使徒達と


イエスの最初シモン(ペテロ)とアンデレ(ルカ福音書ではその仲間)の兄弟およびヨハネとヤコブの兄弟の4人の漁師を最初の弟子としている
マタイ福音書ではしばらくして徴税人マタイが弟子になっているが、ルカとマルコでは、弟子にした徴税人の名前はレビで、その後使徒としての任命を受けていない、マタイ福音書の編者は何らかの意図で、使徒マタイを徴税人にしたのだろう
この後いきなり12使徒の任命となっているが、12人の順番が使徒になった順番だとすると最後が熱心党員シモンとイスカリオテのユダである。

使徒とのやり取りは、ペテロやヨハネが多く、何人かの使徒とは全くありません。
イエスはペテロやヨハネに説法を説いている場面が多く、福音書編者はイエスのアイデンテティを表す為の役割として使徒達の名前を出したと思われる

例えばヨハネの兄弟が「私たち2人を王座の左右に座らせて下さい」と頼んだ時に「あなたがた中で偉くなりたい者は...」(マルコ10−35)の様に、人の上に立つ者の心得を説教している

重要な所は、ペテロに天の国への鍵を授けたところだろう、マタイ福音書16/15−28を全部書き出してみる
イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
ルカとマルコは鍵の授与とイエスがペテロを叱責した様子が描かれていないが、使徒の代表者はペテロと思われる
皆さんはこの文章をどの様に読むだろうか...ある人はイエスが三日目の復活を予言した文言から、イエスが予言者であり復活した事に重要さを求めるが、福音書の復活したとする所では、十字架処刑の1〜2日後なので、3と言う数字にそれほどの意味はないだろう。
死者の復活の概念は、ファリサイ派が持っていた物で、サドカイ派は復活も天使も霊も信じておらず、ファリサイ派の信者であったパウロもさかんに死者の復活を唱えている。
従って復活の言葉は、イエスは「私は長老や律法学者達に殺されるだろうが、みんなが信じている様に直ぐ復活する」と言う言葉と考えたい。
重要なのは、その後で、イエスは自分達の行為がファリサイ派とは敵対関係にある事をペテロが理解していなかった事に叱責していて、自分達がこれから行おうとしている事が大変な困難を伴う物であるが、それを乗り越えていかなければ道が開かれない事を使徒達に教育している様に読むのですが...
不思議な事に、裏切り者とされるイスカリオテ・ユダとのやりとりは、最後の晩餐の時以外全く無く、熱心党員シモンとのやりとりは全くありません

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