アベルとカイン


アベルとカインの物語(創世記4/1−4/26)についての解釈は、聖書を歴史遺産として読むのと、教会の聖典として読む事の違いを明確にしてくれます。


2007/11/3追記


アベルとカインの話は、カナンに定着していたカナン人とカルデアから入ってきたユダヤ人の宗教祭儀の違いではないだろうか?
聖書にはアベルとカインがエバの初子として描かれているが、自分は長年この記事に惑わされていた様に思われる。
彼女(エバ)は、身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。とあるが、この彼女の知恵は何処から得られたのだろう。
彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。とあるが。羊を飼う者や土を耕す者と言う職業は何時ごろから確立したものだろうか?
時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。とあるが、この宗教祭儀は誰から教わったものだろうか?
カインがアベルを殺して、主から「さすらう者」となると言われた時、カインは地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」と言ってるが、一体カインを襲う者などとは何処に存在するのだろうか?
話はごくごく簡単な事なんだと思います。つまり編者はエバの子供達として描いてるつもりなのでしょうが、実際は多くの部族が存在し、その多くがバアル信仰をしていたカナン人と主(YHWH)を信仰していたユダヤ人の宗教祭儀の違いが描かれているんだと思います。
それで、ユダヤ人が多くいた部族の中に、バアル信仰をしていたカナン人がいて、バアル信仰の祭儀(土の実りを捧げる)をしたところ、部族長から無視されたんですね。
それで、カナン人が腹を立てて、ユダヤ人を殺したんですわ。それで、部族長から「お前なんか、この部落から出て行け!」と言われたんですよ
それでカインは「自分一人が部落を追い出されたら、どこでどんな目に遇わされるか、まともには生きておれない」と嘆願したんですわ。
それで、多分強い部族のマーク(刺青かなんか)を付けて貰い(こいつを殺したら、後で仕返しされる)、無事に彷徨う事ができたんでしょう。
それでノドと言う、各地からそういう放浪者がたむろする場所にたどり着いたんですよ。
そこで、何かの仕事を始めて、何処かの娘さんと出くわして、ある場所に定着して、ある部族の祖になったと言うのが、カインにまつわる物語ではなかろうかと思います。


いきさつ


このWebの中のヤハヴェの性格と言うコラムに、読者の方から大変興味の湧くメールをいただきました
アベルとカインにまつわる物語を、その読者の方も興味があって、さる教会関係者と思われるに人に尋ねて、間接的に教会の解釈を教えてもらいました。
教会の解釈は聖書に書いてない言葉を付加して、どうやって護教的に、あるいは護神的な物語に摩り替えてしまうか、と言う手法の鮮やかさを教えていただけました。
折角ですので、聖書そのものと、教会の説明とそれに対する指摘と、歴史遺産としての分析を書き並べました
読者各位の参考になればと思います



創世記4/1−4/16

さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。
彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。
アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。
主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」
主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。
今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」
カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」
主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。


ヤハヴェの性格での扱い

私はこの物語を、ヤハヴェの神の選り好みの激しさや、わがままさの表れとして引用しました。
それぞれ土の実りと羊を献上したものに、ヤハヴェのわがままなえこひいきから、羊にだけ目に留めただけのことで、えこひいきされたカインが怒りだして、アベルを殺害している事に対し、ヤハヴェが自らのわがままを全く反省せず、カインを呪っている思慮の無さを書いた様に思います


護教的説明とそれに対する指摘

>「アベルはたくさんいる仔羊の中から、いちばん肥えた羊を持ってきた。
> カインは、ただ畑でできたものを持ってきた。
> 神に捧げるものなのだから、それは一番良いものじゃなきゃいけない。
> でもカインは、そうと知っていてそうしなかった。
> だから後ろめたくて顔を伏せた。
> そして神はそれを指摘した。」

たくさんいる仔羊の中から、いちばん肥えたは、聖書では 羊の群れの中から肥えた初子をであり、ただ畑でできたものをは、聖書では土の実りを主のもとに献げ物としてであり、明らかに捧げ物の価値の違いを付加している
神に捧げるものなのだから、それは一番良いものじゃなきゃいけない。でもカインは、そうと知っていてそうしなかった。だから後ろめたくて顔を伏せた。そして神はそれを指摘した。」は、聖書にそんな文章は全く見うけられないし、カインは後ろめたくて顔を伏せたのではなく激しく怒って顔を伏せた。であって、あきらかに、聖書と違った新たな物語に創作してしまい、神の教えを守らないカインを呪う話にしてしまっている(お決まりの護神的物語)
なんで護教主義者はこの様な、すり替え行為をするのだろうか
この後カインは、アベルを殺害するのだか、実に人類最初の殺人事件であり、その殺意はつまらない妬みから発生している、人間社会がもっとも卑しむべき犯罪である(モーセの十戒にもある)殺人事件が実に、アダムの長男と次男の間でおこってしまった事が驚きであるし、殺人にいたる経緯がどうしても短絡的な人達を想像してしまう。
護教主義者達は、おそらく信者がこの部分を読んだ時に、ヤハヴェのわがままさや、カイン達の短絡的な性格を思い浮かべてしまって、聖書やヤハヴェ神に疑念を持ってしまう事を恐れているのではないでしょうか
創世記を含めモーセ五書は護教主義者の希望的意図に反して、ユダヤの古い伝承物語をピックアップして編集されているため、後世のモラル感や公正さからは考えられないような、独善的な戦争や短絡的な殺人事件の物語が多く、ヤハヴェ神の品位を疑いたくなる様な文章も多く、護教主義者達にとって悩みの種なのかもしれません、特にヤハヴェ神を唯一の神としている組織にとっては、これらの実体が信者達にあからさまになる事は、組織の死活問題に関わる事なんでしょうね
ひたすらヤハヴェ神の威信を傷付けない様に、物語をすり替え、不都合なところには触れなく、できるだけ信者に読まさない様にしています。


歴史検証的な解析


創世記は、言語の使い方、文章の思想的傾向から、3つ(J伝承、P伝承、E伝承)の伝承資料から、断片的にピックアップして並べ、それらを適当な文章で繋ぎあわせて編集したものと思われ、最終的な編纂はバビロンからの帰還後のペルシャ支配の時で、BC4−5世紀頃と思われます。
アベルとカインの物語は、そのうちJ伝承(ヤハヴェ伝承)の最古層の物語と思われます。
ペルシャ支配の中での編集で、こういう物語をピックアップしたのは、放牧部族の多かったユダヤの民のアイデンティを主張しようとした背景があるような気がしますが、結果的にヤハヴェ神の品位を下げる事になってしまっている。
編者の知的水準に限界があったのでしょう。


この文章にご意見のある方は、私宛にメールしてください。


とりあえず終わりです