家族と

実に不思議なことであるが、イエスとイエスの家族との会話の表記は全く無いまた母や兄弟の動向が描かれている所はほんの僅かである

(マルコ3−21)「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである」
(マルコ6−3)「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。」
これらの表現はマリアが神の御告げでいと高きお方を生んだとするマタイやルカの表現が全く嘘である事を示している。マルコの表現にはマリアさんがいと高きお方となるべき大事な息子を育てている様子が全く覗えない
だれかに「お宅の息子さんがおかしな活動をしてますよ」と言われて、あわてて追っかけていき「イエス、お前は何をしてるんだ(家業をほったらかして??) 」と言う光景が思い浮かぶ
指し物イエスもおっかぁには頭が上がらなかった光景がうかぶ

イエスが処刑されたのは過ぎ越しの祭りの最中で、母親と兄弟達とマグダネのマリアさんもエルサレムに来ている
母マリアの様子は克明に描かれていないが、長男を失い失意のどん底ではなかったのではないか、処刑への経緯を理解していたとは思えない
年齢としては50歳は過ぎていたであろう、細腕で早く主人を失い何人もの子供を育て、恐らくかなり年配の姿であっただろう
失意のどん底の痛ましい姿のお婆さんこそご聖母様ではなかろうか

(マルコ15−47)「マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。」
マグダラのマリアはこの表現や主体的にイエスに付き添っている文言が多く、イエスの伴侶と考えたいが、聖書では付添婦と表現されている

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