「ふへぇ……」
おもわず、声を漏らして。
早樹は、背後に盛り上がったあるるかんの量感にはっと気を取り戻して、一足先に雨月館に侵入した悠子の後を追った。
「ケース自律防御システムセット……あるるかん、行きますよっ」
その後を離れずあるるかんと……少し遅れてマルチ。
確かに門の中の人間達も、気勢をそがれたようであった。見た目ごく普通の少女の……いや、人間の蹴りの一つで、立派な屋敷の鉄格子の門が倒されたらたいていの人間は仰天することだろう。その門の下敷きになった輩が身動きがとれないのは当然として、早樹が悠子に追いついたときには既に10人ほどがぴくりともせずに横たわっていた。
半ばへろへろと打ちかかってくる男達を、ひどく手応え無く打ち伏せて、早樹は悠子の背後に駆け寄った。と、再び奇妙な寒気を覚える。
「悠子って……なによあれ」
早樹としても、何を称して「あれ」と言った訳ではなかった。強いて言えばこの場の状況そのものであったろうか。
「柏木の人間には代々馬鹿力の持ち主が生まれるの。そゆことにしといて」
言葉少なに答えた悠子は、たっ、と跳躍して、呆けたように突っ立っていた男達数名を右腕の一振りで叩きのめした。負けていられない、と、早樹は手近な男の胸板に踏み込みの勢いを両掌に載せて叩き込む。息を詰まらせた男が悶絶して倒れる。その後ろ、逃げ腰の男にすっと間合いを寄せ、中段蹴りを牽制に放っておいて、着地したその足で再び地を蹴り相手の右膝へかかとを落とす。これも膝を抱えてひっくり返るのを横目に見て、あるるかんの威容をその先にとらえる。男達の戦意が波が静まるように引いて行くのが感じ取れる。
(銃剣類なんて言ってたけど、刀持ってるようなのは悠子が片づけてたし、狭いからか銃持ってるのは居なかったし……さて、そろそろ動きがあっても良さそうなもんだけど)
早樹はひとまず息を落ち着けながら残りの連中の動きを伺う。悠子は底知れずのスタミナを見せて、猫が小動物でもいたぶるように次々と男どもを殴り倒しているが……
と、あるるかんの後ろのマルチが遠目にも分かるほどびくりと体をすくませた。
「みなさんっ、伏せて下さいっ!!」
弾かれたように早樹、マルチ、あるるかん、悠子、つられて男達の何人かが体を地に横たえる。その上を何かきな臭いものが高速で行き過ぎたのを早樹は感じた。悲鳴と、それに続く鼻に付く異臭……
「え……」
そろそろと、身を起こした早樹の目に、衣服を朱に染めて倒れている何人かの男の姿が映った。
「炎が散った……」
ぽつりとつぶやく悠子の声が、嫌に五月蠅い。
「……ばか、です……こんなこと、してる場合じゃないのに……」
マルチはすん、としゃくり上げながら、あるるかんを立ち上がらせた。
ここは 隆山
今は 夜
わたしは 神原早樹
そしてこれは
これは
「……ひ」
早樹の喉に声がからみつく。その目を、いつの間にか悠子がのぞき込んでいた。
「死体なんて見るのは初めてだよね。わたしも」
(なぜだろう。悠子の目、やっぱり猫みたい)
「普通、人が死んだらああいうのが残るんだよ。殺されてもね。で、あたしも早樹も、マルチたちもああなるわけにはいかない。由香里ちゃん、助けるんだからね」
早樹はこくこくとただ頷きを返す。
その早樹の両頬を挟むようにぺちぺちと叩いて、悠子はすっと体を放した。
その横を……
意に介せずと駆け抜けるいくつもの影。人間大の者、そうでないもの。どうやら門の外にいた連中──悠子の言う「ゴミ」共だろう。
「まずい。先を越される」
自分が発したらしいその言葉で、ようやく早樹は我に返った。こみ上げそうなえづきをこらえながら、先に行ったらしい「奴ら」の姿を追う。
門から約10メートルほど。散開した一団の5名ほどと、1体が、闇に浮かび上がる洋館の玄関に殺到する。後は……左右に分かれたようだ。
(くっ!)
早樹が歯がみして見やったその玄関から……細い影が滑り出て、殺到した一団をこともなげにからめ取った。
「あらぁ。玄関の守りが、機銃スプリンクラーだけなわけないでしょ」
どこか鼻にかかったような、若い女の声。
「礼儀を知らない子たちには、この『キヨヒメ』がじっくりお灸を据えて上げるわ」
からめ取られた連中がぐい、と庭側に押し出されて。
ぼっ、と赤く光ったかと思うと、一団は嫌な臭いを放ちながら黒こげになっていた。
「げっ!!」
たまらずに早樹はその場に胃の中身をぶちまけた。その横へ……すっと、影が寄った。
「そういう方には、あるるかんがちゃんとしたおもてなしの仕方を教えて差し上げます」
後ろから、凛としたマルチの声。
「へえ。噂には聞いてたけど、HM-12に操られるCRね……面白いじゃない。『キヨヒメ』のヒートウィップ、そのデカブツにかわせるかしらね?」
ひょん、とうなりを上げて、赤い線が宙を舞った。早樹は体を倒れ込ませながらも、
(間に合わない……)
胸中悲鳴を上げる。が、一瞬の後、遙か彼方の庭が燃えだした。今度は水のスプリンクラーが瞬く間に火事を消し止める。
「な……」
「レザァ・マシオゥ……聖ジョルジュの剣」
低くつぶやくマルチ。あるるかんの右腕には、先刻道場で天使型CRに斬りつけた凶悪な形状の刃が、月明かりに凄絶に輝いていた。
「ヒートウィップを斬り飛ばすですって?!な、なんなのよそれ?!」
恐慌を来したらしい女の声。あるるかんは一足で跳躍し、刃で館の玄関を一閃した。重厚な扉が粉砕され、青ざめた20代ほどの女と、蛇の頭を持つ和服の娘姿の影が逆光に照らされた。
そちらへ、マルチがててて、と駆けて行く。
「……申し訳ありませんが、あるるかんは実戦配備機なんです。……そして、わたしは……由香里お嬢さまをお守りするためにあるんです」
有効操作距離に近づいたマルチが、あるるかんに指示を下す。
蛇の頭の娘姿の機械を叩きつぶして、あるるかんはその刃を納めていた。
さて……。
雨月館門前で騒動が始まった頃。
由香里はぱちくりと目をしばたたいてむくっと体を起こした。
とりあえず目に入ったのは、なんだか分からない巨大な機械。──いや、その機械の役割は分かりそうな気がする。
(勘違いしている人たちが、わたしの力をどうにかするための機械だ。たぶん)
周りの人々が目に入ったのは、それからだった。
「由香里ちゃん、目が覚めた?」
妙に甘とろい声にゆっくりと振り向くと、看護婦(の格好をしたおばさん)がにこにこと由香里の方を見ていた。その視点で、由香里は自分がベッドに寝かされていたことに気づいた。
とりあえずこくん、と頷きを返す。
「大変だったわねぇ」
あくまでにこにこと、「おばさん」(由香里的呼称決定)。
どう答えていいか分からないので由香里は呆けていた。大変だったのは確かだと思うのだが、だからと言ってこの人にどう答えたものか。などと考えている内に、まぶたがぱちくりと動いた。照明がまぶしい。
「あら、由香里ちゃん、まだおねむなの?」
(……なんか、もう一つ勘違いされてる)
由香里は胸中つぶやいて、とん、とベッドを降りた。
「だめよ。まだ寝てなきゃ」
「おばさん」はかるがると由香里を抱え上げ、ぬいぐるみでも置くようにぽん、とベッドの上に置いた。
「……」
(前のろーやより……ましか)
由香里はそう思って、状況を見守ることにした。(すくなくとも)マルチと早樹が、自分のことで動いてくれている可能性は、ないとは思っていなかった。今彼女に出来るのは、確かな状況を把握し、彼女たちにコンタクトできたときに、足手まといにならないようにすること。由香里はひとまずそう覚悟を決めた。
(助けだされるしか能のないお姫様にはなるな。せめて助けに来た王子様に、城の見取り図を書いてやるくらいにはなれ)
正直意味不明だが、そう、祖父に言われたことを、由香里はしっかりと覚えていた。
<全館、第二種警備態勢。地上階において状況A発生。レベル4以下の職員は速やかに地下非常口より脱出して下さい。本施設と地上階以上はこれより15分後に隔壁により隔離されます>
唐突に部屋にそんな声が響き渡った。同時に室内の面々に動揺が広がる。
「静かになさい!!由香里ちゃんが怯えます!!」
「おばさん」の一喝で室内はしん、と静まり返った。
(……おばさんの声の方がこわいよ)
それは口には出さずに、由香里は先ほどの声の意味を考えた。
(1、「けいびたいせい」ってことは……なんか起きたんだ)
頭の中で「警備態勢」と漢字を当てる。
(2、それが起こったのが地上階で、そこから上がここと15分後に隔離されるんだったら……)
ここは、多分地下施設だ。
(3、で、誰も動かないってことは、まだこの人たちには余裕がある)
なら、火事のような大事故では、多分ない。事態はもっと局所的で、人の手で対処できるようなもの……ということだろう。
(4、警備態勢っていうのは、相手がいる騒ぎってことだよね)
「状況A」というのがその騒ぎの内容のようだけれど、言葉からは意味はさっぱり分からない。ただ、それが何者かの侵入を示すものだという可能性は、低くない気がした。
(いまのとこ、言えるのはそこまでだね)
それ以上推測を進めると、根拠の薄い期待になりそうに思えて、由香里は頭を止めた。
改めて見回すと、部屋はかなり広かった。機械も先ほど目に付いた一つ切りではない。かなり向こうの壁際に、何台かのブラウン管を備え付けた機械があって、その前にはグレーの作業着様のものをまとった、頭にヘッドセットを着けた男が数人座っている。意図して声を潜めているようだが、あわただしい様子は由香里の所からでも充分に見て取れる。
(ネット電話のセットみたいなの付けてる……多分集中情報管理装置)
と、いう単語がすっと出てきて、由香里ははて、と首をひねった。
(……なんでそんなの知ってるんだろ)
ぱちくりとまばたきしてみる。無論そんなことで分かることではない。
しょうがないので更にぐるりと部屋を見回す。ベッドが部屋の隅にあることが分かった。どの辺かと言えば、出口の反対側の隅である。そして、部屋の中央に例の装置が鎮座しているという寸法だった。装置の後ろには格闘技のリングをふた周りほど小さくしたようなものがあった。その四隅と、途中の半端な位置に柱があり、3本ほどのロープがぐるりと張られていた。
(……簡易サイコブーストフィールド)
再び、首をひねる。違和感のある言葉がまた、すっと出てきた。
(見たこと、あるような)
この間連れ込まれた施設では、見ていない。すると、一体どこで見たのだろう。
(……おばあ……ちゃん……?)
長い白髪の、物静かな……というよりやたらと声の小さい女性の姿を、唐突に由香里は思いだした。
(……由香里)
(????)
思い出しただけではなく、声が聞こえたような気すらする。
(……思い出して、在りし日のことを……)
はっ、と辺りを見回す、が……無論、既に亡い人の姿があろうはずもない。
(でも、おばあちゃんだったら自力で出てくるような気もするな)
由香里はひとりでこくこくと頷いた。
「?」
「おばさん」が不思議そうに由香里を見て首をひねる。まあきょときょとと辺りを見回して一人頷いていれば、何を納得したのかと不思議に思っても無理はあるまい。
「室長、測定システムの方準備できました」
中央の装置に取り付いていた連中の一人が声を発した。すると、「おばさん」が頷き、由香里をまたひょいと抱え上げて、とん、と装置横のリングの中に入れた。
「由香里ちゃん、ちょっと我慢してね」
にっこりと……笑みを浮かべてみせる。それを見た由香里はぞおっと体中が総毛立つのを感じた。
「予定通り実験を開始します。ブースターを起動、出力30から始めなさい」
「おばさん」の声と同時にリングから低いうなり声のような音が響く。と、ロープの途中の半端な柱のてっぺんが光を放ち始めた。
「あ!!」
見えない縄で引きずられたように由香里はリングの中央に飛ばされた。とたん、その周りを柱の先端から放たれた光の帯が五角形の形に取り囲む。
「ペンタグラフ安定。出力現在30、測定を開始します」
装置の前の連中の中から声がする。
「……う」
一方由香里は、体中をもぞもぞと何かがはい回るような感触に息をするのもやっとだった。いや……何かが「しみ込んで」来ようとしているような……。
(やだ……あっち行ってよぉ)
リングの真ん中でぐねぐねと体をよじらせる。しかし相手が確固とした実体を持つ相手ではない故に、由香里がもがいてももがいても、「何か」を払いのけることが出来ない。
「ブースターデーモン、拒絶されています」
「出力を40まで漸次上げながら様子を見ましょう。ゲートの状態のモニタリングを怠らないように」
先ほどまでほとんど聞こえなかった羽虫のような音が由香里の耳を刺激しだした。機械の動作音らしいが……音が強まると同時に、「それ」が由香里にしみ込もうとする力も強まるようだ。
「出力、40。デーモンは依然としてオブジェクトに同化できません」
「このまま様子を見ます。10分経っても状況に変化がなければ、出力を漸次45へ」
「……うぅ」
大人達の意味不明な言葉を聞きながら、由香里はひたすらおぞましさに耐えていた。
ふたたび、館の玄関前。
残骸と化した娘姿の機械の横で、女は脱力したようにぺたりと座り込んだ。
その横を何事もなくマルチは通り過ぎて行こうとする。
早樹と、そしてどうやらこれには流石に呆気にとられていたらしい悠子が慌ててその後を追った。……と、女が何かをつぶやいた。
「?」
つい足を止めて、早樹はその声を聞こうとかがみこんだ。
「……ろさない」
「何?」
「何故殺さない」
「……え……?」
早樹は凍り付いた。
この女は……何を言っているのだ?
「わたしとあるるかんは人は殺しません。殺せないですし、殺したくなんかないです」
何も言えずにいる早樹に替わって、いつの間にか側にいたマルチが答えた。
「わたしたちの務めは、他にあるはずです」
女の肩がわずかに動いた。ゆっくりとその顔が早樹の方を見る。
「……CRを失った以上私は退場だわね……あんたがこのHM-12のマスター?」
「……この子は自分の意志で動いてるわ。マスターはいない。守るべき人はいるけどね」
早樹はとりあえずそう答えた。
「……そうだったのか」
そう言うと女は……かくりと首をおった。早樹は慌てて女の手を取ったが、脈もあるし鼻に手を近づければ空気の動く感じもある。死んではいないらしい。
「たぶん、リンク中にCRをわたしが壊したので、軽いショックを受けておられるのだと思います。たまにあることですから……この人には気の毒ですがこのまま進みましょう」
マルチはそう言って再び館内へ踏み込もうとする。
「ちょっと待って。『わたしたちの』務めって……どういう意味?」
悠子の声が響いた。石で出来た玄関が、悠子の足に合わせて微かなへこみを見せている。マルチがゆっくりと振り返って、小首を傾げた。
「はい?」
「茶番に柏木の力を使わせたのなら、いくら早樹の知り合いでも何でも容赦しないよ」
奇妙に──早樹は肌寒さを感じた。
「茶番……ですか?」
マルチはきょとんとした顔で聞き返す。
「わたしたちってことは……あんたとそこの女は同じ穴のムジナって事じゃないの?」
悠子の手が煙のようにするりと動き、マルチの首根をとらえていた。
「あっ、あのっ……」
「悠子?!」
早樹は二人の間に入ろうとした。……が、できなかった。悠子から、これまで早樹が生涯通じて感じたことのないような威圧感を感じたのだ。
「答えて、マルチ」
悠子の声が冷たく玄関ホールに散った。
「……悠子さんは、あなたの全てを話せますか?」
そして、答えたマルチの声も……ひどく乾いていた。
「そんな人間いないよ。ごまかすと首、折るよ」
みしり、と何かがきしむような音がした。
「後になれば怖い思い出話で済むことも、起こっている最中は恐怖そのものなんです。今それを悠子さんや早樹さんにお知らせすることは、わたしには出来ません。お二人とも、とってもいい人ですから……きっと巻き込みます。その人と私のつながりは、そういう世界のものです。いま、由香里お嬢さまをお助けすることとは、つながりといえるようなものはありません」
「要約すると、知らない方が身のためだ……ってこと」
「そうとも言えます。後一つ確かなことは、誰であれ、由香里お嬢さまをひどい目にあわせる方は現時点でわたしの敵です。他の場面でどうであっても。で……すから……」
張りつめていたマルチの口調が急に崩れた。
「悠子さぁん、とりあえず今は助けて下さいぃぃ」
一緒に顔面も崩して懇願するマルチ。悠子はため息を一つついて、マルチの首から手を離した。
「あうぅ……すこし首の駆動部が変ですぅ」
くきくきと(音はしないが)マルチは首をひねった。
「なんてゆーか……気が削げたわ。ま、『とりあえず今は』マルチを信じることにする」
悠子も何となく手をぷらぷら振っていた。
「悪いね、早樹。ちょっと引っかかったもんだからさ。あまし下らないことに使っていい力じゃないんでね」
「ん……まぁ、マルチも一応無事みたいだし。それより、なんか、静かじゃない?」
悠子が眉をひそめ、マルチが首をひねる。二人の争いに手が出せずに手持ち無沙汰だった早樹だけがどうやら気づいていたことらしい。
「そもそも初めの打ち合わせでは、守り手の出方を読んで、っていうことだったでしょ。でも、これだけ派手な殴り込みかけられて、増援が来ないどころか、人の気配一つしない……」
悠子が目を細める。
「確かに、近くで機械音以外の物音はしないね」
改めて周りを見回す。玄関ホールは2階まで吹き抜けで、あるるかんが入ってきても天井には充分余裕があった。続く廊下の方は、見た感じ、あるるかんには少し低いくらいだ。身長の低いマルチは当然として、早樹と悠子にも余裕のある天井丈がある。
「えーと……あるるかんの索敵範囲には、CRはいないみたいです」
マルチの言葉は3人の不安感を裏付けた。──何故、仕掛けてこない?
答えは出し抜けに響き渡った。
<最終警告。本館は5分後に研究施設部と隔離されます。残留職員は速やかに全員待避して下さい>
「「「下だ(ですっ)!!」」」
3人の声が重なった。推測はどうやら間違っていなかったようだ。
「地下への階段は……」
悠子と早樹の視線がマルチに集まる。当のマルチはロンパリ目になった後うつむいて、
「あぅ、地図の詳細が記憶されてないです……すみません」
「……たしか屋敷右手の方だったと思うんだけどな……」
早樹はつぶやいて、建物右翼に延びる廊下への開口部脇に身を寄せ、そっと様子をうかがった。何かがいるような気配はない。
「うん……右の方の、部屋の中だったような」
悠子もその後に続く。更にマルチがあるるかんを連れてあたふた続く。
「で、その部屋って?」
「さあ。分かんないなら……」
悠子は廊下に身を躍らせると、すぐ左の扉にタックルをかました。重い音を立てて扉が向こうに倒れる。
「誰もいそうにないし、これが一番早そうだね」
早樹も飛び出して、暗い室内をさっと見る。階段らしいものは見えない。
「でもこのドアを片っ端から?間に合うかな……」
早樹が眉をひそめると、悠子はにやりと笑って、
「じゃ、あたしが廊下の端まで走り抜けながら、左側のドアを全部へち倒す。右はマルチとアルルカンで何とかして。その後を早樹が追っかけて確認。これで行ってみよ」
「あ、はいっ」
おそるおそる顔を出していたマルチは、返事をしながらわたわた姿を現した。後ろに影のようにあるるかんが続く。
「あるるかん、構えっ」
マルチが呼びかけると、あるるかんはすっとマルチの前に出て、体をぐっと屈め、『腕』を持った右手を斜めに掲げた。
「じゃ、いきますっ。レザァ・マシオゥ、炎の矢っ!!」
あるるかんの右手がピストンのように伸縮を始める。鋭い『腕』の鉤爪が壁をえぐる鈍い音が響き始めた。
「あるるかん、そのまま一歩壁に寄って、廊下の端までダッシュですっ!!」
マルチの言葉が終わるが早いか、あるるかんは扉はおろか壁ごと粉砕しながら、廊下を端めがけて疾走していった。マルチもその後をぱたぱたついて行く。
「あららら……」
一瞬度肝を抜かれたようすの悠子だったが、ぱん、と両頬を手のひらで打って、
「ったくとんでもないねぇ。じゃあたしも行くよ。頼むね、早樹」
そう言って、あるるかんには劣るもののこれも風のように飛び出し、扉ごとに左拳の一撃をくれて行く。次々と扉が倒れていった。
「……どっちがとんでもないんだか」
早樹はほこりよけに手で口元を覆いながら二人の後を追って駆けだした。4つほどの扉を左右見たところでマルチに追いつく。
「だいじょぶ?なんか顔が赤いけど」
「うぅぅ、足のモーターが熱くなってます……」
とりあえず構っているには時間がなさ過ぎるので、早樹は一旦マルチの先に出る。そして、8つ目の右手の扉の奥。今までの部屋とは明らかに異質な、殺風景な作りに早樹は足を止めた。暗がりの奥に、うっすらと緑色の非常灯が見える。そして部屋の左手に、下へと開いた闇。
「ここだ!悠子、見つけたよ!」
早樹が怒鳴ると、ほこりまみれの悠子が駆け戻ってきた。一方マルチも追いついてきたが、
「はうぅ、あるるかんを戻してこないといけないですぅ」
少し先まで走っていって、それから戻ってきた。間をおかずあるるかんも戻ってくる。
「うし。その階段か」
悠子、早樹、そしてマルチとあるるかんが部屋へなだれ込む。ためらう間もなく今度は階段へと身を躍らせる。踊り場の折り返しを一回……二回……三回、そこで階段は行き止まった。左に見える扉らしいものを悠子が蹴りつけると、それは吹き飛んで、向こうの景色を一行に見せた。明らかに先ほどとは違う、無機質で清潔な廊下──
「ビンゴ!」
一行はその廊下へ転げ出た。
「ふう、間に合った……多分ここが地下一階だね」
蛍光灯が白々と照らす廊下は、どうやら大きく湾曲しているようだった。見える範囲に扉らしいものはない。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか……」
早樹のつぶやきを合図に一行が足を進める。と……
「?水音?」
悠子がそう言って眉をひそめ、立ち止まった。
「どしたの?」
つられて早樹とマルチ、あるるかんも立ち止まる。
「……マルチ、なんか……水の音がしない?」
マルチは首を傾げて、
「わたしには聞こえませんが……あるるかんには聞こえてるみたいです」
と、いきなり。
通路の壁の上の方が砕け、そこから水がこぼれ落ちてきた。
「きゃ?!何、この水?」
「まさか水攻めなんて古典的な手か?」
水の勢いは徐々に激しくなっていった。直接とは行かないが、飛沫が三人と一体の体にもかかる。一行はとりあえずどこかへ通じる箇所を探して通路を駆けだした。
「……ねえ、この水、粘っこく……ない?」
ふと、早樹が気が付いて言った。
「……!言われてみれば」
「なんだかべとべとしますぅ」
「マルチ、この水の正体って分からない?」
「はっきりとは……ただ、来栖川系施設の標準警備設備に、『高分子体溶液』っていうのはたしかありましたけど」
うーん、とマルチは首をひねって考え込む。
「なにそれ?」
「えと、どろどろの液体として放出された後、液体成分が急速に蒸発して、ゼリーのかたまりみたいになるんです。主に、対衝撃用の緩衝剤として、隙間を埋めるために使うんですけど……」
それで早樹と悠子ははっと思い当たった。
先ほど降りてくる階段に、上と下を「隔離」するような設備はあったろうか?
「敵さん、この階をこいつで埋めて、階ごと隔離層にする気だ!」
「はわわっ、じゃあはやく下に降りないと、ゼリーとじになっちゃいますぅ」
「階段探してて……間に合うか?」
ぎり、と悠子が歯を食いしばる音が響く。
「こうなったらやけだ、マルチ、アルルカンとあたしで床抜くよ!!」
「は、はいぃぃっ!!」
早樹がそんな無茶な、の「そ」を言う間もなく、悠子がその場の床を殴りつけ、あるるかんがそのすぐそばに鉤爪の一撃を加える。
じきに二つの音に鈍い音が混じり始めた。「水」がゼリー状に固まり始めているのだ。悠子とあるるかんが腕を引き抜くたびに、ずぼ、と重い音がする。
「う……ぉりゃあああ!!」
悠子が渾身の気合と共に肩口までを水面に突き刺す。
「でりゃあああ〜〜〜っ!!」
マルチの声と同時にあるるかんもまた『腕』を水中深く突き込む。
その二撃で──
一行を乗せた床は、更に下の未知の空間へ、ゆっくりと沈み込んでいった。
ステージ5 幕