこく。
女の子が頷くのを確認して、ぐっと女の子を後ろにかばう。
「よーし。警察が来るまでわたしが相手しちゃるからねっ」
言うなり、歴戦の猛者を幾人もマットに沈めてきた、祖母直伝のハイキックを放つ。男の一人がそれをまともにこめかみで受け、首がかくん、と90度曲がった。
(え?え?これって折れてるんじゃないの?)
早樹がさあっと顔を青ざめさせたのもつかの間、男は表情一つ変えないままひょくっ、と首を元に戻した。
(な、なにこいつ……)
不覚にもがら空きになった腕を、男の一人がつかむ。
「いっ……!!」
(なんて馬鹿力?)
男の力の方向に沿ってくる、と体を回し、逆にバックを取って肘を極める。握力が抜けたのを見計らって、そのまま逆に腕をつかんで、
「いい加減おとなしく……」
早樹が男を押さえつけようとすると、突然男の腕から力が抜けた。
(肩、外した……)
と思いきや、男はその肩を支点にくるりと早樹の方に向き直った。
(え、え、外れてない?!)
その男も──立ち回りの間、表情一つ変えない。肘が極まったのは確かなのにうめき声一つ上げるでもなく、いわんや息を荒げる風もない。
あまりの薄気味悪さに、早樹は思わず男から手を離し、女の子をかばいながら一歩下がった。
(こいつら……いったい、なに?)
と、スカートが引っ張られた。見れば例の女の子だ。
「……逃げよ」
かすかな声で訴える。
早樹は一瞬迷って──ばっと女の子を抱え上げた。そのまま走り出そうとしたが、
「カバン……」
女の子が言うのに、
「うー、こんなときにぃ……OK!」
片腕で女の子を抱えなおし、もう片手にスーツケースを引いて早樹は走り出した。
「ふう、ふう……」
とりあえず早樹は近所の公園で女の子をとん、とベンチへ下ろして一息ついた。
「なんなのよあいつら……蹴っても効いてないし首も腕も変な風に曲がるし……」
と、そこでちょこんと所在なげな女の子を見る。
「ね、あなた、あれ何なのか知ってる?」
しゃがんで視線を合わせながら、早樹は尋ねた。
ふるふる。
女の子はかぶりを振った。さらりとした長い黒髪が時間差で揺れる。
「んー……じゃとりあえず自己紹介しよ。わたしは神原早樹、16才。あなたは?」
「……藤田由香里[ふじた ゆかり]……小五」
「で、由香里ちゃん、なんでそんなでっかいカバン持って歩いてるの?」
「……あのね、お父さん死んじゃったの」
早樹は一瞬息を呑んだ。
「事故だったって……タイヤに何か巻き込んでハンドルを取られたみたいなんだって。何かはよく分かんないけど、機械みたいなの」
(機械?)
早樹の意識にその言葉が引っかかった。
「お母さんはもっと前に病気で死んじゃってて……それでね、前におじいちゃんが言ってたの。
『由香里、もし由香里が大人になる前に父さんも母さんもいなくなって、変なことが起こったら、このカバンを持ってお逃げ。』
……『まるち』が、お前を守ってくれるからって」
「ふーん。ね、近くに親戚の人とかいないの?」
由香里は──ほんの一瞬身をすくませたような気がしたが、
ふるふる。
とかぶりを振った。
「そっかー。でも、まるちって何?そのカバンの中に入ってるの?」
すると由香里はまたふるふる、とかぶりを振って、
「いつでも由香里の近くで『だいどーげー』やってるんだって」
「あ、それで……」
早樹は、由香里が自分を大道芸人と呼んだ理由に思い至った。型どおりの演武とはいえ、次々と大の男を投げ飛ばし、打ち据える早樹を、少しは頼ってくれたのかもしれない。
「うーん。わたし、普通の奴らからだったら、由香里ちゃんちょっとは守ってあげられるかもしれないけど……まるちって人じゃないし。それに正直言って自信ないなぁ……よし、警察いこっか。由香里ちゃんが変なのにさらわれようとしたのは確かなんだし、そのほうがいいよ」
ぽん、と由香里の頭に手を置いて、わしわしとなでてあげる。由香里の眠そうな目がまたぱちくりした。
と。がさり、と言う音にはっと振り返った早樹の目に、三人の男の姿が映った。
「ひょっとすると地の利はこっちにあると思ったのに、甘かったかな……」
早樹はすっ、と立ち上がって、
「由香里ちゃん。とりあえず逃げて。わたし、こいつらできるだけくい止めるから、どこでもいいから近くの家に駆け込んでお巡りさん呼んでもらって」
由香里は……こく、とうなずいて、カバンに手をかけた。すると。
男の一人の腕が──いきなり飛んできて、カバンにぶち当たった。カバンをしっかりとつかんでいた由香里もつられて転ぶ。拍子にカバンのふたが少し開き、中から金属製のひれのようなものが二つ転げ出た。
(こいつらやっぱ人間じゃない。あの無表情、まさか──メイドロボ?)
早樹は唇をかんだ。メイドロボ相手に、対人用の格闘術など、どれほど通じるというのか?
今度は別の男の腕が、早樹めがけて飛んでくる。早樹はその軌道に右拳を合わせると、ねじりながらの打ち出しではじき飛ばした。そのまま地を蹴って、男の水月に拳をたたき込む。これまた祖母譲りの、形意拳五行拳の一、崩拳の応用である。男が吹き飛ぶ……が、明らかに人の体よりも硬く重いものを撃った反動に、早樹の右手首には激痛が走った。そして男は……むしろ滑稽なほどひょっこりと立ち上がってくる。
(わたしでは倒せない!)
格闘歴10余年の中で、誰ほど勝てそうにもない相手を前にしたときでも味わったことのないほどの絶望が、早樹の心にゆっくりと広がって行く。
「まるちぃーーーーっ!!」
そのとき、由香里の叫び声が響き渡った。
さて、話はその公園の、早樹・由香里たちとはちょうど対角位置の広場。数分前にさかのぼる。
だぶだぶの服を着た小柄なピエロが、ぽんぽんとお手玉──ジャグリングをやっていた。近所の暇な子供たちがそれを見物している。が。
ぽとぽとぽとぽと。
「……あぅぅぅぅ」
落としたボールを追いかけて右往左往するピエロ。
「なー、ピエロのねーちゃん、やっぱし才能ないぜ」
悪ガキの一人が言い、周りの連中がどっと笑う。
「あぅぅ……でも、やらなきゃいけないんですぅ」
ピエロはとりあえず袋にボールをしまうと、今度はクラブ(たいまつみたいな奴だ)を引っぱり出して、それをぽんぽん放り上げ始めた。が、タイミング悪く受け止めているうちに、全部のクラブが宙高く舞い上がり──よりによっていっぺんに、見上げたピエロの顔面に落下する。
どかかか。
「はぅぅぅぅ」
それでもめげずにクラブを拾うピエロ。
「いつかお嬢さまがわたしをお呼びになるまで、こーやって訓練をしないといけないんですー」
「ピエロのねーちゃん、それ何の訓練なのさ」
「え?えっと、えっと、は、はわわわわわっ」
こここん、こちん。
今度はたて続けに脳天でクラブの一つ一つを受け止めてしまう。
「こ、これは、手先の訓練ですっ」
「……しっかしねーちゃんほんっと頑丈だよなー」
「はいっ。頑丈なのがとりえですから」
「褒めてない褒めてない」
そこへ。
「まるちぃーーーーっ!!」
叫び声がかすかに届いた。とたん、ピエロの様子が変わった。
「お嬢さま……今、参りますっ!!」
ピエロは帽子をかなぐり捨てると、声がしたとおぼしい方向へたたた、と走り出した。
取り残された子供たちの一人が、ぼそりとつぶやいた。
「なー、さっき、『まるち』って聞こえたよな」
「うん」
「なんか帽子取ったら、あのねーちゃん、昔の『マルチ』ってメイドロボに似てなかった?」
「ばーか。メイドロボが泣いたり慌てたりすっかよ」
(『まるち』……あの子の、最後の頼みの綱……)
早樹は必死に男たちと由香里の間に入りながら、男たちをひたすら牽制していた。というか……牽制するのが、精一杯だった。
(ねえ、『まるち』?ほんとにいるんだったら、出てきてよ!)
男の一人が振り下ろす腕をなんとかはじいて反らす。だが、鋼の一撃はさばくだけでも早樹の体に苦痛と、疲労とを残していく。
そこへ……ぱたぱたと近づいてくる足音。
(ひょっとして、ほんとに『まるち』?)
ちら、と一瞬向けた視界に、ぽてっとこける小柄なピエロの姿が映った。
「なに、あれ……」
とりあえず早樹と由香里にとって幸いしたのは、男たち三人もそう思って呆気にとられたようだったことだ。
その間に、ピエロはむくっ、と起きあがると、再びたたた、と由香里に走り寄った。
「由香里お嬢さま、とりあえずこれお借りします」
ピエロはケースからこぼれ落ちた金属製のひれを拾うと、それを何を思ったか両の耳に当てた。すると突然、ピエロの目から光が消えた。
「──アタッチメント装着。ユニット<マリオネットマスター>始動承認を確認」
それだけつぶやくとピエロの目に光が戻る。それを見ていた早樹の脳裏にふと蘇ってきた映像があった。両耳に金属製のセンサーユニットを付けた小柄な女の子、の姿のメイドロボ。小さい頃、おばあちゃんの家で働いていた──HM-12、マルチ。うりふたつの二つの顔が早樹のイメージの中で重なる。
(『まるち』って……そのマルチなの?)
早樹の混乱をよそに、ピエロ姿の彼女──マルチは高らかに叫んだ。
「あるるかぁぁぁんっ!!」
その声に応えるように、スーツケースのふたがバタン、と開き……
中から、黒衣をまとった人姿が立ち現れた。
「え……」
早樹は呆然とした。確かにでかいスーツケースだとは思ったが……
(こんな、3メートルくらいあるようなでっかいのが、どーやって入ってたのよ?)
全身漆黒の出で立ち。といってもスーツのような服ではない。あえて何かに例えるなら──道化の舞台衣装。頭には羽根飾りを着け、顔はまさに能面のようだ。それも、町で見かけるメイドロボのようなレベルではない。本当に小面でも張り付けたような硬質感である。その左目が……なぜか不気味に破損している。そう言えば左手もない。その代わりと言っては何だが、右手にはまるで印象の違う、鋭い鉤爪を持った、折れた『腕』を握っている。
「あるるかんっ。アン・ガルド( 構え)っ!」
黒衣の人型は、マルチの言葉の通りに、その握った腕を3人……いや3体の黒ずくめに向け、腰を落とす。
「いきますっ!レザァ・マシオゥ(戦いのアート)!」
どんっ。
人型が宙に舞う。身構える3体……。
「フレッシュ・アンフラメ(炎の矢)!」
マルチが叫ぶと、人型の右手首が小刻みに振動を始めた。その先の鋭い鉤爪が激しく前後に動き出す……まるで、アスファルトに穴を穿つ道路工事の機械のように。
そして、人型が3体の前に降り立ったとたん──
まさに矢のように繰り出される鉤爪の無数の突きが、3体の黒づくめを、一瞬でぼろ切れのように粉砕したのである。
一瞬宙に舞い、そして地に落ちるそのかけらは……肉片でも血でもなく、金属とコードと基盤の屑。
「やっぱ、こいつら、ロボットだったんだ……」
早樹が呆然とつぶやく。
「……まるち?」
かわいらしい声に振り向くと、由香里がぽーっとマルチと、黒衣の人型を見ていた。
「ゆっ、由香里お嬢ざま゛あ゛あ゛ぁ」
とたん、マルチは泣きながら由香里に駆け寄った。そのままぎゅっ、と由香里を抱きしめる。
「どごに゛い゛だんでずがあ゛ぁ?ざがじま゛じだよ゛お゛ぉぉ」
「……苦しい……」
「はわわわわっ」
今度は慌ててばっと腕を広げる。
「すっ、すみませぇぇんん!」
なでなで。
そんなマルチの頭を、由香里は背伸びして優しくなでていた。
「ううっ、ありがとうございますぅ」
「こちらこそ、ありがとう」
ほのぼの。
……はっ。
思わずつられてほのぼのしてしまった早樹は、おそるおそるマルチに話しかけた。
「ね、ねえ、マルチ?」
「はい?」
なでなでされながらきょとんと振り返るマルチ。
「あなた、名前は?」
「はい、HMX-12、マルチです」
「HM……X??」
「あ、私、商品化前の試作機なんです。ですから、名前もそのままマルチと呼んで頂いてます」
早樹が聞いたのはそれだった。たいていメイドロボは購入者が独自に名前を付ける。製品名そのままでは人間が呼ぶとき不便だからだ。
「え?でもHM-12っておっそろしく昔の機種でしょ?その試作機が、何で今頃……」
「いろいろありまして」
そう言って、マルチはあ、とつぶやいた。
「そうだ、『あるるかん』しまわないといけないんでした」
「あるるかん?」
早樹と由香里の声が重なる。
「はい。あるるかん、ご苦労様でした」
マルチがそう言うと、先ほどの黒衣の人型がとん、とスーツケースに入った。そのまま見る見るうちに体が折り畳まれてゆき、元通り収まってしまった。
「うわ。入っちゃった」
早樹はつい見たまんまを口にした。
「これ、由香里お嬢さまのおじいさまから頂いたんですよ。懐かしいですー」
「おじいさまって……由香里ちゃんにこのカバン持って逃げろって言った人?」
「うん。たぶん浩之[ひろゆき]じいちゃんだと思う」
「そうですよ、お嬢さま。浩之……さんです」
マルチがどこか遠いところを見るような目で言う。
(あれ……!!)
その時、早樹はさっきから感じていた違和感をはっきり自覚した。
「ねえ、マルチ……あなた、さっき泣いてなかった?」
「え?そ、そうですね。お嬢さまに会えてあんまりうれしくて、つい」
今度は……照れ笑い。
「メイドロボが……泣いたり、笑ったりするなんて……」
「私、特別仕様なんです」
照れ笑いのままもじもじとマルチは言った。
「……はあ」
そう言われると早樹としてもこれ以上つっこみようがない。
「あ、あの、お嬢さまの危ないところを助けていただいて、本当にありがとうございました」
マルチはそんな早樹に深々と頭を下げた。
「え、えと、まぁその、なりゆきだし」
「そっ、それではとりあえずこれで」
言ってマルチはえっこらせとスーツケースをつかんで、もう一方の手で由香里の手を握った。
「へ?これでって」
「ひとまず追っ手はかたづきましたので、由香里お嬢さまはわたしが責任持って安全な場所にお連れします」
にこ、と笑顔の(なんかスーツケースを持った手がふるふる震えているのが気にはなったが)マルチがきっぱり言った。
「う、うん……」
なんとなしに早樹はぱたぱたと手など振ってみた。
「ご、ごきげんよぉ」
マルチが由香里とスーツケースを引いて(いささか足元がおぼつかないが)歩いて行く。少しずつ遠ざかる影の中で、由香里がちらりと振り返ったような気がした。その影がやがて曲がり角を曲がって見えなくなるのを待って、早樹はこれもきびすを返した。
(……なんていうか……めったにない体験したよね……)
かすかに手足に残るしびれが、先ほどの戦いが現実であった名残ではあるが……
(メイドロボが人を狙ってきて、それを迎え撃ったのがやっぱメイドロボのマルチ、と、よく分かんないけどあのでっかいのもロボットだったんだろうなぁ。由香里ちゃん、だったっけ、なんであんなのに狙われたりするんだろ……)
早樹はぶんぶんと頭をふるった。
(なにいってんだか。あたしなんかが関係する話じゃないやね。一応平凡な小市民のあたしとしては……)
そう思ったとき、
『……大道芸……』
なぜか先刻のアホの言葉が再び脳裏をよぎる。
(武道家って……そんなもんでいいのかな……)
『君子は危きに近寄らず』と言う。
一方『武士道と云は、死ぬ事と見付たり』と言う。ある人によれば、武の道を行くものこそ己の命を省みず他者のため進む意味だとも言う。
いずれにせよ先人の遺訓だ。己の道を最後に決めるのは……常に己。
早樹は一瞬立ち止まり。
きびすを返し、公園へと駆けだした。
ステージ1 幕