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独書間奏

(98年7月以前の分)


 94 『武士の娘』 杉本鉞子 ちくま文庫

980707 『ユニコーン・ソナタ』 ピーター・S・ビーグル 早川書房
9805   
『西の魔女が死んだ』 梨木香歩
9802   『裏庭』 梨木香歩

ずっと以前 『ジェニーの肖像』 ロバート・ネイサン ハヤカワ文庫NV


980707 『ユニコーン・ソナタ』 ピーター・S・ビーグル 早川書房

 やっとピーター・S・ビーグルの新刊が刊行された。文庫ではなくハードカヴァーで、翻訳は井辻朱美だ。

 タイトルの通り、ユニコーンが準主人公で、主人公はジョーイことジョセフィーン。本当はまだ学生なのだが、ギリシャ人の楽器屋に入り浸って雑用の手伝いをしながら音楽を習っている。老人ホームに入っているスパニッシュの祖母とジョーイは仲良し、祖母は彼女をフィーナと呼ぶ。私はこの名の方がすき。

 フィーナが楽器屋で一人留守を預かっていると、忽然と現れた不思議な美しい少年が、一風変わった角笛で彼女の心を虜にするような音楽を奏でてみせる。その角笛はもちろん、ユニコーンの角なんだなこれが。

 フィーナは彼、インディゴに誘われるように…というよりその音楽を捕まえたいという誘惑に抗いがたく、別の世界・シェイラに足を踏み入れる。そこには、フォーンや、空を飛ぶ獰猛な鹿のような生き物ペレイラ、ミニチュアサイズのドラゴンたち、川の娘ジュラをはじめさまざまの不思議な生き物たちと、そして自らを「大老」と呼ぶユニコーンの群がいる。そしてフィーナは次第に、彼女を虜にした音楽が目に見える形を取ったものこそ、ユニコーンたちであり、シェイラそのものであることを感じ取るようになる。

 しかしいつからかユニコーンたちには目が見えなくなる病が広まりだしており、子供のユニコーン以外は皆まぶたにかさぶたのようなものができて、視覚ではない独特の感覚によって外界を見ている状態だった。

 彼女は最初のシェイラ訪問以来何度かその地を訪ねるが、探検したり、ジュラやフォーンのコー、若いユニコーンのトゥーリクたちと遊んだりするほかには、シェイラとその音楽を体に吸収させようとするばかりで、ユニコーンたちの病に関して何かしてやろうというたぐいの関心はない。

 次第に年老いてゆく祖母に、何とかこの美しいシェイラを見せてやりたいという一心で、フィーナはついにインディゴ、じつはかの地では大老の一人なのだが、その助けをかりてシェイラに祖母を連れてゆくことに成功する。この祖母こそ、深い知恵と持ち前の性格でユニコーンたちの病を治す薬をつくろうとする。それに必要な黄金を得るため、フィーナの頼みでインディゴは、フィーナの世界の楽器屋パパスに、自分の角を黄金で売り渡してしまう。そんなことが起きる前は、シェイラからフィーナの世界に移り住みたいと願っていたインディゴは、パパスに角笛を売りたい素振りだけを見せていただけ。売り渡してしまえば二度とシェイラには戻れないのだから、思い切りのつかないままの彼はいつも黄金の値をつり上げてきたのだったが。

 というわけで粗筋をたどってしまったけれども、このごろ、すてきな祖母がでてくるっていうのがはやりかなあ。けれどもブラッドベリ『タンポポのお酒』に登場するおばあさんたちも魅力的だった。女の子は、なんか、デ・リントに出てきた女の子たちを思い出させるところが大いにある。だからといってこの作品の魅力が減ずるわけではないけれど。
 それとだいたいこの人は、筋の展開とか言うものよりもむしろ、細部の描写、雰囲気、描き出す世界そのものの美しさが魅力のように思う。だから、この物語に込められたメッセージだとかをつつっとそこだけ日常語に翻訳して、たとえば「この世界の片隅にすむホームレスたちの中にもシェイラと同じくらいかそれ以上美しいものがあるっていうわけよね」なんていうようなことを言っちゃうと、ほんとにもうおしまいなのサ。
 久々に彼独特の、静かでありながらも美しい色彩と銀粉のきらめきを持った世界を堪能しました。

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9805 『西の魔女が死んだ』 梨木香歩

 大分前から、読んでみたいと思っていた作品で、もう一つの「裏庭」は、日本の作家としてはかなりおもしろいと思って読んだ。けれどなんだかこの作品は題名がオズの魔法使いを連想させるせいか今ひとつ手が出なかった。けれど、結構評価も高いようだし、あちこちのサイトでもよく見かけるので、読む機が熟したのではと思い、図書館になかったので早速購入。

 登校拒否やなんかの子が読むのによいとか、癒しの本とか評されているようだけれど、そういう評でくくってしまうのも読み手ないし読み手の意識を狭めてしまうように思う。私は特に「癒し」を期待して読んだ訳ではないけれど、主人公まいの置かれている状況や、魔女の住まいとその人の醸し出す「いつもそこに変わらずある安定したもの」を感じるのに何不自由はなかった。

 なによりも「裏庭」の時にも感じた、作品の各部分が連続性と立体性を欠くという印象はこの作品でも終始つきまとった。ほかにも、何でわざわざまいの住まいから6時間も離れた場所に魔女の住まいを設定しなければならなかったのかとか、母親が、子供を主人公にした作品でありがちな、類型的な描き方をされているところとか、魔女の住まいが周りとどうも切り離されている印象があるところなどが読んでいていつも意識から離れず、舞台装置も書き割りのように感じられて仕方なかった。主人公の意識、心理、細かい道具立てなどはそれぞれとてもよく書けていて、メッセージのたくさんある力量ある人だとおもうのだけれど、だからこそ余計に作品としての全体の有機的な構成の弱さが大きなギャップとして感じられてぬぐい去ることができない。

 「裏庭」でも、お屋敷の部分は大鏡のところまでは非常によく書けているのに、屋敷(建物)のほかの部分をまるで感じることができなかったし、鏡を抜けて裏庭の世界に入っていったその瞬間から、それこそ書き割りのように、2次元の世界に入ったように、世界が平面的に感じられた。では描写が下手かというと、そういうわけでもなくよく書けているとは思うのだが、たとえば指輪物語に強く感じられるようなその土地の広がりが、全くない。この「西の魔女が死んだ」でも事情は同じで、魔女の家の周り、林、木立、美しい気配りのある文で書かれていて、うつくしいなあ、いいなあ、とそこここで感じるのだが、どうも遠近感を欠くのはなぜだろうか。むしろ、香りや手ざわりはつよく感じられる。「裏庭」にでてきたじっとりした空気とか、この作品の魔女の山のさわやかな空気、ラベンダーの香り、手仕事をするときの指先から感じられるもののぬくもりと時間の流れが、実体を持って記憶に残るように思われる。

 荻原規子がその点ずっと人物の周りの世界の描写が達者だろうと思う。龍たちの戦いの一大スペクタクルは手に汗握るような視覚的音響的効果があったし、主人公たちが丈高い草をかき分けて旅してゆく様にも、草原の向こうに広がる蝦夷の土地の広さ、荒涼たる雰囲気などが常に感じられた。その分、心理描写の微妙さ、繊細さは梨木香歩の方が独特なものをもつのだろう。

 どうしても題材からいっても彼女の(この)作品は、読むひとのほうが自分の身に必要以上に引きつけて読んでしまうのではないかと思う。わたしは、こうした種類のものと同時に、ストーリーがはっきりしていて物語性のあるのもとても好きなので、どちらが好きということはないのだけれど、もしじぶんに才能があったら、ほんとに、この二人をあわせたような、自分で読みたいと思う種類のものを自分で書くという方向に間違いなく走っていただろうと思う。

 いずれにしてもこの人の作品はとても力があるので、以上のような欠点を感じながらもそれを上回って読者を引きつける独特のものがある。というより、荻原規子が読者を引きつけるなら、このひとは読者の胸に入り込むといった方がよいかもしれなくて、それがこのひとの魅力で才能なのだろうと思う。分量的にも手頃で、ほとんど一気に読んでしまった。

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94 『武士の娘』 杉本鉞子 ちくま文庫                              

 むかし、NHKのFMで、朗読の時間というのがあり、2,3週間かそれ以上かけて一つの作品を毎日朗読してゆく番組があった。記憶に残るものの一つに、『武士の娘』がある。

 明治6年に長岡の家老の娘として生まれ、「武士の娘」として育てられた著者は、兄の友人の貿易商と結婚するため単身アメリカに渡り、それ以後の生涯のほとんどをアメリカで暮らした。
 夫の死後ひたむきな努力で書かれたこの作品は、雑誌に連載された後、単行本ともなった。このようにもともと英語で書かれたものが日本語訳されたわけで、それとは知らずに、今ではお目にかかれないような落ち着いた端正な語り口で朗読されるのを聞いていると、話の内容は「寒稽古」であるとか「酉の日」、「風習のちがい」、「日本の婦道」のように日本のことであるのに、妙に隅々に手が届くように明快で、何十年も昔のことなのに新鮮な感動があるのだった。何日か聞くうちに「大岩美代・訳」と言うのが耳に入り、もしや英語で書かれたのかと思い当たり非常に驚くいっぽう、そういう訳かと納得したことを覚えている。

 まだ学生だった私は図書館などで本を探したがついに見つけることができず、題名と作者名だけをずっと記憶していつかお目にかかることがあればと思っていた。そうしたら何年も何年もたったある日、姿を見せてくれたんですね、しかも文庫になって。ほとんど歓声を上げましたね!

 杉本鉞子(えつこ)『武士の娘』ちくま文庫,1994年 がそれである。このひとはたいそう理知的な女性で、これを読むと昔の女性は皆そうであったかと思われるほどであるが、彼女に語らせると、日常の何事にもみな訳があり、由来があり、歴史があるのである。アメリカの、日本とは異なる様々なことがらに素直な疑問を抱いては、非常に素直に読み解いて、柔軟に受け入れる才能を持っている。そしてそれが全く独りよがりになっていないのだ。

 朗読を聞いて記憶に残っているものの一つは、着物の帯に関するくだりである。
 アメリカ人女性から、帯を指してこれは何か、なぜこのように結ぶのかと聞かれ、「身分、年齢、職業などによっていろいろの結び方のある」事をおしえ、さらに帯の丈を例に取り、「古代の東洋人が信じた神話や天文学が、この帯にも現れていること」を説明してしまうのだ。私は知らない、断じて知らないそんなこと!

 何年もたってやっと巡り会ったこの本は、FMを通して聞いたおぼろな記憶を裏切ることなく、私の賛嘆の対象となった。漱石が未だちっとも古びることないのと同じように、書いてある事物こそ古いが、このひとの、武士の娘としての教育と心意気に裏打ちされた、生き生きした精神と感受性は、実に現代の私を驚かせ、私よりむしろ新しいのである。

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