「父さんの……」
 シンジは呆然と繰り返した。
「興味がないとは言わせないよ。いつも暇があれば、君はお父上を捜しているじゃないか。我々はリュウサク氏を確保しているわけではないが、何らかの情報は提供できるだろう」
「そんなもの……いりません」
 我知らず、シンジの手は拳を握りしめていた。
「あんな……僕と母さんを置いていなくなった父親なんて、知りませんよ。もう、探すのもやめました。そんな餌なら、僕はつられる気はありません」
「本心を偽るのは疲れるよ、シンジ君」
 男の顔から笑いが消えていた。
「自発的な協力をいただけないのなら、こちらとしては手荒な」
 男がそこまで言ったとき、急に爆音が響いてきた。そしてそれはあれよあれよという間に彼らに肉薄した。
「なっ?」
 あわててよける男たち。が、よけ損ねたやつをかまわずに引っかけまくって、それは現れた。青い車。その右のドアが開いた。
「碇シンジ君!さあ、乗って!」
 中から飛んできたのは若い女性の声だった。
「ぬ……進化研か?」
 男がなにやら意味不明なことをつぶやくのがシンジの耳にかろうじて聞こえた。それをうち消そうというように、再び女性の声が車中から飛んでくる。
「はやく!こいつらに捕まりたいの?」
 シンジは一瞬の逡巡の後、車を選んだ。シンジにとってはどちらも信頼の置けるものではなかったが、男たちの慇懃を装った粗暴より、車のそのままの粗暴の方がまだましに思えたらしい。飛び込むように車に乗り込む。と同時に、自動と見えてドアが勝手に閉まった。そして間髪入れず、前に男たちが立っているのにもお構いなしで車は急発進した。
「ふー、間に合った。チョッチやばかったわね」
 一息ついてちらりと運転席の声の主を見やったシンジは、どきりとした。
 サングラスをかけているから顔ははっきりしないが、掛け値なしのナイスプロポーション。それがちゃんと分かるような服に身を包み、緑の黒髪がさらに駄目押しを掛ける。
(ひえー……)
 (たぶん)美人だ。
 思わずぽかんと口を開けてしまうシンジ。
 そこへ、奇妙な金属音が響いた。
「ちょっと……住宅街でそんなモン使うわけぇ?」
 運転席の女性が焦った口調で言って、
「口閉めて!舌かむわよ!」
 言うなり、ハンドルをむちゃくちゃなスピードで切った。ブレーキを踏んだ様子は全くない。それを、角ごとに何度か繰り返す。
「あ、あの……うぷっ!」
 口を開こうとするシンジだが、Gがかかるたびに舌をかみそうになる。
「心配しなくてもあなたの家に向かってるわよ」
 その女性はそれだけ言ってまたもハンドルを切る。
 やがて、めちゃくちゃな運転がどうにかただの速度無視に変わった頃、再び女性が口を開いた。
「ふー、大変だったわね。しかし銃まで使うとは思わなかったわ」
 さらりと言う女性にシンジは仰天した。
「銃?さっきのって、銃だったんですか?」
「そーよ。ま、安心して。とりあえずまいたはずだから」
「まいたって……一体どういうことなんですか?」
「見ての通り、あなたを狙ってる奴がいるってことね。あたし達はあなたをそいつらに渡したくない。そういうことよ。あ、ついでにいっとくと、あたし達はあなたを狙ってるわけじゃないから」
 女性はそこで言葉を切り、サングラスをはずした。にこっと笑い掛ける顔を見て、シンジは硬直した。
(やっぱ、美人だ……)
「あたしは葛城ミサト。よろしくね、碇シンジ君」
「あの……どうして僕の名前を?」
「そりゃ、碇家の一人息子だもの。知らない方が不思議じゃないの?」
 あっけらかんと言う、ミサトと名乗った女性に、シンジは釈然としないものを感じた。
「……ま、ほんというと、ちょい訳ありなんだけどね。でも、あなたが今まで通りの暮らしを望むなら、詳しいことは知らない方がいいわ……」
 急に厳しい表情になって、ミサトは口をつぐんだ。
 沈黙に耐えきれなくなったのはシンジの方だった。
「あの、どうして僕を」
 助けてくれたのか、と聞こうとした言葉は、ミサトの言葉に遮られた。
「シンジ君。自分の名前の由来は知ってるわよね?」
「……ええ」
 一番触れてほしくない話題に触れられて、シンジは憮然と押し黙った。
「昔の碇シンジが、いったい何をしたのか……キーの一つはそこにあるわ」

 車は派手な音を立てて碇家の門の前に止まった。いそいそと出ようとするシンジの腕を、ミサトはつかんで止めた。
「ちょっと待ってね。あんなことするくらいだから、待ち伏せてるってことも……」
 ミサトが頭上のボタンを叩くと、フロントガラスになにやら図形と文字が浮かんだ。どうやらその部分がモニタを兼ねているようだ。
「火器反応なし。挙動不審者認められず……取り越し苦労、か。オッケーみたいね」
 言って、ミサトは再びにっこり笑った。シンジは思わずどぎまぎした。
「びっくりさせちゃったわね。でも多分、まだこれは始まりでしかないわ。あなたが平穏な、これまで通りの暮らしを望むなら、あたし達はとりあえずあなたの味方よ。これ、渡しておくわね」
 ミサトは服のポケットから一枚の名刺を取り出した。
「市立人工進化研究所・警備一課課長・葛城ミサト」
 名刺にはそう書かれていた。それから、研究所大代表の電話番号と、警備一課への内線番号。広報室の直通電話番号もある――問い合わせに応対するのだろう。それらの文字の下には、薄い赤で何かの木の葉を半分に切ったような意匠があしらってある。同じ色で何か文字も書いてあるのだが……ほとんどは細かくて読めない。ただ、木の葉の切り取られた半分の位置にある四文字のアルファベット、「NERV」だけは大きい文字なのではっきり分かる。
「……はあ」
 半分ぽーっとしたまま、シンジはその妙な名刺を受け取った。そう言えば、さっきの男が、「進化研」がどうとか言っていたような気はするが……
「相談したいことがあったら、直接あたし宛に電話してちょうだい。あなたからの連絡なら、よほどのことがない限りあたしにつながるようになってるわ。じゃ、またね」
 がちゃり、とドアが開く。なんだか追い出されるような気がしたが、別段車の中にいつまでもいる用件はない。少し後ろ髪を引かれるような気もしたが、シンジは車から降りた。ドアが閉まり……出し抜けに窓が下りた。
「シンジ君!……碇家に伝わる『エヴァ』にまつわる物に気をつけて!」
 それだけ言うと、車は又、常識はずれなスピードで飛び出していった。
「『エヴァ』?」
 シンジはそれを、ぽーっと見送りながら呟いた。
「火星移民船『エヴァンゲリオン』が、なんだってんだろ?」

――つづく

[予告]

 訪れた転校生が呼び起こす奇妙な感じ。
 何かが動き始めたことを、少年はまだ知らない。
 次回、『現れた少女』


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