安房直子のページ |
『ハンカチの上の花畑』
『風と木の歌』
『天の鹿』
『遠い野ばらの村』
『花豆の煮えるまで 小夜の物語』
『白いおうむの森』
『トランプの中の家』
『うさぎ屋のひみつ』
『花のにおう町』
『風のローラースケート』
『三日月村の黒猫』
new!『うさぎのくれたバレエシューズ』
new!『うぐいす』
『ハンカチの上の花畑』 安房直子 講談社文庫 |
「ハンカチの上の花畑」、「空色のゆりいす」、「ライラック通りの帽子屋」の3編が収載されている。私が単行本でむかし読んだのは「ハンカチの上の花畑」(あかね書房)だけのようである。
「ハンカチの上の花畑」 郵便屋さんが、誰も住む人などないと思っていた「きく屋酒店」の酒倉に郵便を配達するところから話は始まる。酒倉にすむおばあさんに菊の花の酒を振る舞われるが、それは壺の中に住む小人の一家がハンカチの上の菊の花畑から造ったものだった。魔法の壺をおばあさんから預かった若い郵便屋さんは、その後結婚し、その壺のおかげでお金儲けをして一軒家を買って引っ越して行くが、その引っ越し先こそ、壺の小人たちの隣だったのだ。
小人になってしまって以前の生活の記憶をなくし、おもしろおかしく過ごしていた元郵便屋さん夫婦。うっすら記憶が戻りかけて見上げた空は、本当に目に映る通りの空なのだろうか…。淡々とした美しい光景の中に深淵を見るような怖さを秘めた作品である。彼女の作品を、それほどたくさん読んだ訳ではないが、たぶん彼女のエッセンスが良く現れているのではないかと思われる。
「空色のゆりいす」 いすつくりのめくらの娘に、風の子が虹から取った空色の絵の具を持ってきてくれる。次の年は、ばらの赤の絵の具。、次の年は海の青の絵の具の代わりに、海が教えてくれた歌。そして次の年。
これはイメージは素敵だけど彼女にしては大したことない作。
「ライラック通りの帽子屋」 訪ねてきた羊の頼みで作った帽子の力で、西へ西へと、自分の願い通り好きな帽子を作っていられる「いなくなった羊の国」へ行ってしまう帽子屋の話。望み通りライラックの花で美しい帽子を作ったは良いが、帽子屋の元へ来る女の子はみな羊の毛の帽子をかぶってやってくるので、ライラックの帽子をかぶろうと羊の毛の帽子をぬいだとたん、女の子たちは元の世界に戻ってしまう。せっかく作った帽子をかぶる人が誰もいないので、帽子屋は段々帽子作りが苦しくなってしまった。西の国のイメージにライラック色が重なって独特の世界である。羊の毛のトルコ帽をぬいだとたん、元の世界にひゅうっと引き戻されてしまうところが滑稽で、どこか哀しい。(1998.12.13 記)
『風と木の歌』 安房直子 実業之日本社 1981年 |
1981年に出版された短編集で、8編の作品からなっている。
掲載順に「きつねの窓」、「さんしょっ子」、「空色のゆりいす」、「もぐらのほったふかい井戸」、「鳥」、「あまつぶさんとやさしい女の子」、「夕日の国」、そして「だれも知らない時間」である。
今回は「きつねの窓」が読みたくて図書館で探した。安房直子は書棚のおよそ1段を占めていて、たくさん書いているのだなと実感した。ただし検索するといくらでもという感じででてくるので、これでも決して全部と言うほどではないだろう。
この「きつねの窓」は、勧められたことと、「こういう話を知りませんか」と問い合わせを頂いたこととで知ったものだが、イメージが美しく心を惹かれたのである。
彼女の作品には珍しくない、若い男性の主人公が、ある日山の中で偶然一面の青いききょうの花畑にはいりこんでしまう。ちらりと見かけた白い子ぎつねを追っていくと、そこにあったのはきつねの染め物やだった。なんでも青く染めてくれると言う、子どもの店員は、確かにさっきの子ぎつねが化けたものに違いない。
ことわるぼくに、「そうそう、おゆびをおそめいたしましょう。」と言うきつね。なんともかわいいでしょう!
親指と人差し指をききょうの汁で青く染め、ひし形の窓のようにしてそこをのぞくと、一番見たいものが見えるという。子ぎつねが一番見たいものは、てっぽうでうたれて死んだかあさんぎつね。半信半疑で指を染めてもらったぼくにも、ひし形の窓の向こうに、なつかしいものが見えた…。
けれども家に帰った僕は、何気なくその手を洗ってしまい、指の魔法は溶けてしまった。そして再びききょう畑の子ぎつねに会いに行っても、もう2度と会うことはなかったのだった。
ほんとうに短い、無駄のない愛らしい作品である。繰り返し彼女の作品にでてくる、失ったものへの哀惜が、ここにも込められていて、切ない。
また、彼女の作品では色のイメージが多彩なのも特色である。透明水彩のような、透過光の世界。
この「きつねの窓」の青い、ききょうの色は言うまでもなく、「空色のゆりいす」、「夕日の国」のように題名からそれが伺える作品も多い。
他の収録作品はどれもそれぞれに、「美しい」、「可愛らしい」に止まらない、どきりとするような洞察をうちに秘めた作品である。今の時点で強いてあげるならば、何百年も長生きをしている退屈しきった亀が、祭りの晩に自分の時間を村の皆に分けてあげて自らは死んでゆく、「だれも知らない時間」といえるかもしれない。
どこか尾崎翠と共通するものを感じてしまう、安房直子。未読の方にはぜひお勧めしたいし、私もこれから片端から読みたいと思う。
(1999.01.10 記)
『天の鹿』 絵・鈴木康司 筑摩書房 1979年 |
鹿撃ちの名人、清十さんはある秋の晩、三人の娘・たえ、あや、みゆきの事を考えながら獲物を待っていた。月がいやに赤く見えるその晩、目の前に現れたみごとな三つ又角の鹿は、自分を撃たないで通してくれたら宝物をやろうという。鹿の背に乗せられて、はなれ山でたつ鹿の市に連れてゆかれた清十さんは、鹿に金貨一枚をもらって、市を見て回った。そして、反物でもなく、鍋でもなく、きのこの雑炊でもなく、美しい紫水晶の首飾りを上の娘に買って帰った。帰る道すがら、鹿は、「むかあし、鹿のキモを食べたのは、あんたの三人の娘のうちの、どれだね」と訊ねるが、清十さんが答えられないでいると、淋しげな後ろ姿で鹿は去ってゆくのだった。 清十さんの話を聞いた3人の娘たちは、それぞれに金銀の反物、珊瑚のかんざし、金色の梨が欲しいと思ったが、一番下のむすめのみゆきだけは、清十さんを乗せて走りに走った鹿がどんなに疲れてのどが渇いたろうに、と思ったのだった。 ある晩紫水晶の首飾りをつけた たえは、鹿に出会い、鹿の市に連れていってもらって美しい反物を買うことができたが、鹿の言いつけを守れなかったばかりに、せっかくの反物の模様はすっかりこぼれてしまったのだった。 真ん中の娘、あやはその反物で仕立てた着物を着て、鹿の市に行くことができたが、着物の色のようなあまりに暗い闇夜なので、明るく輝くランプを買ってきた。帰り道、角にランプを下げた鹿は、鹿の群が通るのを見て、なぜかがっくりと首を垂れ、そのとたんランプは落ちて砕けてしまい、あやはほうほうの体で家に戻ってきた。 秋の夕暮れ時、川で漬け菜を洗っていたみゆきのもとに例の鹿が現れて、「三度目の正直であんたに会いに来た」という。きらきら金の粉をまぶしたような輝く山を越えて鹿の市に行ったみゆきは、はなれ山に着くと、鹿に山葡萄のお酒をわけてやった。すると鹿も一緒に市にゆこうという。「これでやっと、わたしも天の鹿のなかまになれるんだ」 初雪の晩、帰ってこないみゆきを捜して疲れ切った清十さんは、翌朝はなれ山の頂からわき上がるたくさんの鹿の形の雲をみつけ、その中に一人の娘の形があるのを認める。その姿はたちまち牝鹿の形に変わり、清十さんは流れてゆく雲を追ってどこまでも走っていくのだった。 |
<読んだあとに>
長いあらすじ!でもどこもここもいとおしくて。読んでいる時間自体が大切に思われる作品。
日本ばかりかグリムなどの昔話のようでもあり、あちこちの表現に宮沢賢治の影響と思われるものもかなり感じられた。これらの題材が今ひとつこなれきっていなくて、かなり注意深く読むことを要求される。材料の処理が中途半端だったり、余計だったり、せっかくの3人の娘という繰り返しが生かし切れていなかったり、と、生硬な印象が抜けないのだが、それを上回る切なさと美しさのあふれた作品だった。
美しい夜空のもと、山と谷を眼下に飛ぶように走り抜けるイメージがダイナミックで迫力がある。だいぶ年長の作家、神沢利子の作品をも想起させる。
こういうのを読んでしまうと、もっと長く生きてくれていれば、この方面の題材を生かした作品を必ずや書いてくれただろうに、と、残念な思いにとらわれてしまう。
鈴木康司(現・スズキコージ)の装丁と挿し絵がまた力強くて素晴らしい。
(1999.01.30記)
『遠い野ばらの村』 絵・味戸ケイコ 筑摩書房 1981年 |
短編集
題名 | 動物 |
遠い野ばらの村 | たぬき |
初雪のふる日 | うさぎ |
ひぐれのお客 | ねこ |
海の館のひらめ | ひらめ |
ふしぎなシャベル | ねこ |
猫の結婚式 | ねこ |
秘密の発電所 | かえる |
野の果ての国 | はち |
エプロンをかけためんどり | めんどり |
どのお話も、手のひらに大事に載せて、いとおしんでいたいような作品。掌編という字がぴったりの。
特徴は、どれも動物が物語の軸をなしていることである。
収録順に、野ばらの石鹸を持ってくる子だぬき、初雪を連れてくるうさぎの石けり。マントを注文するねこ、不思議な力を持つひらめ。いわし網を繕うねこ、地下室のねこのパーティ、発電所長のかえる、はちの村にさまよいこんだ娘、そして白いエプロンを掛けて手助けに来てくれためんどり。
と、いずれ劣らず愛らしく美しいのだけれど、どこかにどっきりするようなものを秘めているのはやはり安房直子。
うさぎの石けりの行列のなかにとらわれてしまってどうしてもやめられない悪夢のような思いは、かなり怖い。
かえるからもらった八重桜の模様の絹の布は、本当の八重桜と春の空をそこに閉じ込めたかのよう。峠に咲いたたくさんの百合の花の明かりがともる所などは、ポランの広場(宮沢賢治)のつめくさの明かりのイメージに近い。
短剣を持った大勢の異国の人(じつはハチの群)に追われる所もかなりせっぱ詰まった恐怖だ。
エプロンを掛けためんどりはご愛敬だけれど、人語を解する働き者のめんどりが、やっぱりつぶされて食べられてしまうところは想像するだにグロテスクである。
主人公たちはこれらの不思議な世界から無事帰還してくるが、美しい大切なものを失った哀惜が余韻を残す。けれども彼女の作品が健康的なのは、主人公が我に返ったときに、常にこの大きな喪失感にまさって現実に立ち戻る力を持っていることだと思う。安房直子は決して悲しい現実、冷たい現実に立ち戻らせるというわけではなく、自分の日常にほかの世界からののぞき穴を開け、もう一度この世界を新しい光のもとで見せてやるような、そんな戻し方をしている。だから、主人公(読者)は2度とゆけない別世界(や、思い出)を切なく思っても、もう一度自分を新たな目で見て歩き出す気持ちになれる。
どれも優劣つけがたいが、「初雪のふる日」、「ふしぎなシャベル」、「エプロンをかけためんどり」が好きかな。「秘密の発電所」も良いです。
(1999.01.30記)
『花豆の煮えるまで 小夜の物語』 安房直子 絵・味戸ケイコ 偕成社 1993年 |
1999.01.30読了
6つの短編の連作で一つのストーリーを形作っている。
第1話:花豆の煮えるまで 1991年
第2話:風になって 1991年
第3話:湯の花 1991年
第4話:紅葉の頃 1992年(書き下ろし)
第5話:小夜と鬼の子 1986年
第6話:大きな朴の木 1992年(書き下ろし)
小夜は山あいの宝温泉の子である。お母さんはいなくて、お父さんとおばあちゃんが温泉宿を切り盛りしている。おばあちゃんが自慢の花豆を煮る間、いろいろな話を聞くのが楽しみなのだ。 小夜のお母さんは、山んばの娘だという。小夜を生んでしばらくして、山が恋しくて帰っていってしまったのだとおばあちゃんが教えてくれた。 その娘の小夜は、お母さんのまねをしてみたら本当に風になって山へ飛んで行くことができた!火の精に出会ったり、鬼の普請した家をみつけたりもした。あるときは紅葉の精の子供と布団を並べて眠ったし、鬼の子を宝温泉に誘ったりもした。 おとうさんが新しいおかあさんを連れてくるかもしれない、と言うとき、小夜はどうしても本当のおかあさんに会いたくなった。小夜が一番いちばん大切にしているリボンをくれれば山んばを呼んであげるという朴の木の精に出会うが、やっぱり一番大切なリボンはあげたくない小夜だった。そのため、朴の木の精を怒らせてしまい、小夜は山んばには会えなくなってしまった。でもその代わり、新しいおかあさんがいい匂いのグラタンをこしらえてくれたのを知り、小夜は遠い空の山んばの方に向かって「ごめんね」とつぶやくのだった。 |
別々の時期にかかれた6編が一つのストーリーになって、小夜が本当のお母さんを恋しく思う気持ちが細やかに描き出されている。小夜が、空を飛べるようになったり鬼の子にであったりしていよいよ山んばの娘らしく成長してゆくのかなあ、お母さんの住む山へ帰っていってしまうのかなあ、と半信半疑の気持ちで6編を追ってゆくと、最後の最後にやっぱり小夜は山んばの世界ではなく、現実に生きる宝温泉の子として新しいお母さんに甘える娘として描かれる。ほかの作者ならこれはすんなり宝温泉を捨ててお母さんのもとに飛び去ってゆく小夜の姿をもって終わらせるかもしれない。けれども小夜が山んばの娘としての素質を現し(たように見え)ながら最後に現実の世界に戻る、この終わり方が私は好きだ。もしもこのまま小夜が山んばの国へ去っていってしまったら、読者はいいようのない不安にとらわれてしまうだろう。
安房直子はこうして起承転結をはっきりとさせ、落ち着くべき物事を落ち着くべきところへ持ってゆき、読者の足場をきちんと元に戻してくれる。だが、物語の前と後で主人公(=読者)が自分の世界を見る目は、明らかに異なったものとなっている。彼らは知らずにいればいられたかもしれない、世界の思わぬ広がりと深みとを知ったのである。時にはそれは思わぬ幸運な体験であるかもしれず、また時にはどうしても忘れたいと思うほどの冷たい記憶であるのかもしれない。
(1999.01.31 記)
『白いおうむの森』 安房直子 絵・赤星亮衛 筑摩書房 1973年 |
短編集。「雪窓」「白いおうむの森」「鶴の家」「野ばらの帽子」「てまり」「長い灰色のスカート」「野の音」の7編収載。
「雪窓」というおでんやさんを手伝いにきた たぬき。そこへやってきたお客は、雪女のようでもあり、おやじさんの亡くした娘、美代のようでもあったが、ある晩大勢のお客を誘いだしてくれる。
表題作「白いおうむの森」は、白いおうむが守る死んだ人たちの地底の国へ、ねこのミーと一緒に訪ねて行くみずえの話。みずえが生まれる前に死んだなつこねえさんに、会いたい。
「鶴の家」は鶴女房の変形のような話である。間違って丹頂鶴を撃ち殺してしまった長吉さんだが、嫁さんをもらった晩に鶴の化身のような女が美しい青い皿をお祝いに持ってきた。それは長吉さん一家にとって思いがけず幸運をもたらす皿だったが、長吉さんが死んでから、家族のものが死ぬたびに皿には鶴の絵姿が1羽、また1羽と増えて行くのだった。それを知っているのは今は曾孫の春子ひとりである。春子は結婚の朝、皿を取り落として割ってしまう。すると、そのとたん、割れた皿からおびただしい数の丹頂鶴が空へ飛び立って行き、春子の結婚を祝福するのであった。
なぜか撃ち殺された鶴がひどい仕返しをするでもなく、ただ死んだものが鶴の姿になるというその因果が理屈抜きで美しく、皿を割ってそこから解き放たれた春子の姿が印象に残る。
山の中の鹿・白雪にすっかりだまくらかされて、野ばらの姿になってしまったぼくを描く「野ばらの帽子」だが、この手の若い男性が出てくるいくつかの物語は、遠くに佐藤春夫の「西班牙犬の家」のこだまが聞こえる気がして、好きなシリーズだ。
お姫さまと身分の低い娘おせんの、子どもらしい思いが夢の中で結びつく「てまり」は、おせんがたもとの中に見せる小さなはた織りと菜の花畑が好きです。
後の2作はそれぞれ舞台もストーリーもまったく違うが、どちらも、夢の中で体の自由が利かない思いをするときのような怖さを持った作品である。
とくに最後の「野の音」のエンディングでは、主人公の勇吉が、木の葉の娘たちの仲間にされてしまうが、「ハンカチの上の花畑」で感じたような、すっかり現実の世界の記憶をなくして人形(この作品では木の葉の娘の仲間)になって行くときのえもいわれぬ怖さと共通するものを感じる。
全体に、今まで読んだものより早い時期の作品であるせいか、印象が幾分違う感じもあった。けれども、たくさんのイメージ、色彩の美しさ、透き通った怖さは変わらない。(1999.02.12記)
『トランプの中の家』 安房直子 絵・田中槇子 小峰書店 1988年 |
大きな字の、これ1編の本である。
4才の妹あつ子をつれて、森を抜けておばさんの家にお使いに行く9才のわたし。おばさんに言うように教わったご挨拶を練習してみる。「どうぞよろしくお願いします」すると後ろでいきなり「はいはい、こちらこそ」と返事がきこえた。何とびっくり、それはせりのかごをかかえたうさぎ。「わたし」は、うさぎの後を追って魔法のトランプのなかに飛び込んでしまう。
トランプとうさぎなんて「不思議の国のアリス」を思わせるような題材で、いかにも何か起こりそうだ。うさぎが入っていった家は「トランプ工房 うさぎ堂」だった。さっきのうさぎはそこで、お料理をしている。おいしそうなポテトサラダのサンドウィッチ!もぎたてのトマトで作ったジュースを飲むうさぎたち、ここ挿し絵がぴったりで、私も新鮮なトマトジュースが飲みたくなる!
一面のクローバーの野原にちらばって一心にさがしものをする、あきれるほどたくさんのうさぎ、うさぎ、うさぎ……(きっとうさぎたちはいまでもクローバーの中でさがしものをしているのだろう)。おしまいに手に手を取って森の奥へ駆けて行くうさぎの恋人たちが愛らしくて、追いかけて行きたくなる。
(1999.02.14 記)
『うさぎ屋のひみつ』 安房直子 絵・南塚直子 岩崎書店 1988年 |
「うさぎ屋のひみつ」「春の窓」「星のおはじき」「サフランの物語」の4編。
「うさぎ屋のひみつ」は、気だてはいいけれどなまけものの奥さんの所にうさぎが訪ねてきて「夕食配達サービス うさぎ屋」なんて名刺を差し出す。会費は毎月、アクセサリー1個きり。ほっぺの落ちそうなロールキャベツ、コロッケ、シチュー…。ところがガラスのブローチ1個で済んだのは最初だけ。次の月はおかあさんにもらった金の鎖、その次にはだいじな金の結婚指輪を会費としてうさぎに渡す羽目になってしまった。…
うさぎから盗んだ秘密の調味料を使って作ったお料理はほんとうにおいしかったんだろうか?調味料を盗られてさんざん泣いたのに、けろりとしてもう一式せっせと調味料をこしらえてまたうさぎ屋を続けるうさぎ、これいかにもうさぎらしくて大好きです。
「春の窓」は貧乏な絵かきとまだらの猫の話。猫の魔法で壁に描いた、赤いひなげしの見える窓が本当の窓になる。魔法が成就すると魔法の猫はただの猫になってしまった。ここのところが彼女らしい健康さ。
「星のおはじき」いじめられっこの「わたし」がついつい盗ってしまった3つのおはじき。ガラスの中に星が入ったきれいなおはじき…。「わたし」が扱いかねた気持ちと3つのおはじきをそっくり引き受けてくれたのは、柳の木だった。いつか星の形の小さな青い花が咲いて「わたし」は心の重荷が取れたように思う…ほんの短い作品だが、とても大事な気がする。
さいごの「サフランの物語」は、アンデルセンの、死んだ子を追って、しまいに目玉まで死神に差し出す母を彷彿とさせる、母親の話。女の子はまりを追って、ふしぎなおばあさんのサフラン畑に迷い込んでしまった。おばあさんがサフランで染めた黄色いリボンを髪に結んで踊るうち、黄色い小鳥にされてしまった!後を追ってきたおかあさんは知恵を働かせて魔法のネズミを作って鳥かごから娘を助け出す。
遠い東の地平線のむこうの日ののぼる町、まぶしい日の光の色の着物をきた人たちは、美しくも凄まじく、人であって人でない、彼女お得意のじつは怖ーい異界をかいま見せてくれる。私は黄色が好きなのでそれを使った作品はひいきしちゃうかも。
南塚直子のエッチングによる表紙、挿し絵がとてもすてき。第2回赤い鳥さし絵賞受賞と裏表紙にある。
(1999.02.14記)
『花のにおう町』 安房直子 絵・味戸ケイコ 岩崎書店 1983年 |
「小鳥とばら」「黄色いスカーフ」「花のにおう町」「ふしぎな文房具屋」「秋の音」「ききょうの娘」の6編の花にまつわる作品で統一されている。
「小鳥とばら」で、バドミントンの羽根を探しに生垣に囲まれたお庭に入っていった女の子は、そこが思いのほか広く、ほとんど森のようであることに気づく。羽根だったはずの小鳥とお庭に咲くばらを材料にしたパイをご馳走になった女の子は、じつは魔法でばらの木に変えられるところだと知らされ、必死に庭の外へ逃れる。無事に逃げ切った彼女は、自分が以前と違って「ばらの花のようにきれいになって、小鳥のように明るくなったこと」を自覚し、それまで弱者であった友人との関係の呪縛からも軽やかに逃れ去って行く。
庭の中で出会った少年のおかあさんが作るこのパイは、夢の中のワンシーンのように奇妙にリアルでグロテスクだ。
おばあさんがふと思い出して手箱の底から取り出した「黄色いスカーフ」は、散歩に出たおばあさんのハンドバッグの中で「ひろげて ひろげて 草の上に ひろげて」と歌い出す。「オレンジとホットケーキ」、とひとりでにオレンジとホットケーキを出してくれるかと思えば、「むすんで むすんで」と木の枝に咲くいい匂いの黄ばらになり、また「あつまれ あつまれ まいごのカナリヤ」とたくさんのカナリアを呼び寄せてくれる。おばあさんは今晩、幼い日の黄ばらの夢を見るのだろう…。
くずれるようにほろほろとこわれてゆく黄色いばらは私の大好きなイメージ。
「花のにおう町」は秋の話。「空が、とても青く、高くなって、風が、さらりとかわいてきて、そして、なきたくなるようなあまい花のにおいが、あたりにたちこめた夕方」、信(しん)は胸の中でバイオリンが鳴るような気がする。町のあちこちで黄色がかったオレンジの自転車に乗って信を追い抜いて行く少女の姿が頻繁に目につく。そしてまた1台、また1台、オレンジ色の自転車の群。キンモクセイの花の精の少女たちは、信をおいて「遠い遠い空のはて…」へのぼってゆく。
秋になるとキンモクセイの匂いがまるで目に見えるかのようにただよっていて、糸にひかれるようにその匂いをたどって行くことがしばしばある。甘い、懐かしい、秋の象徴のような匂いを自転車の少女として描いたのには脱帽である。
ひそかにひそかに有名な「ふしぎな文房具屋」では、虹から色をもらった絵の具、描いたものが本物のように見えるクレヨン、ふたを開けると小鳥の声が聞こえてくる筆箱(ほしい!)などを売っている。何でも消える消しゴムは女の子の悲しみも消すことができるのだ。文房具屋のおじいさんが描いた、少女の死んだ黒猫の絵を消しゴムで消すと、その絵は一面の黄色い水仙に変わる。…みずみずしいいい匂いの水仙の絵の中で黒猫のミミを空におくった女の子は、何でもすいとるすいとり紙をおまけにもらって帰る。インクでも、絵の具でも、涙でも吸いとるすいとり紙。
耳が遠くなってしまったおばあさんに届いた、「山の風より」の贈り物は三つのくるみ。くるみの中の「秋の音」だけは、おばあさんにもちゃあんと聞こえるのだった。赤い柿の葉を頭にのせたきつねといっしょに食べる野菊のお菓子、菊の花びらのいい匂いは私の幼い日のままごと遊びの匂いでもある。
「ききょうの娘」大工の新吉のよめさんは、紫のきものしか着ない。ある日、「山のおっかさんからたのまれて」突然現れたよめさんは、赤い塗りのおわんを大事に持ってきた。このおわんは山の味を運んでくれる不思議なおわんだ。しかし新吉が大工の腕が上がり羽振りが良くなって、おわんを粗末にし始めるとよめさんはいなくなってしまう。
一面のすすきとあふれるほど咲くききょうの花のとりあわせは一度ぜひ見てみたいと思う美しさだ。腕を上げて山に戻ってくればききょうの精のよめさんはちゃんと新吉さんを待っていてくれる、というのが民話風な点から一歩抜け出しているところだ。
どれも花のかおりにつつまれた佳品だが、ただひとつ、ききょうの花って匂いがしたっけ?とふと首を傾げたり。にもかかわらず匂い立つような雰囲気の作品であるのはさすが。
(1999.02.14 記)
『風のローラースケート』 安房直子 絵・小沢良吉 筑摩書房 1984年 |
「山の童話」と副題がつけられている連作短編集である。歳時記風に山の暮らしが綴られた懐かしいような掌編集。題名が実に魅力的だ。
「風のローラースケート」、「月夜のテーブルかけ」「小さなつづら」「ふろふき大根のゆうべ」「谷間の宿」「花びらづくし」「よもぎが原の風」そして「てんぐのくれためんこ」の8編。
「風のローラースケート」で登場する茂平さんは、峠の茂平茶屋の若いご主人で、つい最近結婚した奥さんと店を開いたばかり。ある秋の日、ベーコンをこしらえてみようと思いついた茂平さん、肉をいぶしているといたちが1匹、そしてもう1匹、「わたしにもわけてくださいよ」と、物欲しそうな目で見ているではないか。ところがベーコンができあがるやいなや、1匹がくわえて逃げてしまった!茂平さんは一目散に追って行くが、その逃げ足の速いこと速いこと。それもその筈、いたちはなんと、ローラースケートをはいて、まるで秋風になって山を走り降りて行くのだった。そしてそれを追う茂平さんもいつか風になっていた!
「月夜のテーブルかけ」で登場した奥さんは、たぬきの誘いで「ゆきのしたホテル」で素晴らしい野草のご馳走を食べる。たぬきおとくいの魔法で素敵な演出だ。
山のおさるが、茂平さんの店の近くのおみやげや・つづらやに、あけびで編んだ「小さなつづら」をもってきてくれる。
つづら一個につき、干し柿五個、あるいは、
つづら一個につき、ブドウ酒一合。あるいは
つづら一個につき、栗十個。
冬になっておさるの手がかじかむまで、こうしてつづらやの老夫婦とおさるの取引は続く。
大根を掘った帰り道、「ちょっとそこまで、みそ買いに」というおかしな歌を聴いた茂平さんは、声の持ち主のいのししに「ふろふき大根のゆうべ」なるものに誘われた。あかね山のいのしし、三日月山のいのししといっしょにふうふう食べるふろふき大根は格別の味だ。ほっかむりしてやまを走り抜けてくるいのししの鼻息がきこえてくるよう。帰り際、茂平さんはその手ぬぐいを借りてほっかむりして帰ってくる。いのししたちの大根をつつきながらの話がほんとにあったまる。
山道を駆け通しで茂平茶屋にやってきたお客は、「谷間の宿」で死ぬほどの怖い目にあったという。宿だと思ったそれは、なんと大きな蛾たちの作ったまやかしの宿だったのだ。
山暮らし六年になった茂平さんたちだが、奥さんは去年から、さくら屋のお客になった。これは村の人間しか入れないお店だ。
「さくら屋にご招待します。花ふぶきの午後、おでかけください。お金は、百円お持ち下さい。ぜんぶ、五円玉で、おねがいいたします」
と書かれたうすもも色の招待状を持っていそいそとお出かけである。村の女たちが皆集うそれは、桜の精たちのお店なのだ。「花びらづくし」は爛漫の春の日のすこし怖いような美しい話。『天の鹿』の鹿の市を思い出す。桜の花びらのまくらを抱いて眠ってしまった奥さんは危ういところで目を覚ました。「さようならあ、またらいねんね」と手を振る、馬車の上の桜の精たち。馬の首には五円玉をつないでつくった長い金色の首飾りが、しゃらんしゃらんと音を立てていた。これかなり好きかも。
茂平さんの息子の四才の太郎をはじめ村の子供たち四人は、よもぎが原へかごを持って出かけていった。ところが、まるい月が昇っても彼らは帰ってこない。心配になった母親たちは、山道を一列によもぎが原へ向かっていった。するとそこには子供はいなくて、かわりになわとびのなわと、そばにはすやすや眠るこうさぎが四匹…。
母親たちのなわとびうたが、うさぎにだまされてこうさぎになったこどもたちをこっちの世界に呼び戻す「よもぎが原の風」は、一心に歌いながらなわを回す母親たちが童女のようで愛らしく、またファージョンの世界(「エルシー・ピドック、夢でなわとびをする」)をも思い起こさせて、ふうわりと余韻がある。
峠のみやげ物屋の七才のたけしは、めんこがへただ。ある日、天狗から、風のめんこをもらったたけしは、こぎつねたちとめんこの勝負をすることになる。風のめんこは無敵だが、きつねのめんこも素敵に強い。子供たち以上に熱心な親ぎつねたちの応援も加わり、力の入っためんこ合戦だ!…ようやく引き分け試合を終えて帰ってきたとき、「てんぐのくれためんこ」は木の葉に変わっていたが、予想に反して、親ぎつねたちが心を込めて作ったきつねのめんこはそのままで、たけしのひきだしの中で夢のようにきれいだった…。
『三日月村の黒猫』 安房直子 絵・司 修 偕成社 1986年 |
さちおはひとり、店に取り残されていた。おとうさんの「山本洋服店」はついに倒産してしまい、お父さんはさちおをのこして後始末にでていってしまった。そこへ「あなたをたすけにきました」と訪ねてきたのは、片目の黒猫だった。山本洋服店をたてなおすカギの服の「ボタン」があるという、黒猫のふるさと三日月村は、さちおのおばあさんの住む村だ。
不思議な力に吸い込まれて三日月村にたどり着いたさちおは、ボタン作りの職人になるべく修行を始める。青白い光に包まれた三日月村、おばあさんの家の二階にある、鍵のかかった「ボタンのへや」にはいったいなにがしまってあるの?
(この項追加予定)
『うさぎのくれたバレエシューズ』 安房直子 絵・南塚直子 小峰書店 1989年 |
直子・直子コンビの、本当に綺麗な絵本。
5年もバレエを練習している女の子は、バレエが大好きなのに、ちっとも上手にならない。踊りが上手になるように、と言うのがただ一つの願いだ。
あるとき届いた不思議な小包には、一足のバレエシューズが入っていた。はいてみると、ふいに、からだがかるくなって、「だれかがよんでるわ」と、山の道をどんどん登っていった。大きな大きな桜の木の中にあった一軒のくつや。このうさぎのくつやが、女の子にバレエシューズをくれたのだった。
くつやを手伝って、さくらの木のしるで染めたうすももいろの布で30足ものバレエシューズを作ると、うさぎのバレエ団がやってきてそれを履き、大喜びで踊り出す。女の子も一緒に、風になって、ちょうになって、花びらになって踊る…。気がつくと大きなさくらの木の下に、女の子だけがいて、夕方の風に花びらがざざーっと散るばかり。
こわくなって家に帰り、見るとバレエシューズはぼろぼろだ。けれども女の子はうさぎたちと一緒に踊ったあの感じを2度と忘れることなく、はだしでおどっても、風になって、ちょうになって、花びらになって踊れるのだった。
安房直子は何遍も桜の景色を書いているけれども、いずれもその凄絶さを感じさせる。この本では直子・直子のコンビが相乗効果を見せて、本当に素晴らしい桜色の吹雪を見せてくれる。ページを開くと春のまっただ中に放り込まれたような、昂揚した気分に文字通り巻き込まれてしまう。一読・一見の価値あり。
『うぐいす』 安房直子 絵・南塚直子 小峰書店 1995年 |
これもまた直子・直子コンビの絵本。
年取ったお医者さんと、その奥さんの看護婦さんがやっている森の中の古い病院では、看護婦さん募集の貼り紙がしてあるが、いっこうに応募する若い人はいない。包帯巻きの上手な奥さん看護婦さんは、一生懸命働いて疲れ切ってしまった。
ある春のあかるいお月夜、野ばらの匂いとともに訪ねてきたひとりの若い娘。
「あのとき、足をけがして…足にほそい枝をあてがっていただいて、ほうたいしていただいて」だから今度は自分がお医者さんを助けてあげたい、と、娘は言う。あのときの…、あれは、うぐいす、この娘は、うぐいすのむすめなのだった。
おくさんは小柄な娘のために白い制服をひとそろい縫い上げて、それから若い看護婦さんは毎日歌いながら元気に働いていた。ところがあるとき若い男のうぐいすの歌に焦がれて、娘は病院から去ってしまい、また病院は忙しくなってしまった。
秋が来て、冬が終わり、また春が来た頃、2羽のうぐいすの声を良く聞くようになった。またいつかのような晩に、訪ねてきた若い娘は、何と今度は5人!去年のうぐいすの、その娘たちだったのだ。おかあさんから包帯の巻き方、消毒の仕方、湿布の仕方を教わって、手伝いにやってきた。さあ、奥さんはあしたから5人分の白い制服を縫わなくては!
ストレートなお話だが、かぐわしい香りとともにやってくる清らかなうぐいすの少女がとても可憐で素敵。男のうぐいすに恋いこがれて、「出かけてきます」と、とうとう行ってしまうあたりがいかにも鳥らしい。そして「らいねんあたりきっとお役に立てると思います」とちゃんと手紙をよこすところなど、うぐいすの律儀さを表しているようで微笑ましい。本当のうぐいすが、繰り返し鳴く練習をしている声を思い出すと、いかにもうぐいすってまじめに何遍も包帯の巻き方や薬の付け方をおさらいしそうではないか。