何故永遠の命が得られないのか



「永遠の命」について、主に創世記からいろいろ調査していたのですが調べれば調べるほど、「永遠の命」の考えが、旧約聖書にはなく、神エホバは人間に「永遠の命」をもとより与えておらず、新約の編者のドグマ(思い込み)である事がはっきりしてきました。
本Webの「永遠の命」はいろいろと変更その他で、整理が付かなくなりましたので、「なぜ人間は永遠に生きられないのか?」と題して、整理してみました。

なぜ人間は永遠に生きられないのか

創世記(6/3)−−主は言われた「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。−−と、神は明確に発言している
つまり神は人間を肉(=他の動物と同じ生物体の意味だろう)で創造したのだから、他の生き物同様、いつかは死ぬものである、と言う言葉に読むべきだろう
この神の言葉を真摯に受け止める事ができる、エホバの神の信者であれば、永遠の生命の話なんか出るわけがないのです、神が初めから他の動物と同じように、永遠に生きられない様に人間をお造りになられただけの事です、永遠の命があるとする論議は神の言葉を無視しており、引いては神を冒涜したことになります

永遠の命のチャンスはなかったのか

創世記(3/22−24)
主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎 を置かれた。

これもかなり明確な発言で、アダムとイブは、「善悪の知識の木」の実を食べたが為に、「いのちの木」(永遠の命が与えられる木らしい)を食べて永遠に生きる可能性があったのだが、神は人類が永遠に生きる事を拒否し、アダムとイブをエデンの園から追い出し、「命の木」に近付けない様に、その道を封鎖している
つまり、アダム達がいち早く、「命の木」(善悪の知識の木とは別の木)を食べていれば、人間は永遠に生きる可能性もあったが、神がそれよりも早く封鎖して近づけない様にしているのは、人間を永遠には生きさせないと言うハッキリした神の意志の表れと読むべきでしょう。

アダムはもともと永遠に生きれたのか?

そのような事を示す記述は、少なくとも旧約聖書にはまったくありません
創世記(3/22−24)の神の言葉は、人間がもともと永遠には生きる能力を持ち合わせていなかった事を前提にした神の言葉ではないでしょうか。

アダムは罪を犯したが為に死ぬようになったと言う人がいるが

パウロの言葉から、(例えばコリント書簡上15/21−22)「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」からその様な考え方が出てくるのでしょうが、この考え方は、長年キリスト教においての原罪思想の基本にあります。
つまりパウロは、イエス・キリストを述べるが為に創世記のこの部分を、アダム=人類の罪と考え、その罪の為に死ぬようになったが、イエス・キリストがそれを救ったと言う、パウロ独自の解釈をしていたのでしょう(もっともこれがファリサイからキリスト教についての基本ですが)
しかしこれを重大な罪としながら、パウロは一方で神がアブラハムに命じた「割礼の掟」を破棄する様に説いており(ユダヤ教徒はこの痛みを伴う掟を真面目に守っているのに)、はなはだ手前味噌の解釈で、イエス・キリストなり復活や永遠の生命を説く為の無理な解釈でしょう。

創世記からの結論

それまで犬やネコとあまり変わらない知識レベルだった人間が、言語を喋り、文字を使い、貨幣を使い、数を計算しいろいろ進化したことを、創生記の編者は神の掟を破って「善悪の知識の木」を食べた為と表現したのでしょう。「善悪の知識の木」と人間の生き死にとは何の関係もなく、「命の木」を探し出して他の天使などと同じ様に「永遠に生きる」事を回避する為に、「命の木」のある実り豊かなエデンの園からの追放し、自ら額に汗をして木の実りを造る様になったと言うのが、創世記編者の意図したストーリーと考えます。


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とりあえず終わりです
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