武井武雄のプロフィール
  武井武雄の魅力を探る


−−時は大正、西欧文化とデモクラシーの自由闊達な思想が浸透しはじめた1920年代は、一流の芸術家たちによる子どものための雑誌が数多く出版され、優れた童話作家や童画家が輩出された時代でした。
「おとぎの国の王様」
こと、武井武雄もこの豊かな児童文化ルネッサンス期が生んだ画家の一人です。

 
銀貨社刊「動物の村」より
 妖精ミトと遊んだ子ども時代の武井武雄

 武井武雄は、1894(明治27)年6月25日長野県の平野村(現岡谷市)に生まれました。
 子どもの時から絵を描くことが好きで、5歳の頃に『エ兆金』と題した豆本の絵本を制作小学校では綴り方に「わたしは絵描きになります」と書いていたほどです。

 武井武雄は病弱であった幼少時に、“ミト”という妖精といつも一緒に遊んでいたといいます。
ミトはいつでも思い出しさえすれば、もうそこへ来ていた。しまいには金平糖の芯の処へ来ていて、なめているうちに芥子といっしょにポイと出てきたりなんかしたというのです。このミトこそが、のちに武井が描く空想世界の源となる童話の主人公なのでした。

 

 画学生から子どもの本の世界へ−「童画」事始め

 その後、東京美術学校(現東京芸大)に進学し、西洋画科を卒業(1919(大正8)年25歳)しました。
 1921(大正10)年、生活を支えるためのアルバイトのつもりで、『子供之友』『日本幼年』などの子ども向けの雑誌に絵を描き始めます。そしてしばらくするうちに、子どものために絵を描くということは腰掛けでできるようなことではなく、「男子一生の仕事にしても決して恥ずかしくない立派な仕事」であると思うようになるのでした。

 1922(大正11)年、東京社から『コドモノクニ』という絵雑誌が創刊されました。見開きいっぱいに使った美しいカラーの絵に、西条八十や北原白秋の童謡や童話を掲載した、当時としては画期的な雑誌です。編集長であった和田古江氏に認められた武井武雄は、創刊号のタイトル文字と表紙絵を担当し、その後、絵画部門の責任者として『コドモノクニ』に携わっていくことになります。

 1925(大正14)年に、初の個展「武井武雄童画展」を銀座・資性堂にて開催。この時初めて使った「童画」という言葉が、のちに世の中に広まって用いられるようになります。1927(昭和2)年には、武井武雄は、初山滋、川上四郎、岡本帰一、深沢省三、村山知義、清水良雄らの画家とともに、日本童画家協会を結成しました。

 

 華やかな大正浪漫の時代、児童文化ルネッサンスのなかでの活躍

 当時の児童雑誌を見ると、さまざまな雑誌に武井武雄が関わっていることがわかります。また、当時の児童向けの単行本の装幀も多く手掛け、美しい装幀の本を多く残しました。童画や美術だけでなく、「ラムラム王」、「お噺の卵」、「ペスト博士の夢」などの童話集、詩画集「花園の車」を出版するなど、童話作家や詩人としても活躍しはじめました。

 武井武雄の不思議な空想世界は、アンデルセンの童話や北原白秋・西条八十などの童謡にあわせて描かれた、童画や、武井武雄が書いた童話のなかに垣間見ることができます。童画のアールヌーヴォー調の幾何学的な線と大胆な構図のなかには、ワクワクするような不思議な小人動物たちの世界が広がっています。不思議なおはなしをつづったへんてこりんな童話の中にも王様お星様が生き生きと描かれています。そしてそこにちりばめられたモダーンなアイテム(トランプや洋風のお城、シャレた洋装などなど)は、当時の子どもたちを魅了したのです。

 

 新しいものへ、新しいものへ−

 武井武雄は、「新しいものへ、新しいものへ」というチャレンジ精神を晩年まで持ち続けた人でした。
「俺よ老いるな」といつも自分を叱咤激励して、さまざまな芸術活動に挑戦したのです。

 2年前、武井武雄の出身地である長野県岡谷市にオープンした「イルフ童画館(日本童画美術館)」では、武井の童画のほか、版画、本の宝石といわれる刊本作品、陶芸作品なども展示され、武井武雄の幅広い世界をじっくり堪能することができます(ちなみに「イルフ」とは、「新しい(フルイの反対)」という意味の武井の造語で、武井武雄はイルフトイスと名付けた玩具の制作も行っていました)。

 「武井先生の絵の虜になってしまったのは、三歳児の頃」という村上勉氏は、武井武雄になりたいとまで思っていたという武井ファンの一人です。そのほか、澁澤龍彦氏、堀内誠一氏、手塚治虫氏など、武井武雄の絵に影響を受けたという芸術家や作家も少なくありません。

 武井武雄は「理想の童画とは、作者の精神的な息吹きが子どもに伝わって感動させる作品」であると語っています。「子どもを対象にした純粋美術」として描かれた武井の童画は子どもだけでなく大人の心も捉えて離さない魅力を持っているのでしょう。

 

 武井武雄に影響を受けた人たちの「ひとこと」より

澁澤龍彦「とくに幼い私のお気に入りだったのは、武井武雄と初山滋であった。(略)どういうわけか、RRRという奇妙なサインのある武井武雄の絵は、線に独特の円味があって、男の子も女の子も、ちょっと顎をひいて力んだような、可愛らしい顔をしている。その様式的な線描の絵が好きだった。」

堀内誠一
「(略)RRRのサイン入りの絵はまさに私の玩具だった。幼児の記憶に焼き付いた彼の作品の魅力も、独創的な小王国の境界線もそこにあったが、RRRに親しまなかったら、私は“童画”を描くようになっていたかどうかは怪しい。」

村上勉
「武井先生の絵の虜になってしまったのは、三歳児の頃でした。兄や姉が幼稚園から持って帰ってくる「キンダーブック」や「コドモノクニ」の武井先生の絵を部屋中に並べ、夢中で眺めたものです。」

手塚治虫
「(略)鈴の絵本というのが何冊かぼくのうちにあった。年代からいくとはじめてであった本ではなかろうか。印象は鮮明で、その1冊目は“赤ノッポ青ノッポ”という武井武雄氏の絵物語。これは、鬼ケ島から、2人の鬼が日本の小学校へ入学するという、ユーモラスで温かい漫画だった。」

 


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