永遠の命の書き込み


はじめに
昨年"永遠の命シリーズ"と題しまして、2cHに書き込みました内容のコピーを掲載します
昨日の晩に神様からのお告げがありまして「永遠の生命」が
本当に聖書の主要テーマかどうか研究しなさいと言われました。
それで、以下のシリーズで調べてみる事にします。
1...「永遠の命」が、万遍なくすべての巻物にあるかどうか
2...旧約聖書での「永遠の命」
3...共観福音書(使徒含む)での「永遠の命」
4...パウロ書簡での「永遠の命」
5...ヨハネ文書での「永遠の命」
6...ギリシャ哲学での「ゾーエアイオノス」
7...総括

ちょっと調べでは、新約27巻のうち、「永遠の命」は12巻
しかありません。旧約はもっと少なく、「永遠の命」で申命記
に一つ、「永遠の生命」でダニエル書に一つあるだけです。
しかも、申命記での意味は新約と全く違ってました。
それで多分、この「永遠の命」と言う言葉も、言葉だけを
どこからかパクってキリスト教徒が好き勝手に使ってるだけでしょう。
共観福音書では、恐らく本来の意味を逸脱した意味で使われてる
でしょうし、本来の意味で使われてるのはヨハネ文書だけだと
思います。多分主要テーマとはとても言えない物だと思います。

現代の教団での「永遠の命」は、客(信者)引きの展示品みたいな
物で売った(信者が受容した)実績もないでしょうし、店員(聖職者)
さんも全然説明できない物だと思います。

今日の「永遠の命」−2
新共同訳聖書で「永遠の命」「永遠の生命」で検索しますと以下の
内容になりました。
旧約聖書
申命記32/40:ダニエル12/2.......2
共観福音書
マタイ19/16:19/29:25/46....3
マルコ10/17:10/30..........2
ルカ10/25:18/18:18/30.....3
使徒13/46:13/48...........2
                計      10
パウロ書簡
ガラテ6/8..................1
ローマ2/7:5/21:6/22:6/23...4
                計       5
ヨハネ文書
ヨハネ福音書...多いので省略........17
第1ヨハネ書簡..多いので省略.........6
                計      23
その他文書
第1テトス1/2:3/7............2
第1テモテ1/16:6/12..........2
ユダ1/21..................1
                計       5

今日の「永遠の命」−3
新共同訳聖書で「永遠の命」「永遠の生命」で検索して一言も
書かれてない巻物は。
旧約聖書
申命記:ダニエル書を除くすべての巻物.....37
新約聖書
パウロ書簡
コリント1/2:テサロニケ1/2
ピリフォけ:フィレモン.............6
その他書簡
エフェソス:コロサイ:テモテ2:ヘブライ
ヤコブ:ペテロ1/2:ヨハネ2/3.......9
その他文書
黙示録.....................1

*実に黙示録に「永遠の命」が一言も書かれてないんですねぇ

今日の「永遠の命」−4 
ここで一服します。共観福音書のうち、マタイ・ルカの2つは 
マルコとほぼ同文です。つまりコピーです。 
旧約聖書のうち、申命記32/40は、新約での意味と全く 
違いますので、実質旧約はダニエル12/2から始まったと言って 
良いかと思います。つまり旧約の最後ですので、「永遠の命」の概念 
は、ユダヤ以外の地域で確立し、旧約の終わりの方に時期にユダヤに 
入り込み、新約の幾つかの文書で少し取り上げられ、ギリシャ色の強い 
ヨハネの教会で確立した物だろうと言う事が言えそうです... 
別に結論を急ぐ気はありませんが... 
それはそれで然るべき事で、「聖書の主要なテーマは永遠の命」だなどと 
言う嘘っぱちを言わずに、「自分はヨハネ文書で論じられてる 
永遠の命を追求する」と言えば、「それは尊い事です」と言う事に 
なるんですがね... 

今日の「永遠の命」−5  旧約聖書では 
申命記32/40−42
>わたしは手を天に上げて誓う。『わたしの「永遠の命」にかけて
>きらめく剣を研ぎ、手に裁きを握るとき、わたしは苦しめる者に
>報復し、わたしを憎む者に報いる。
>わたしの矢を血に酔わせ、わたしの剣に肉を食らわせる。
>殺された者と捕らえられた者の血を飲ませ、髪を伸ばした敵の首領の肉
>を食らわせる。』」
随分物騒な話ですなぁ...「永遠の命」にかけて(誓って?)、自分の
剣で敵の肉を食らわせ、矢を敵の血に酔わせ...
モーセ一行がエジプトから帰還して、カナンの地に戻ろうとするんですが
結局カナンには入れず、この詩を詠うわけですが、この「永遠の命」は
自分は無理だけど、自分の一族が必ずやカナンの地に入り、敵(その時
カナン地域を治めていた一族)を殺すと言う事です。当時は殺し合いを
しなければ領地にはならなかったという事です。現代の様に多民族の
共同統治などと言う事はなかったという事です。

今日の「永遠の命」−6  旧約聖書では 
ダニエル書12/2
>多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は「永遠の生命」に入り
>ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
旧約聖書で「永遠の生命」が、新約の物に近いのはこれだけですよ
ダニエル書はBC165年頃に、シリアのセレウコス王朝エピファネス4世
が、イスラエルを統治し、ユダヤ教徒を弾圧して、ギリシャ風の文化を
強制した時に、頑なに抵抗したユダヤ教徒が書き残した物です。

ダニエル書については「明らかに違う2つのダニエル書」
を参照してください。
おそらく、頑なに抵抗してユダヤ教の慣習を貫こうとして、殺された者が
「永遠の生命」に入り、あっさり改宗してエピファネスの機嫌をとっていた
人達が「永久に続く恥と憎悪の的」になると考えたのでしょう。
この場合の「永遠の生命」は「永久に続く恥と憎悪の的」と対比する物ですね
この考え方は共観福音書の扱い方に似てますね...ギリシャ哲学で言う
「永遠の生命」とは違います。

今日の「永遠の命」−7  共観福音書では 
マルコ福音書10/21−26(マタイ19/16−21:ルカ18/18−22)
>イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。
>「善い先生、”永遠の命”を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。”
>イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりの
>ほかに、善い者はだれもいない。
>『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』
>という掟をあなたは知っているはずだ。」
>すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
>イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。
>行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、
>天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

この文章そのものの説明は、イエスの最も重要な掟である「汝の隣人を愛しなさい」
の実例なんですが、このシリーズはそれを説明する為のものではないので割愛します。
問題は”永遠の命”とは何であるかですが、この聖句から読める”永遠の命”は
「汝の隣人を愛しなさい」を実際に行った者に与えられるものだという事です。
「受け継ぐ」と言う言葉に引っ掛かりがあり、ダニエル書も含めて共観福音書
での「永遠の命」の意味が判りかけてきましたが、それは次回に説明します。

今日の「永遠の命」−8  共観福音書では 
マルコ福音書10/29−31(マタイ19/29−30:ルカ18/29−30)
>イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、
>家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、
>今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、
>後の世では”永遠の命”を受ける。
>しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
宣教の為にすべてを投げ出して、身を投じた人間には「後の世」で”永遠の命”
が与えられるとしてます。実際にすべてを投げ出して、原始教会の使徒達を
評価しての事なんですが、「後にいる多くの者が先になる」と釘を刺してるん
ですね...
「後の世」と書かれてるのがここまでの特徴ですが、これはミトラ教の
影響によるもので、”永遠の命”は「後の世」で与えられるものと考えられて
いたようです。これはヨハネ福音書では違ってきます。

今日の「永遠の命」−9  共観福音書では 
マタイ福音書25/46
>こうして、この者どもは”永遠の罰”を受け、正しい人たちは”永遠の命”
>にあずかるのである。」
この聖句はマタイだけですし、25/31−46を何回か読み直さないと
難しいと思います。
25/40
>そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの「最も小
>さい者の一人」にしたのは、「わたし」にしてくれたことなのである。』
25/45 
>そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この「最も小さい者の一人」
>にしなかったのは、「わたし」にしてくれなかったことなのである。』
この「わたし」と言うのは、イエスの事ですが、「最も小さい者の一人」
もイエスの兄弟なんですね...つまり最も貧しい者に慈善を施さない
人達は裁かれ、最も貧しい者にも慈善を施す人達は”永遠の命”が与えられる
と言う事ですかね...
この聖句の説明をしても仕方ないですが、ここでの”永遠の命”も生前の
行いに対するご褒美なんですね...

今日の「永遠の命」−10  共観福音書では 
ルカ福音書10/25
>すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。
>「先生、何をしたら、”永遠の命”を受け継ぐことができるでしょうか。」
この10/25は18/18と同じ様な問答から始まります。同じ様に
隣人愛を説くわけですが、律法の専門家から”隣人”とは誰か尋ねられます。
ここで有名な「善きサマリア人の例え」の話が出てきます。
クリスチャンで「善きサマリア人の例え」を知らない人はいないと思います
ので、省略しますが、ここでも”永遠の命”を受け継ぐ資格要件は「隣人愛」
なんですね

今日の「永遠の命」−11  使徒言行録では 
使徒言行録13/46−49
>そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに
>語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を”永遠の命”を得る
>に値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。
>主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の
>光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」
>異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、”永遠の命”を得る
>ように定められている人は皆、信仰に入った。
>こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。
話の筋書きは、パウロとバルナバが異邦人が多く住む地域で宣教してる時に、パウロ
達に反発するユダヤ人との間で険悪な状態になったときですね...
同じルカさんの巻物でも、ルカ福音書での扱いとは違って、この後説明する
パウロ的な考え方で、”永遠の命”を扱ってます。つまり生前の功績によって
得られるものではなく、何を信じるかによってその資格要件の可否が定められて
いるという事です。

今日の「永遠の命」−12  パウロ書簡では 
ガテテア書簡6/8−9
>自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、
>霊から”永遠の命”を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。
>飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。
そんなに難しい理屈ではありません。肉欲は
5/19−21
>肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、
>偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、
>ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。
霊の結ぶ実は
5/22−23
>これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、
>善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
パウロの道徳観は判りますが、頭ごなしにこれらの分け方を現代に
そのまま適用するのもどうかと思います。其本則としてはこれで
良いと思います。ともかく、これも”永遠の命”を受け継ぐ資格要件
を説明してるものですね...福音書とあまり変わらないと思います。
要するに人類愛を主張したものだと思います。

今日の「永遠の命」−13  パウロ書簡では 
ローマ書簡2/7−8
>すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者
>には、”永遠の命”をお与えになり、
>反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお
>示しになります。
5/21
>こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって
>支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して”永遠の命”
>に導くのです。
6/22−23
>あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の
>実を結んでいます。行き着くところは、”永遠の命”です。
>罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリ
>スト・イエスによる”永遠の命”なのです。
ローマ書簡も同じなので、全部出しました。改めて説明するまでも
ないと思います。

さてヨハネ福音書の「永遠の命」です。共観福音書までの「永遠の命」 
は、ギリシャ文化と言うか、ギリシャ人が普通に描いていた「永遠の命」 
ですが、ヨハネ福音書にはもう少しレベルの高い物が反映します。 
それまでの幼児教育の為の「永遠の命」ではなく、大人の為の「永遠の命」 
と考えてよいと思います。 
今日の「永遠の命」−14 ヨハネ福音書では。 
ヨハネ福音書3/12−17 
>わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話した 
>ところで、どうして信じるだろう。 
>天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 
>そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 
>それは、信じる者が皆、人の子によって”永遠の命”を得るためである。 
>神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が 
>一人も滅びないで、”永遠の命”を得るためである。 
>神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が 
>救われるためである。 
大人の為の”永遠の命”なので、いろんな意見が出るだろうと思います。 
(キリスト教徒は何の意見も出ないと思います) 
「独り子を信じる者が一人も滅びないで、”永遠の命”を得るためである。」 
がヨハネ教会のモチベーションと言うか、執念みたいなものです... 
他のヨハネ文書や歴史背景を考えるとそういう事かという事になるのですが 
共観福音書まで”永遠の命”とは大分趣が違うヤロ... 
これについてはもう一回やりますね... 

今日の「永遠の命」−15  ヨハネ福音書では 
ヨハネ福音書3/36
>御子を信じる人は”永遠の命”を得ているが、御子に従わない者は、
>命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」
このヨハネ福音書の編者なんですが、時々恐ろしく非論理的な言葉を
残します。「御子を「信じる人」は”永遠の命”を得ている」は良いのですが
「御子に「従わない者」は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りが
その上にとどまる。」...つまり「信じる人」の反対が「信じない人」では
なくて「従わない者」になってます。ユダヤ教やグノーシスとの確執の
為かも知れませんが、これが少数共同体の特徴です。共観福音書の
「隣人愛」は何処へ行ってしまったのでしょうか...対立関係に
あったサマリア人の慈善を評価したルカ福音書とは大分違います。
僕は、ここの部分の編者はヨハネ教会でも浮いた存在だったのでは
ないかと思います。

今日の「永遠の命」−16  ヨハネ福音書では 
ヨハネ福音書4/13
>しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える
>水はその人の内で泉となり、”永遠の命”に至る水がわき出る。」
ここの聖句は原始教会系の人が編集してます。ただし前にも言った様に
共観福音書が示す、隣人愛を実行させる為の餌ではなく、現世における
ある種の「境地」である事は、ヨハネの教会内でコンセンサスができあがって
いた様です。
ここはユダヤと敵対していたサマリア人の婦人との問答ですが、
イエスが与える水は、命であること。本当の信仰は、エルサレムとか
サマリアとかの場所に限られず、民族や地域を超えたものだと言う事です。
つまり、原始教会で主張した「隣人愛」が、ヨハネの教会で反映されたものです。
3章の”永遠の命”と全然違う事か判ると思います。

*この部分の5人の夫を失った婦人の身の内話が何であるかは、大体判ってますが
 本論を外れるので、別の機会にします。

今日の「永遠の命」−17  ヨハネ福音書では 
ヨハネ福音書4/36
>刈り入れる人は報酬を受け、”永遠の命”に至る実を集めている。
>こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。
4/31−38はサマリア人の婦人との問答の間に後から挿入された
ものですが、多分原始教会の使徒達の功績を評価した物だと思います。
使徒8章を参詳して欲しいのですが、この弟子達とはペテロ達の事だと
思います。ペテロ達の功績により、各地にキリスト教会が出来上がって
福音が述べ伝えられているとこの部分の編者(原始教会にいた人)が
が言いたいのだと思います。

今日の「永遠の命」−18  ヨハネ福音書では 
ヨハネ福音書5/24
>はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方
>を信じる者は、”永遠の命”を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
ヨハネ福音書5/36
>あなたたちは聖書の中に”永遠の命”があると考えて、聖書を研究している。
>ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
この部分の編者は洗礼者ヨハネの共同体にいた人です。ヨハネ派のスタンス
ですよ...特に5/36はじっくり考えてみる必要があるでしょ...
つまり聖書の中に”永遠の命”の真の意味が書かれてるとして、聖書を研究しているが
それは間違えで、聖書は「イエス」について証してる物だと言う主張ですよ...
これがヨハネ派の主張ナンスね...

*ヨハネ福音書の3章(ギリシャ哲学に被れた矛盾だらけの聖句を書く人)
        4章(原始教会派)
        5章(洗礼者ヨハネの共同体にいた人)
 のそれぞれの”永遠の命”が書かれてるんですね...もっともその章
 そのものは、”永遠の命”ではなく「イエス」の捉え方ですがね...

今日の「永遠の命」−19  ヨハネ福音書では 
ヨハネ福音書6/27
>朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、”永遠の命”に至る食べ物
>のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。
>父である神が、人の子を認証されたからである。」
ヨハネ福音書6/40
>わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆”永遠の命”を得ることであり、わたしが
>その人を終わりの日に復活させることだからである。」
ヨハネ福音書6/47
>はっきり言っておく。信じる者は”永遠の命”を(既に)得ている。
ヨハネ福音書6/54
>わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、”永遠の命”を得、わたしはその人を
>終わりの日に復活させる。
ヨハネ福音書6/68
シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは
>”永遠の命”の「言葉」を持っておられます。
6章は多分洗礼者ヨハネの共同体にいた人が書いたものだと思います。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」は
>あなたたちは聖書の中に”永遠の命”があると考えて、聖書を研究している。
>ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
を思い出していただくと、判ると思います。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」をユダヤ人が理解できなかった
様に書かれてますがね、実際のイエスははるか60−70年前に十字架に掛かってる
分けですから、生身のイエスの肉ではありませんよ...6/68で判る様に
”永遠の命”の「言葉」の事です...ただしこの「言葉」はロゴスでは
ありませんよ、文字通りの「言葉」ですよ...あまり詰らない説明をしても
意味がないので....

今日の「永遠の命」−20  ヨハネ福音書では 
ヨハネ福音書10/28
>わたしは彼らに”永遠の命”を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの
>手から奪うことはできない。
特に説明する必要もないと思うけど、10章の編者は多分原始教会にいた人です。
羊の話が出てきますが、羊は信者の事ですし、羊飼いは聖職者達です。
編者はヨハネ教会だけでなく、他の諸教会も意識したんだと思います。
10/22で「神殿奉献記念祭」と書かれてますが、ハヌカの祭りの事で
キスレヴ月(旧暦の11月)の25日から8日間執り行われます。
そんな事はどうでもいいか...10章はユダヤ教徒とのヤリトリですが
興味深いのは10/36
>それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と
>言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。
です。ユダヤ教会からすると、イエスを「神の子」と呼ぶのは神の冒涜に
なります。この時期(AD1世紀末)になって、ヨハネ教会の聖職者達が
敢えて「神の子」と呼び出した事が示されてます(だから、ユダヤ教会と問答になり
この章の様な文章があります)。ヨハネ以前の「神の子」発言(例えば
マルコ5/7)はヨハネ以降に書き足した文章ではないかと推測できます。

今日の「永遠の命」−21  ヨハネ福音書では 
ヨハネ福音書12/25
>自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、
>それを保って”永遠の命”に至る。
ヨハネ福音書17/2−3
>あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、
>子はあなたからゆだねられた人すべてに、”永遠の命”を与えることができるのです。
>”永遠の命”とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになった
>イエス・キリストを知ることです。
この文章は、ギリシャ哲学に被れた支離滅裂な思考体系の御仁の文章です。
特に17/3は多分ヨハネ教会内でもコンセンサスは取れてない主張だと思います。
ヨハネ福音書はこれで終わりですが、ヨハネ派と原始教会派によって原ヨハネ福音書
が作られ、その後ある程度時間が経って、ギリシャ哲学に被れた御仁が書き足した
のではないかと思います。

今日の「永遠の命」−22  テモテ書簡 
テモテ第1書簡1/16
>しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限り
>ない忍耐をお示しになり、「わたしが」−1「この方」−2を信じて”永遠の命”を得ようとしている人々
>の手本となるためでした。
テモテ第1書簡6/12
>信仰の戦いを立派に戦い抜き、”永遠の命”を手に入れなさい。命を得るために、「あなたは」−3
>神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。

さて理解度試験をします。
 1...1/16の「わたしが」の私は誰でしょう
 2...1/16の「この方」は誰でしょう(これは簡単)
 3...6/12の「あなたは」だーれ
 4...ここで述べられてる”永遠の命”って何の事(これは難しい)

今日の「永遠の命」−23  ヨハネ第1書簡
1/2
>この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの”永遠の命”を、
>わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。
2/25
>これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、”永遠の命”です。
3/15
>兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、
>すべて人殺しには”永遠の命”がとどまっていません。
5/11
>その証しとは、神が”永遠の命”をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が
>御子の内にあるということです。
5/13
>神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、”永遠の命”を
>得ていることを悟らせたいからです。
5/20
>わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。
>わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。
>この方こそ、真実の神、”永遠の命”です。
この手紙の編者はヨハネ福音書の編者のうちの誰かだと思うけど、誰かは特定
できません。ヨハネ福音書からまた”永遠の命”の意味が変わってますので
福音書から10年位後に書かれたのではないかと思います。

今日の「永遠の命」−24  その他文書
テトス1/2
>これは”永遠の命”の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔に
>この命を約束してくださいました。
テトス3/7
>こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり
>”永遠の命”を受け継ぐ者とされたのです。
テトスについては、パウロの最初の頃の有能な弟子の一人ですが、テトス書
そのものは多分異邦人地区(クレタ島?)にできた、パウロ所縁の教会の
人が書いた物だと思います。これもヨハネ福音書的な考え方に近いと思います。
ユダ1/21
>神の愛によって自分を守り、”永遠の命”へ導いてくださる、わたしたちの
>主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。
この手紙に見られる幾つかの特徴は、パレスチナのユダヤ人キリスト教に起源
があることを示唆している。これらの集団は、ユダヤ教の黙示文学的終末待望
の観点からイエスの福音を理解していたので、手紙の作者を、主の兄弟ヤコブ
の弟ユダに帰しているのは矛盾しない。こちらの”永遠の命”は共観福音書に
近いでしょうね

今日の「永遠の命」−25  ギリシャでは
聖書に書かれてる「永遠の命」は ζωην αιωνον
ですが、ζωην(ゾーエー)は、生物としての命を示しています。
それに対し、ψυχην(プシュケー)は、精神世界の命を示して
います。日本語では通常「魂」と訳されるものです。ψυχην
の永遠性については、ギリシャでとりわけプラトンが深く突っ込んだ
様です。ヨハネ福音書の「永遠の命」はどう見てもψυχηνでは
ないかと思うのですが、これについては自分もあまり自信がないので
疑問のままに留めておきます。
マタイ福音書10/39
>自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために
>”命”を失う者は、かえってそれを得るのである。」
 −>ψυχην
ヨハネ福音書12/50
>自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を
>憎む人は、それを保って”永遠の命”に至る。
 −>ζωην αιωνον

今日の「永遠の命」−26  重大な錯誤
ヨハネの編者はゾーエーとプシュケーを取り違えていたのでは??
ヨハネ福音書10/10−11
>盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。
>わたしが来たのは、「羊」が「命−A」を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
>わたしは良い「羊飼い」である。良い「羊飼い」は「羊」のために「命−B」を捨てる。
「羊」と言うのは信者達の事でしょ。「羊飼い」はイエス様の事でもあるし
教会の指導者の事でもあると思います。「命−A」は精神的な命でしょうね
「命−B」は生物的な命の事でしょうね...
ここの聖句は、私(イエス)は信者達が精神的に豊かな「命」を得るために来た。
そして私(イエス)は、信者達の為に肉体の「命」(身)を犠牲にする(した)。
という事ですよね...だからギリシャ語では「命−A」はψυχην(プシュケー)
で「命−B」はζωην(ゾーエー)だと思うのですが、実際のギリシャ語
聖書では逆になってるんですよ...
どうやら、ヨハネ福音書の編者はζωηνとψυχηνを逆に考えていた
んじゃナイスか...
そう考えたら、ヨハネ福音書の「永遠の命」はまるまるギリシャ哲学のパクリ
ですよ....わはははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははははは


以上で終わりです