耳をすます

 クラシック音楽、古楽、ビヨリンやビヨラのこと

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●こんな演奏会に行った

何を聴いてもよかったー、素晴らしかったー、と楽しめる
脳天気なニムのずっこけ感想 
(…そう思わなかったときは書きません)

001110 ヒロ・クロサキのバッハ
000304 デンオン J・クラシック・フェスティバル・コンサート
991201 ロンドンバロック
990901 
仲道郁代の音楽学校1999
990701 
アムステルダム・ルッキ・スターダスト・クルテット
990629 
タリス・スコラーズ
990624 
ファビオ・ビオンディ/エウロパ・ガランテ
990610 
ベルリン古楽アカデミー
990528 
ヴィオラスペース1999
990312 
京劇「覇王別姫」
990309 
ザ・ハープ・コンソート
981116,19 
ヒロ・クロサキのベートーヴェンI、II
981027 
林峰男チェロリサイタル
981026 
ポメリウム 
981009 
バロックオペラ「ポッペーアの戴冠」
980929 
今井信子ヴィオラリサイタル 
980901 
仲道郁代の音楽学校


17 ヒロ・クロサキのバッハ

001110  津田ホール

「音楽の捧げ物」BWV.1079より
 
3声のリチェルカーレ
 無限カノン  
 螺旋カノン
 フーガ・カノニカ

ソナタ ハ短調 BWV.1071

ソナタ ト長調 BWV.1021

「音楽の捧げ物」 BWV.1079より
 トリオ・ソナタ

・アンコール
 ブランデンブルク協奏曲第5番より第2楽章
 ソナタ ト長調 BWV.1038

バロック・ヴァイオリン:
ヒロ・クロサキ(はあと)
チェンバロ:ヴォルフガング・グリュグザム 
フラウトトラヴェルソ:中村忠


 久しぶりのヒロさんの演奏会である!
 永遠の少年、ヒロ・クロサキはどこへ行く!?背中に羽根を生やして、空の高みに昇っていってしまうのだろうか!

 バッハ没後250年ということで、今年はあちこちで多くのバッハプロが企画された模様。ついにヒロさんまでが…。何もヒロさんが二年ぶりに行う演奏会でわざわざバッハプロを組まなくても…という思いもあったが、ヒロさんはそんな思いを一挙に吹き飛ばしてくれたのだ。

 トラヴェルソ氏とチェンバロ氏を従えて登場したヒロさんは、いきなり「こんばんは!」と挨拶。やたー、またヒロさんの声が聴ける!
 彼は、聴いて楽しい音楽だけではなく、バッハの構成の妙をも知って欲しいというメッセージを述べ、だから説明を交えながら弾きます、と幾分怪しげな日本語で話される。
 どのようにして、フリードリッヒ大王にバッハから「音楽の捧げ物」がなされたか、と言う説明に続き、チェンバロの独奏が始まる。舞台上の椅子にかけてこれを聴いていたヒロさんは、首を振り、目を閉じ、時折笑みをこぼし、じつに楽しそうな様子。

 さてヒロさんらが加わって本格的に演奏は続けられる。
 無限カノンの文字通りきりのなさに続き、螺旋カノンの、大王のテーマが繰り返されるごとに一音ずつ調性が上がって行く不思議さ。もうひとつのバベルの塔(…これはけっして崩れ落ちることがない)か、と、まなうらに一つの構築物が形づくられて行く。
 「音楽の捧げ物」は現代性、というか同時代性・先進性をいつも感じさせるバッハの中でも、ことにそれを強く感じさせるものの一つだが、この、「え?」と言いたくなるような変わった大王のテーマが今日のように自然に演奏されるのは初めて聴いたように思う。

 ハ短調のソナタの、特に3楽章では、曲の構成自体の面白さに加えて演奏者の緊迫感と一体感が、舞台の上に別世界を作り出したようで、あたかも彼らが内部から照り輝く淡い黄金の光で包まれるかのようにすら感じるのであった。

 今日は最初から楽器(Vn)が割合に鳴っており、初めの方から彼の美しい音色を楽しむことが出来た。
 しかし曲目(バッハであること)のせいか、弾き方が以前とはやや違い、慈しむような音の作り方ばかりでなく、とくにフォルテの場合、むしろラフな音の出し方が多用されていた。
 ソナタにはいってその印象は一層強まり、演奏はさらに自在さを増して、あたかもジャズのインプロビゼーションを見聞きしているような感覚にとらわれる。もはやバロック奏法であるかモダンであるか、を意識させないような自在さなのである。そういう技術的な次元をヒロさんは越えようとしていると感じた。彼は永遠の少年だが、とどまっているのではなくて常に成長し続けている。それでいながらはやり少年であり続けている!ヒロさんはどこまで行ってしまうのだろう!

 前述の太いラフな音の多用(ヒロさんにしては)も、彼のエモーションのごく率直な現れだ。彼の演奏はいつも人並みはずれて生き生きしているとは言え、このような生にちかい感情の現れは今までに余り経験したことがない。バッハという作品/素材を得てはじめて、こうした演奏に至ったのだと感じる。同時に、彼の生の資質は、彼の中のいわばロマン性をもよく感じさせ、彼が過去ではなくこの現代に生きる一人の音楽家であることをも印象づける。

 トラヴェルソは終始ヒロさんにリードされカバーされている感があったので、力不足あるいは資質の違いの印象が否めない。フレーズあるいは小節の終わりが合わない(だから流れが幾分止まりがちになる)ことにややもどかしさを感じた。
 しかしハ短調のソナタの終楽章などは特にトラヴェルソとヴァイオリンの掛け合いに丁々発止とも言える緊張がみなぎり、特筆すべきものがあった。
 ヒロさんはこうして、共演者の資質を、とても良い形で引き出すことにおいても才能がある。一種の伝染力と言ってもよいかも知れない。数少ない経験ではあるが、共演者の演奏が積極的に良くなかったという例を見たことがない。

 ヒロさんの資質が素直に現れるのはやはりdurの曲で、だから休憩後のト長調のソナタは何と理屈を付けようと彼の音楽の愉しさが遺憾なく伝わってくるごきげんな演奏になっていた。いつも彼の演奏を聴くとおちいってしまう一種のトランス状態に、今日もなってしまった。

 トリオソナタはうつくしかったー!!!普通「音楽の捧げもの」は、そこはかとない不安感や一種の虚無感を底流に感じさせることが多いのだが、今日の演奏で感じたのは、充足感…。第2曲のallegroは、私自身好きな曲であるせいもあって、思わず足が踊り出すのを覚えた。

 アンコールの第一曲のブランデンの5番の2楽章は、喜ばしさに溢れた、すっきりした仕上がりになっていた。仰々しい賛歌でなく、たとえば生の喜びをくちばしからもらす森の小鳥たちのさえずりのように、等身大ではあるが決して卑小ではない、新鮮な歌が感じられた。
 拍手と歓声による続く2曲目のアンコール、BWV1038のソナタは、リラックスした気分で弾かれたためか、またテンパラメントが彼の資質とよく合っていたためか、おそらくその両方の理由で、ヒロさんらしさが遺憾なく発揮された非常に楽しめる演奏になっていた。

 全体の印象として、やはりトラヴェルソが、ヒロさんに対しては沈みがち。チェンバロは、比較的音の数が少な目な印象で、構築性が優先されているように感じられたが、かつ積極性があって好感が持てた。安定した美しい音色はヴァイオリンと良くマッチしていたが、良く響くだけに、ヒロさんの持ち味の一つの美しく繊細なピアニシモ以下がやや隠れてしまったことは否めない(わがまま)。凝りすぎない装飾が好ましかったが、もう少し派手な方が(音符が多い方が)私は好きなような気もする。でもバッハだからこれくらいでちょうどなのかも知れない。

 それにしても、こーんなに見事に生きている「音楽の捧げもの」は初めて!これは生鮮品です。

 ヒロさん、また早く来て!!!!たくさん演奏会をして!

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16 デンオン J・クラシック・フェスティバル・コンサート

000304  紀尾井ホール

幸田聡子(Vn)*
村松健(Pf)
高木綾子(Fl)*
加羽沢美濃(Pf)、高嶋ちさ子(Vn)

中野振一郎(Cem)
古川展生(Cello)*
塩田美奈子(Sp)#

伴奏: * 藤満健
     # 榊原大 

司会: 加羽沢美濃、高嶋ちさ子


 入場券をお譲りいただいて行ってきた日本コロムビアの若手演奏家のプロモーション演奏会(だと思う)。ちょっとタカをくくって行ったら、開場数分後だったのにも関わらずすでに整理券兼座席券(座席指定がされている)は残り数枚で滑り込みセーフ。ちなみに席は2階正面の最後列という有り難い席だった。

 前半4人(組)は3曲ずつ、後半は2曲ずつそれぞれ演奏を披露した。このうち今までに多少なりとも聴いたことのあるのは加羽沢、中野、塩田で、それも生では中野のみ。

 幸田聡子は「いい日旅立ち」「ロンドンデリーの歌」「お祭りマンボ」で、特に印象ナシ。ただメロディーをなぞるばかりの編曲も面白くなかったし、だいたい美空ひばりはすきではないのでパス。

 村松健は、CD、コンサートなど数多いらしく、CM曲なども書いているとのことで、自作自演であるが、これも特にめざましいものは感じなかった。

 高木綾子のフルートは「愛の悲しみ」「春よ、来い」「ブエノスアイレスの冬」。芸大4年で、遠目に見ても綺麗な方。お嬢さん芸かと思ったが、低音域が特に個性のある音色で、艶や美しさはまだまだだが、しなやかで思わぬ魅力のある演奏だった。

 加羽沢&高嶋は、加羽沢の作曲・編曲によるもので、加羽沢の流れるようなピアノ(曲も演奏も)と高嶋のくっきりしたVnがみずみずしく、なかなか好感が持てた。伸びやかな加羽沢は先ほどの村松健に比べたらずっと才能があるのではないか?

 後半の最初は、「コロムビアが世界に誇る」という紹介つきの中野振一郎である。以前よりだいぶ太めになられたような気が…。
 クープラン「パッサカリア」では、散漫な休憩前から一転してようやく演奏会らしい雰囲気が醸し出されて会場も集中したように思える。非常に良い意味での自信を持って弾いているのが感じられ、以前の印象から比べると、すっかり自分のスタイルを確立しているのが伝わってきた。何よりも歓びを持った演奏であることが最大の強み。
 聴いていてすっかり引き込まれてしまった演奏というものは、スポットライトの当たった演奏者の部分だけがくっきりと回りから浮き出したように思い起こされるものだが、この1曲だけですっかりそのような気分にさせられた。あいだのトークではおなじみの関西弁で会場の笑いを誘って司会から「吉本…」と言われたりしていたが、このキャラクターにしてこの演奏、と言うのも、彼の懐の深さかもしれない。
 2曲目の「メリー・ウィドウ・ワルツ」はいかにもメリーな雰囲気にあふれておりこれも聞き物であった。
 楽器は良く響いていたと思うが、座席のせいか音の分離があまりよくなく粒立ちが甘い。

 チェロの古川展生の演奏ぶりは、一見して林峰男。プロフィールを見ると確かに林峰男にも師事しており、楽器の構え方、足の置き方、左手の格好、首の曲げ方など、林さんファンなら笑ってしまうくらい「林ジュニア」で、林さんが暴れているみたいな楽しい演奏を聴かせてくれた。テクニックはかなりおありのよう(ポッパー「ハンガリー狂詩曲」)だが、ヨーヨー・マの名前を引き合いに出されたあとはつい意識したか、楽器がならなくなってしまい、ピアノ(なかなかお上手)に負けたのがご愛敬(ピアソラ「リベル・タンゴ」)。

 塩田美奈子のプロフィールには「カルメン」のタイトルロール、「椿姫」のヴィオレッタなどと書いてあるが、実際それらはどうなのだろう?
 イダルゴ「ある古い歌の伝説」を歌うにあたって「もともとマイクの効果を前提とした曲をマイクなしで歌うのは難しい」と言っておられた。素人の印象ではあるが、先に歌った美空ひばりの曲と比べて音の変わり目、レガートのかけ方などの歌い方が大して変わっているようには聞こえなかったし、ハイトーンで盛り上げようとした割には迫ってくるものは少なく、「わあ、高い声〜」という感興にとどまった。せっかくタンバリンを打ちならしつつ歌ったのではあったが、速いテンポでしかも後うちであったためか、終始ハラハラさせられた。歌にもそれが現れたようで、むしろ逆効果だったのではないか。
 この伴奏の榊原大というひとは風体も弾き方もやや異色だと思っていたらG−クレフのメンバーだったそうな。

 などなどあれこれ言われるための演奏会ではなかったのかも知れないが…。しかし思ったよりずっと面白い演奏会であったのは確かである。
 それにしても若い方々、レコーディングに、テレビに、写真のモデルにと、ちょっと働き過ぎなのではないでショッカー。せっかく才能がおありなのだからもっと中味の充実を図ったらよろしいのでは、と老婆心ながら思うのであった。

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15 ロンドンバロック

991201  カザルスホール

〜Back to Bach〜

B・マリーニ 3つのヴァイオリンのためのエコーによるソナタ
        4声のパッサカリア

G・ガブリエーリ 3つのヴァイオリンのためのソナタ

H・パーセル パヴァーヌ 変ロ長調
         シャコンヌ ト短調

J・パッヘルベル 3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調

A・ヴィヴァルディ 弦楽のための協奏曲 ハ長調

   <休憩>

A・ヴィヴァルディ 聖墓に寄せるシンフォニア ロ短調
           聖墓に寄せるソナタ 変ホ長調

J・S・バッハ チェンバロ協奏曲 第1番 ニ長調


 

 ひさしぶりのロンドンバロック、今回はVn3人(ひとりはVla持ち替え)とVc、Cemの5人の編成である。基本的にチェロのチャールズ・メドラム、1stVnのイングリッド・ザイフェルト、2ndVnのリチャード・クヴィルトがレギュラーメンバーで、曲目により随時チェンバロほかの流動的なメンバーと組んで演奏活動を行っている。今年の来日のチェンバリストは額の秀でたテレンス・チャールストン、もうひとりのヴァイオリニストは小柄で若そうなジーン・パターソンである。いつもの和気藹々、見るからに楽しくてたまらないという雰囲気は相変わらずである。客の入りもまあまあで、わりあい外人の姿が目立つ。

 プログラムは前半が17世紀の作曲家のものから始まってヴィヴァルディまで、そして休憩後はヴィヴァルディとバッハのやや大きな曲で構成されている。

 マリーニは、いかにも古い旋法の響きを残した、どこか素朴さを感じさせる曲。ロンドンバロックの美質の一つは、ごく繊細なpianoの響きであるが、最初のこの曲からそれは聴くものの胸をむんずと掴むのであった。
 舞台にはザイフェルト、メドラム、チャールストンの3人しか出てこないが、オルガンの裏の方に人影あり?と思っているうちに、曲の途中でVn(ザイフェルト)のメロディのこだまが返って来るではないか、それはそっと現れたかと思うと見る間に自信をもち、はっきりとザイフェルトの旋律を返してくる。オルガンの裏の、観客から見えないところにクヴィルトとパターソンが控えていて、題名通りにこだま(エコー)を返す、楽しくも美しい趣向の曲なのである。

 ガブリエーリでは3本のVnの掛け合いが美しく、高い音域に偏ったハーモニーは、ヴィオラ・ダ・モーレの響きを思い出す。ロンドンバロックの前々回までの日本公演でVnのトップを務めていたヒロ様(ヒロ・クロサキ)は、最近レ・ザール・フロリサンの仲間と4本のVnによるゴキゲンなCDを出したが、時期的にこれと呼応する選曲のようにも感じられた(贔屓目〜)。クヴィルトさんは前回の来日と楽器が違うのかな?記憶よりも明るい音色のように思えた。

 パーセルの二つの作品は、前二つに比べればぐっと手の込んだものであるが、聞いていての印象は華麗ながらもやはり簡素である。2本のヴァイオリンのからみがほれぼれするよう。ことにシャコンヌの方は美しさが際だっている。湧き上がる音の泉、醸し出される独特の雰囲気、構築的すぎず暖かく織りなされる音の綾は、ロンドンバロックならではのもの。

 パッヘルベルはごく有名な曲である。非常にリラックスした様子で幾分無造作とも言えるような具合に始まった耳馴染みのあるメロディは、そこそこ速めのテンポである。普段耳にし、また自分でも何度か弾いたことのある譜面とはやや違ったアレンジがされているようだ。後半にテンポの速いジーグがついているが、カノンでやや間延びした感じに終わるのと異なり、ピシッと締まって終わるのが耳に新しく、好ましかった。

 2曲のヴィヴァルディと最後のバッハのチェンバロ協奏曲へと曲目が移るに連れ、次第に曲自体の構成は堅固さを増し、今日のプログラムの始めのマリーニから100年間の音楽の変遷を感じさせた。演奏に無用なりきみが入らない分前半の方が耳に心地よく感じられたが、この暖かく生き生きとしたグループの体質がちょうど曲とマッチしていたのかも知れない。アンコールのモーツァルトも良かったがやはり前半がグッド。

 バッハのチェンバロ協奏曲は有名な第1番であるが、楽器(ケネディ作)はこの曲向きなのだろうか?チャールストンは細長い指で楽々と楽しげに弾くので視覚的にも愉しい。が、pianoで弾かれる弦の合いの手にどうしても音が隠れがちで、オケと対等に張り合う現代のピアノ協奏曲ではあるまいしとは思うものの、もう少しチェンバロの音が粒だって聞こえればよいのに、と思うのは単なる勉強不足かないものねだりか。

 ひとつ今日の演奏会で惜しい点は、いつもより念入りにチューニングをしているように見えたにもかかわらず、全体にチューニングが甘めだったことである。この日は相当湿度が低い日ではあったが、そういう外的要因のせいならばお気の毒である。
 また会場は前回は紀尾井ホールであったものが今回カザルスホールに戻り、私としては音がやたらに天井に抜けていってしまうばかりの紀尾井ホールに比べ、こちらのホールの方が程良く各楽器の音がミックスされて好ましく思える。
 それにしても東京でたった一度でなく、せめて2度はコンサートを開いて欲しかった。けち。

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14 仲道郁代の音楽学校1999

990901  カザルスホール

<1時限>ある喫茶店にて


<2時限>演奏会

J・S・バッハ: パルティータ第1番 BWV825

メンデルスゾーン:無言歌 ニ長調 作品109

フォーレ:悲歌(エレジー) 作品24 

フランク:チェロとピアノのためのソナタ イ長調 
      (原曲:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ イ長調)

仲道郁代:ピアノ
林峰男:チェロ


 昨年に続き私にとっては2回目の音楽学校である。

 今回はとある喫茶店にて。ドアを開けて喫茶店に入ってきた仲道さんに、ウェイターがコーヒーの注文を訊く、と言う趣向で始まる。
 「どんな注文でもお聞きしますよ、コロンビアでもマンデリンでも、もちろんブルーマウンテンでも。おすすめは当店自慢の細心に焙煎したブレンドです」
 ところがピアノの前に座った仲道さんは、どうも逆に注文を付けているみたい。「こんな風な演奏はいかが?じゃあ、これはどう?」ウェイターが目を丸くしているところに、チェロを片手に林さんが颯爽と入ってくる。そして、デュオの断片を聴かせる。さまざまな温度、いろいろな感情、異なった解釈…。聴き方も、弾き方も、いかようにも!

 実は演奏会が始まる前に入った神保町の壱眞(かずま)珈琲店で、私にしてはほんとうに珍しく、コーヒーを飲んできたところだったのである。数日前の徹夜の後遺症で、危うく神保町の駅で半分寝てしまい降り損ないそうになったためだ。ペーパーフィルターで丁寧に淹れたコーヒーは、どうもコ−ヒーが得意でない私も、一口飲んで「おいしい!」と言ったくらい。その苦みが舌にまだ心地よく残っている所に、コーヒーの味に絡めての演出は、偶然とは言えぴったりの出会いもの。

 断片だけでは気持ちの納まらない聴き手、弾き手。いよいよ後半は衣装も替えての演奏会形式である。

 バッハは、最近古楽器での演奏にすっかりなじんでしまったため、どうもピアノによる現代風の演奏は頂けない。この私の好みの偏りを差し引くと、「バッハの作品のピアノによる演奏」は、それなりになかなかなものではあったと言えるだろう。彼女の特色のひとつは、その集中力と、表現の多彩さだと思う。バッハの曲の舞曲としての側面と、音楽そのものとしての側面を、二つながらに大きな振幅で聴かせた。

 メンデルスゾーン以下はすべて林峰男さんとのデュオである。
 メンデルスゾーンでは、ピアノはチェロの伴奏としての役割を果たしている。いわゆる伴奏らしい音型に支えられたチェロは歌謡性にあふれた旋律で、その音色は峰男さんらしい飾り気のない詩人のような率直さである。
 仲道さんはメンデルスゾーンがよく肌にあっているようで、短めのこの曲も先ほどのコーヒーのようにこくのある充実した演奏に仕上がっていた。

 フォーレはおなじみの曲であるが、息のあったこのふたりが演奏するエレジーはまたひとしおの感動がある。

 最後のフランクは、元々ヴァイオリンとピアノのために書かれた曲であるため、チェロによる演奏では音域に今ひとつの広がりがなく、ヴァイオリンで表現されるべきフランクのソナタのある種の軽さと鋭さがどうしても表れない。これは演奏のせいと言うより楽器の性格によるものであるだけに余計もどかしさを禁じ得なかった。
 デュオの中でも先ほどまでの2曲に比べてピアノの役割が一層増して、ピアノとチェロがまったく対等に丁々発止とぶつかり合い、あるいは絡み合う曲、しかも曲想、感情が多彩だと言うことで選曲されたのだと思う。このふたりには確かによくあっている曲で、それぞれの資質が良く現れた、実に濃密な演奏になっていた。かなりな名演ではなかろうか。

 アンコールにはフォーレの名曲「夢のあとに」、これは峰男さんの美しいピアニシモ満載の演奏。彼の演奏はじっとりしていないところが魅力。最後は「カザルスホールにはこの曲」と言う前置きで、「鳥の歌」である。昨年のカザルス忌記念連続チェロ演奏会の最終日の、やはりアンコールで同じ曲を弾いた峰男さんであるが、今日のはまたバージョンが違うようだ。そのとき、ピアノが仲道さんだったら、と思ったものだが今日は図らずもそれが実現したわけである。この曲はほんとうに美しい曲で、大体誰が弾いても万感の思いという感じになってしまうのだが、う〜ん、これはよかった。峰男さんのいくぶんドライな叙情と、仲道さんの適度な湿度を持った繊細でしかも包容力のある演奏が相乗効果をもたらしている。このふたり、ほんとうにいいコンビ!

 

 バブルの崩壊の影響は未だに尾を引き、カザルスホールもこれからはもっぱら貸しホールに姿を変え、この演奏会のような自主公演も来年からは見られなくなると言う状況にある。
 アンコールの際にも仲道さんから、「この音楽学校は来年もまたやりますが、ここではなく、他の場所で」という精一杯の抵抗を込めたコメントが聞かれたのであった。主婦の友社のトップが結局は自らが育んできた「文化」を、このくらいのものにしか考えていなかったのだと言うことを身にしみて感じされられ、鳥の歌はその葬送の曲と思われ、2年前にせっかく出来たオルガンさえも廃墟のように空しく見えさえするのであった。

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13 アムステルダム・ルッキ・スターダスト・クワルテット

990701  カザルスホール

Fugue around the Clock 
      フーガの歴史−その発祥から開花を辿る

作者不詳(14世紀スペイン) おお、輝きの聖母よ

●パレストリーナ 第2旋法のリチェルカーレ

●フレスコバルディ バッサ・フィアメンガによるカプリッチョ

●シャイト 「傷つき、みじめな私」によるファンタジア

●パッヘルベル カノン

●ヴィヴァルディ/J・S・バッハ(D・ブリュッヘン編)協奏曲 ニ短調 op.3-11、BWV596 


●カルディーニ フェイド・コントロール(日本初演

J・S・バッハ フーガ ト短調 BWV542

J・S・バッハ 「フーガの技法」BWV1080より

コントラプンクトゥス第7「拡大と縮小による」(4声)
コントラプンクトゥス第9「12度の」(4声)
3つの主題によるフーガ


 とまあ、盛りだくさんなプロである。休憩後のカルディーニのみが現代曲であった。
 以前からFMなどで、驚異的なすばらしさに耳を奪わることが再三だったで、この機会に実物を聞いてみんとしたのである。

 リコーダーにもソプラノ、アルト、テナー、バス、ほかに、大バス、ソプラニーノ、等々、さまざまな音域のものがあるのは知っていたが、その区別がよくわからないくらい、アナログ的にさまざまな大きさ、色、形のものが舞台に何十本も並んでいる。これらを各メンバーがほとんど1曲ごとに取り替えつつ、しかも誰がどの音域という固定化もあまりなく自由自在に吹きこなしてプログラムは進んで行くのであった。

 低音域の楽器のみ用いた第一曲から始まり、最初はまあリコーダーらしいひなびた雰囲気の曲で耳慣らし。前半はことに比較的低めの音域のものを多用している。響きは厚く深く、とても4人だけのアンサンブルとは思えないようだ。

 パッヘルベルのカノンのような聞き慣れた曲も、リコーダー・アンサンブルという、ありそうで意外に耳にすることのない音色により耳新しく思える。一昔前のリコーダー演奏というと、延ばした音の最後が必ず「ひゅぅ」と音程が下がるのが常で興ざめだったが、そのような耳障りさと素人臭さはない。

 F・ブリュッヘンの甥だというD・ブリュッヘンをリーダーとして組まれたこのアンサンブルの演奏は、ちょっとカリスマ性を感じさせるようなブリュッヘンの、やや強引と言えなくもないリード(やや独特な歌い回し、フレーズの作り方、間の取り方、ルバートなど)で進められる感じ。しかし、各メンバーはそれぞれに目が覚めるような指の回り方のほかに、確固たる個性があって、楽器を持ち替えるごとにそれが交互に見え隠れする。いや、新たに見えることはあっても、隠れると言うことはない。この個性がうまく互いを支え合っているのが、「アンサンブル」の面目躍如である。

 ヴィヴァルディの3−11は先日エウロパ・ガランテでも聴いたばかりであるが、これが同じ曲か、と言うくらいまったく別の曲になっていたのは、1曲で2度楽しめる、お得な体験。しかしこれほど演奏が違っていてもヴィヴァルディの彩なす響きは同質のもので、音楽の底流のようなものを感じるのであった。

 中で1曲に本初演というふれこみの現代曲・カルディーニは、先ほど舞台においてある間から聴衆の目を集めていた、箱形の大小のリコーダー(?)3本と普通のリコーダーを用いて演奏された。この不思議な楽器は、大小の長い直方体を積み重ねたような形をしており、細い方を床に突き立てるようにして演奏される。ちょうど一番大きな直方体の部分が顔の前に来るような具合になるので、正面から見ると演奏者の顔が見えなくなり、その形と相俟ってあたかも怪しい木製機関銃か?と言った印象である。音もバスリコーダーのような感じの音のほかに、何やら内部でかたかた言う音がするようである。これはいったい、なんなんだろう!
 音楽自体は、ミニマル・ミュージックの様な雰囲気で、4本のリコーダーのやや複雑なリズムが互いの空白部分を補い合う形になった、なかなか楽しめるものであった(じつはどうもわたしはこのミニマル・ミュージックなるものが好きなようなのである。NHKFMの「現代の音楽」のテーマ曲にこの手の曲がよく使われるのだが、これがイイのだ。変かな?)。

 後半のバッハはどれも愉しく、しっかりした横の流れのほかにリコーダー特有のステップを踏むような浮き立つリズムに私の足もステップを踏み始めるのであった。

 アンコール3曲のうち、14世紀スペインの作者不詳の曲では、こういう市井の曲がメインになったプロが聴きたかったと言う思いを強くした。
 また、一番最後のディック・クーマンス「ジョギングする人」は、別プロ(東京ではやらない)の中の1曲で、尺八に似た息の吹き込み方をするテクニックが使用されており、伝統的な曲の響きの中にジャズのスパイスが利いた、楽しい現代曲であった。最近は現代曲もみんな面白いよ〜!(単にこちらの耳が慣れただけか?)

 とにかく、文句なしにうまい!驚異的な肺活量でロングトーンと見事なクレセンド、それに思わぬダイナミクスの幅を聴かせてくれた(でも、もっと現代曲と古い曲をやれー!バッハが多すぎです)。
 聴衆はとても多くて、ほとんど満席。リコーダー人口が多いのか、ルッキの知名度がすごく高いのか?

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12 タリス・スコラーズ

990629  紀尾井ホール

イギリスの音楽

ウィリアム・バード この日こそ
             5声のミサ曲


●ジョン・タヴァナー いと聖なるキリストのみ母
             慕いこがるるごとく
             われは天の声を聞きぬ

●ロバート・ホワイト わが哀願が近づかんことを

●ジョン・シェッパード 主よ、御身が手に
              喜びたまえ、キリストのみ母なる乙女


 タリス・スコラーズは女性、男性それぞれ5人からなる、16世紀頃の宗教曲を得意とするグループで、ソプラノ2パート、アルト(男声1,女声1)、テナー、バスの5部が基本である。このソプラノのもっとも高い部分を受け持つふたりが、天使の歌声!少年合唱団の、ガビーン!と脳天を直撃するようなハイトーン、ああいう声である。

 曲としてはバードの5声のミサ曲(全曲)が美しかった。
 全体に良く溶けあった、透明感が高くそれでいて響きの柔らかなハーモニーが印象的である。各人の声の特色というものはそれほどは感じないのだが、ソプラノのハイトーンを受け持つデボラ・ロバーツが、小柄な体ながら驚くほどの声量と声ののびを持っていて、これはいやでも目が(耳が)いってしまう。プログラムが進むに連れ、どんどん声が出てきて、こういう声で讃えられたらさぞかし天の住人も嬉かろと思うほどである。

 会場は雨ながら歌関係の人たちの動員力を示すかのようにほぼ満席で、合唱をするらしい年配の女性の姿が多かった。実際、終演後ホール脇の道路には、「○○女声合唱団」と関西の地名のついたバスが待機しているのが見られたくらいである。ああでもそのくらいファンがいそうな、気持ちの良い、昂揚する演奏会であった。

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11 ファビオ・ビオンディ/エウロパ・ガランテ

990624  紀尾井ホール

ヴィヴァルディ ― アリアの饗宴と調和の霊感

合奏協奏曲集「調和の霊感」作品3より 

  第2番 ト短調
  第8番 イ短調
  第11番 ニ短調

 これらに挟まり、アリアとデュエット7曲

 クラロン・マクファーデン(ソプラノ)
 デレク・リー・レイギン(カウンターテナー)


 最初から小気味よい演奏がいきなり始まる。かなりこまめにチューニングをするグループであったが、すでに開演時間前にステージでビオンディらがチューニングの最中であった。小雨模様であったのでやや心配であったが、予想外にかなり早いうちに楽器が鳴り始めたので良かった。

 1曲目からいきなりのノリの良さは彼らの魅力。すぐに彼らの上を楽しそうなほほえみが走る。耳なじみのある曲であるにもかかわらず、はっとする新しさに耳がかっさらわれてしまう。けれども奇をてらったような按配にならないのがビオンディの才能なのであろうか。

 白眉は中でも有名な、作品3−8である。これはあれと同じ曲か!
 ビオンディと相方カッサーザの楽器の音色の違いが非常に効果的で美しかった。ヴィヴァルディの、精緻でしかも強靱なレースの編み目のような各パートのからみが、生気に満ちたテンポ設定で繰り広げられて行く。この有機的な織物のような一体感が彼らの演奏を破綻から救っている大きな要素だ。
 3楽章のセカンドヴァイオリンが、例の、美しくやや哀愁を帯びた長いパッセージをひくところ、いくぶんいぶしのかかった音色の2ndがこの部分にぴったりである。それに絡まる明るく甘い音色のビオンディが音量を控えめに要所要所を引き締めつつ輝きを与えている。何遍も聴いたメロディながら、この新鮮さには本当に美しくて涙が出そう。ツボ。

 一応指揮をかねるビオンディであるが、大概の曲でわずかな前ぶりでさっと乗ってしまうメンバーはさすがである!このグループの身上は独特のテンポ感と、イタリア系のグループに良くある、急速なダイナミクスの変化だ。
 それに伴う技術もいうまでもないが、良くありがちな、指の回るのに任せて目の覚めるようなダイナミクスでひきまくって聴衆は呆気にとられる、と言うのとは違う。
 もっと暖かく血が通っている。都会的なかっこよさでなく、言ってみれば素人くさいダサさ、音楽する喜びが色濃く残っているのだ。

 曲の始まるときの緊張、しかしそれはピンと張りつめきった、冷たいものではない。なにかをたくらんでいるいたずらっ子たちがこれから悪さを始めようとする、そんな緊張感。
 演奏中も舞台のそこここではメンバーたちが互いに目を見合わせてはにっこり笑い交わしている。要所要所では皆が一心にビオンディを見つめているが、楽しい内緒の取り決めをいま果たそうとする悪ガキ連のような目の輝きだ。
 ソロパートを弾きながらトゥッティになると聴衆にまるっきりお尻を向けて引き続けるビオンディはかわいい

 作品3−11の最初はごく無造作にふたりのVnのソロが始まった。いったいこのテンポはな、何?と思っている間に、アッチェレして聞き慣れたテンポに突っ込んで行く。
 うう、まるで違う曲。でも奇をてらったものとは感じられない。

 これらの文脈で聴いていると、最後に演奏された「シ−クレット・アンコール」、すなわち「四季」からの3楽章、これは実に嵐のようなぶっ飛ばす演奏であったが、こういう演奏が出てくる必然性が分かった気がする。
 この曲ではいきなりすごいテンポと迫力から始まり、ビオンディのはっしと足を広げたポーズでの演奏、ホフヌングよろしく思い切り外した和音、またまためいっぱいのポーズ、と、わたしは始まった瞬間にぶっと吹きだしそうになったのだが、誰ひとりとして笑う人がいなかったので、お腹を抱えて声なき声で必死に笑いをこらえていたのであった。 

 どの曲も知ってるけれど違う曲になってとてもエキサイティングな、涙が出ちゃう様な楽しい演奏であった。ヴィオラのでこぼこコンビが、明るい確かな音で形づくる中声部が全体をびしっと締めていたのが特記事項である。

 これらの間にソプラノとカウンターテナーが挟まった。ふたりともくぐもった柔らかい声で、心地よい声質ではあるがここまで通ってこない。席のせいかとも思ったのだがどうもそうではないようだ。
 しかしふたりとも楽しげに歌っている様は先日のプ氏とは異なっており、雰囲気はほのぼのとしていた。楽譜をひしと持っていたのは、何?(チェンバロ氏は終始暗譜で演奏したじょ)
 前回のソプラノ、メゾソプラノの時のような迫力と豪華さにはまったく欠けていたが、余り長い歌ではなく、どれも軽く終わってしまったので『調和の霊感』の中休みには適当かも。
 ソプラノのお姉さんは、頭がとても小さく、肌の色と合わせて「人のいいアビシニア猫」といった感じ。カウンターテナーの彼氏は不思議な声の持ち主であったが、もっと高い声の方が彼の特徴が出るのだろうか?ふたりとも声の響きは深いものを持っているように思えたが、何せちっとも声が通らないのでよくわからなかった。

 曲ごとに楽しげに入場してくるメンバーはみんなとっても背が小さい。大きいのは、チェンバロの人とヴィオラの人のみ。
 チェロのトップは絶対足が山羊足でしっぽを腕にかけているに違いない(フォーンのタムナスさんね)。目の覚めるようなソロをそこここで聴かせた。
 ビオンディは美術室にあるアグリッパの胸像によく似ているし、BBC交響楽団のアンドルー・デイヴィスにもよく似ている。
 チェンバロの彼はとても長身で、真後ろを向いてひいていたのでわかりにくいかも知れないが、実はひいている間中、嬉しくてたまらずニコニコニコニコしていたのであった。この人がまるでイカを連想させるような具合、首を振り降り、体を左右に傾け、長い手足を折り曲げ、鍵盤にはわせて。
 ところで、このチェンバロは、真ん真ん中にあって(当然)ふたは取り払ってあったのだが、音がたってこない感じで、時によりいまいち存在感に欠けるきらいがあった。この配置、およびチェンバロの形式と特徴についてはこれが最善なのかどうか、悲しいかな、浅学にしてわからないのだが、ちょっと疑問が残った。すごーく無上の喜びと言った風情でイカ氏が演奏していたので一層気になるのであった。

 ビオンディくん、また来てね〜。東京でたった1回の演奏会なんて、けちー。(でも予想より入りが良くなかったのはなぜ?)

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10 ベルリン古楽アカデミー

990610  紀尾井ホール

●C.P.E.バッハ 

カンタータ 「春」 Wq237

フルート、弦楽と通奏低音のための協奏曲ト長調 Wq34

●J.S.バッハ

教会カンタータ第21番「わが心には患い多かりき」BWV21より

シンフォニア
レチタティーヴォ:私の神よ、私が苦悩し
アリア:塩辛い涙の川は



●J.S.バッハ

教会カンタータ第55番「われ哀れなる人、われ罪の下僕」BWV55

オーボエとヴァイオリンのための協奏曲 ハ短調BWV1060

「ロ短調ミサ曲」BWV232より

アリア:祝福あれ

「クリスマス・オラトリオ」BWV248より

アリア:私はあなたを崇めるためにのみ生きます

演奏:ベルリン古楽アカデミー、クリストフ・プレガルディエン(テノール)


 2週間も感想をメモするのをさぼったので、すっかり印象も薄れてしまった。全体に地味めのプロで、メリハリに欠ける構成であった。

 その中ではオーボエとヴァイオリンのコンチェルトがなかなか愛らしく生気に富んでいるように思われた。オーボエのブリュッゲマンが力演。ヴァイオリンを弾いたのは、ミドリ・ザイラーで、先刻からファーストバイオリンの2番手で演奏する姿が目をひいていた、日系の若い女性である。彼女はピアノ連弾のザイラー夫妻の娘さんである。日本公演を記念してのサービスであろうか。
 2台のチェンバロのための協奏曲として演奏されることが多いが、この組み合わせにすると色彩感が出てまた違った味わい。横の流れが強調される分、こちらの方が好みかも知れない。ザイラー嬢は良く弾くしなかなかの熱演であるが、まだまだきちんと弾いている域を出ていないようなので、バロック弾きに精進して即興の感覚を身につけてくれれば相当いいところに行くのではないだろうか。
 先だってのハープ・コンソートのヒレ・パールと言い、きょうのザイラー嬢と言い、腕と見た目が揃えば観客としては二重の楽しみ。
 しかし、ソリストたちは半円に並んだメンバーの、そのくぼみの中に入って演奏したせいか、ソリストの音が今ひとつ表に聞こえてこず、もどかしい思いであった。また、この曲ばかりでなく全体にダイナミクスの幅が小さくかつピアノ部分の音量が大きいので、余計ソリストが際だたず気の毒だった。

 さて、テノールのプレガルディエン氏であるが、正統的なきれいな声で歌う。し・か・し。
 このおじさん、どうも、素敵な曲をもっともらしく歌ってつまらないものにしてしまうと言う、特異な才能をお持ちのようなのである。今日の曲はどれも多かれ少なかれ地味な感じの曲なのであるが、それをさらにずし〜んとゆううつな冴えない曲にと加工して聴かせてくれるので、よけいザイラー嬢の若さが目立つのであった。合奏パートもそのせいか面白味にはやや欠ける演奏に終始した。

 うーん、FMで聴いたときはこのグループはもっと楽しそうだったんだけどなあ!

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9 ヴィオラスペース1999

990528  カザルスホール

●ヴィヴァルディ:ヴィオラ・ダモーレ協奏曲 イ長調P.233,RV.396

 今井信子(ヴィオラ・ダモーレ) 野平一郎(チェンバロ) 原田幸一郎(指揮) 桐朋学園オーケストラ

●J.S.バッハ:ヴィオラ・ダ・ガンバ ソナタ 第1番 ト長調 BWV1027

 岡田伸夫(ヴィオラ) ヴォルフガング・ツェーラー(オルガン) 

●ヴィヴァルディ:ヴィオラ・ダモーレ協奏曲 イ短調P.37,RV.397

 今井信子(ヴィオラ・ダモーレ) 野平一郎(チェンバロ) 原田幸一郎(指揮) 桐朋学園オーケストラ


●レベッカ・クラーク:ヴィオラソナタ

 川崎雅夫(ヴィオラ) 野平一郎(ピアノ) 

●スピサク:協奏的二重奏曲

 菅沼準二(ヴィオラ) 岡崎耕治(ファゴット) 

●マルティヌー:ラプソディー・コンチェルト H.337

 店村眞積(ヴィオラ) 原田幸一郎(指揮) 桐朋学園オーケストラ


 毎年行われているカザルスホール主催コンサートのひとつ「ヴィオラ・スペース」は、こんな風なプログラム。前半はバロック、後半は近現代。

 オケは桐朋の学生からオーディションで選ばれたとあり、彼らは授業の一貫としてこの演奏会の準備をしてきたのだそうだ。
 今日のヴィヴァルディ、および29日のプロ中のハイドンは、バロック・ボウを用いて演奏される。でもコンバスは5弦だったりして…。

 今回の聞き所は、もちろん今井さんのヴィオラ・ダモーレである。この比較的珍しい楽器はどういう訳か我が家にも一台あるが、何年も冬眠状態を余儀なくされている気の毒な深窓の令嬢なのである。

 ダモーレは、ヴィオラという名が付いており音域もヴァイオリンとヴィオラの双方をカバーするが、実際にその音を聞いてみるとむしろヴィオラと言うよりヴァイオリンの感じである。繊細な響きでで音量もあまりなく、しかしこぼれるような和音とそれを彩る共鳴弦の玄妙な響きがむしろ華やかな楽器だ。

 明るく華やかな曲想のイ長調協奏曲、やたらに技巧の勝ったイ短調協奏曲、ともに今井さん独特の自然な流れの音楽が楽しめた。彼女は今回は装飾音型などにたぶん即興的な味付けを行っていたと思われ、サイトウキネンオケなどでのバロック・ボウ使用の仕掛け人のひとりとらしい姿勢である。演奏の可能性を広げる一手段として古楽を研究しておられるのだろうと拝察する。

 し・か・し。オケがまずい。桐朋の学生さんたち、ひとり一人はとても上手なのだが、うーん、とにかく合わない。ソロと合わない。パート内でも合わない。トゥッティにはいるところが合わない、刻みが合わない。互いに聴いてない、見てない。
 そして致命的なのは音量がデカイ。ソロが入って各パート1〜2プルトに減ってもなお大き過ぎる。
 バロックの曲を持ってきてもモダンの楽器でモダンの演奏というのはあって、それはそれで良いだろうが、仮にもダモーレを持ってきてしかもバロックボウを使用しながらこの音量のでかさと演奏者同士のあわなさは困る。桐朋と言う名に期待しすぎかも?原田さん、ちゃんと客席から音量チェックなさいましたか?それにしてもこういう中途半端な形は、どうなんだろう。こう成果が上がらないと単なる思いつきの域を出ないぞ。

 と言うわけで、今井さんの演奏はチャーミングでした。難しい速いパッセージを、ほろほろ日光がこぼれ落ちるように、または口を利くたびに口から真珠がこぼれ落ちる、グリム童話の中の祝福された娘のように、一弓一弓から輝く響きをわき上がらせる様は魅力。

 

 2曲目のバッハのガンバソナタは、趣向が変わっていた。
 舞台の照明が落とされ、舞台奥・上方のオルガンの演奏台に照明が当てられて、そこにオルガン奏者とヴィオラ奏者が現れたのだ。オルガン奏者はもちろんむこう向きに座り、ヴィオラ奏者はその横で欄干越しに演奏を始めたのである。最初の危惧とは異なり、むしろ遠くまでかなりよく通る音が聞かれたと思う。オルガンについてはほとんど無知なので何と表現してよいのかわからないが、パイプオルガンにしてはごくわずかな音域、ポジティフ・オルガンのような愛らしい素朴な音に、最小限のペダルと言う印象であった。

 

 休憩後の最初はイギリスの作曲家の作品である。レベッカという名は、女性?解説には特に何も書かれていない。イギリスらしい、と言うことは日本の旋律にもどこか似ている。かつ、ドビュッシーあたりのような響きをも併せ持った作品で、私は気に入った。
 ピアノの野平さんが力の抜けたしゃれた演奏をしていたのが印象的。

 次のファゴットとの2重奏は意外な組み合わせで掛け合いも面白いと思ったのだが、いつの間にか夢の国へ行ってしまったのであった〜。

 最後のマルティヌーでは、オケも水を得た魚のように元気を取り戻し、迷いのない、すぱっとした切れ味を感じさせてくれた。原田さんは、トーキョーカルテットという日本人で構成された、しかし純然たるアメリカのカルテットのトップをひいていた方だが、先年これを抜けられ、ソロ活動、教育活動の中で指揮をなさっているようだ。この指揮が、なかなか良かった。明快な棒、指示の的確さ、テンポ感のよさなど、いかにもアメリカで長く活動した人という感じ。ソリストの店村さんは、かなり人気のあるひとと聞いているが、その明るい陽性の音色はこの曲には合っていたように感じる。

 日本人の、それもやや年齢の高い方のヴィオラ奏者は、やたらに力が入った、しかもえてしてぼうぼうとした音のヴィオラ演奏が常であったが、今年聴いて、皆さん力が抜けて、気持ちよさそうに楽しんで弾いているように思った。これはたぶん負うた子に教えられる、といったベクトルがあるのではないかと思う。もちろん、それに今井さんの存在が大きく一役かっていることは間違いない。

 カザルスホールも今年度いっぱいで主催コンサートを大幅に減らすなどの運営方針の転換があるということで、どうなって行くのか気がかりなことである。今年で8年目になったという、それなりに存在感のあるこのヴィオラ・スペースは、来年度からはどのような運命をたどるのだろうか?

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 京劇「覇王別姫 漢楚の戦い

990312  サンシャイン劇場

大連京劇団


 初めて本物を見に行った京劇。京劇は以前TVで目にしていたので一度は見たいと思っていた。軽わざのような宙返り、派手派手しい衣装、俳優が張り上げる黄色い声。何より印象的なのは、ドラや鳴り物のジャンジャンジャンジャン、ジョワワワ〜〜ンという音がひっきりなしに鳴っていること。さて、実際はいかに?

 内容は、漢の劉邦と戦っている楚の項羽が、劉邦のしかけた罠にはまってしsまい、有名な「四面楚歌」の場をへて、愛する虞美人を失い、さらに烏江のほとりで自害するまでである。

 さてさて、劉邦が配下の将軍たちといかに項羽を倒すかについて知恵を寄せ合っているところから始まる。長い付け髭の劉邦をはじめ、簡素な舞台に居並ぶ漢の将軍たちの衣装のすごいこと!軍神かとみまごうようないかつく派手な鎧姿、背中から頭上にはそれぞれ4本の旗が立っている。カッコイイ!
 舞台の右袖に、胡弓、月胡、ドラその他鳴り物などがわずかにみえているが、ひっきりなしに鳴らされる拍子木のような鋭い音と胡弓を中心とした曲と効果音がかまびすしい。

 場面変わって楚では、やはり同じような衣装の将軍たちが控えているが、登場してきた項羽は、一段と威圧感ある姿だ。顔の、白黒のパンダと虎のあいのこのような隈取りが剛胆な性格を表現しているのだろうか。
 虞美人が登場してくると、舞台はまた違った華やかさに包まれた。きりりとしてしかもなよやかなその姿は、登場したときから既にはかなささえ感じる。男優のせりふも他のものたちはむしろいかにも「黄色い声」なんだが、項羽のはまったく違って、野太いりっぱな「男性的」な発声である。時にはせりふは歌へと移り変わって、朗々とした声を聞かせる。虞美人のせりふはあきらかに男性のせりふと違って、常に一種独特の歌うような流麗なせりふ回しである。意味は分からないけれど、とてもきれい(あ、ここは舞台の両サイドに電光掲示板方式の日本語字幕がついている)。

 項羽は強い!とにかく強い!向かうところ敵なしである。旗を持った兵士役、先ほどの将軍たちなど、限られた人数で表される両軍勢が舞台狭しと大立ち回りだ。舞踏のようにかなり様式化されたこの立ち回りは、むしろ静かな感じで始まるが、次第にいつのまにか激しさを増し、不思議な興奮を感じるようになってくる。ばったばったと敵をなぎ倒す、項羽つおいぞ!将軍たちも重い衣装のまま宙を飛ぶのには目を見張る。
 しかしついに項羽は劉邦の策略にはまり、漢軍に包囲されてしまう。敵方である漢が、味方である楚の歌を歌っているのを聞き、もはやこの戦いは負け戦であることを悟る。虞美人は涙を払って二刀流の舞を待って彼を慰めるが、逃亡の足手まといになるのをきらって、隙を見て自害してしまう。
 ここのあたり、舞台袖から楚の歌がわき上がる演出などとてもわかりやすく効果的であった。
 また、男優たちは一般に隈取りや濃い化粧のせいもあってそれほど表情の演技の比重が大きいとは感じず、その隈取り役の項羽の、ぎょろ目の演技がスゴイと思ってみていた。しかしいっぽうの虞美人の手足や体の様式化された動きにくわえて、顔の表情の変化は素晴らしく、虞美人が動揺を隠しつつ項羽を慰めるシーン、ついに別れを覚悟するあたりの内面を吐露するかのような表情の動きは、実に引きつけられるものがあった。
 「アー、タイウ
ン、タイウン(大王)!」と何度も項羽に呼びかける声の愛らしさ。声そのものというのではなくて、声の調子、リズム、抑揚が、いかにも項羽がこの人に惚れたのがわかるわ、という感じの言い方なのだ。虞美人が項羽を慰めるその様子や、秋の夜、英雄たちは何のために戦いをしてきたのかと問うて心ふるわせるところなどに、やさしいが芯の強い、心のひだを読みとれる女性をよく感じさせる。
 たとえば「ET」なんか見ていると、この監督ってツボが良くわかっているのよねーと頭ではわかっていながらも、みごとにツボを押されて涙、また涙、という感じだけれど、それに似て、この劇も要所要所にちゃんと見せ場やツボがあって、思わず胸に迫ってきたり、カンドーしたりで、かなり涙ものでもありました。
 それにしても高校時代に漢文でかなり真剣に面白いと思ったこの四面楚歌の場面が、こんな形で甦ってこようとは。京劇も素晴らしいが、やっぱり原作も大したものだと再認識したのであった。

 それからロビーにおいてあった「季刊 京劇ニコニコ新聞」が笑えたよーん。

 *この公演を教えて下さったデデさんの感想もご覧下さい。

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 ザ・ハープ・コンソート

990309  カザルスホール

Luz y Norte  ルス・イ・ノルテ(灯火と北極星) 

音楽監督 アンドルー・ローレンス=キング(スパニッシュ・ハープ)

ほか総勢6人のメンバーで、ギター、ヴィオラ・ダ・ガンバ、リローネ、キタローネ、パーカッション、ダンス、歌(ソプラノ)を受け持つ。


 アンドルー・ローレンス=キングは、トラジコメディアのメンバーとして来日したのを聞いて以来、「天才!」と思ってしまい、CDが目につくと買ってしまう。種々のバロックハープから、オルガン、チェンバロ、リュート、ちょっとしたパーカッション、等々の楽器をこなし、とくに独学で習得したハープの演奏においては彼の右に出るものはいないという存在である。そんなわけでソロコンサートを聴いて以来、来日を心待ちにしていた。

 3月も半ば近いというのに氷雨の降るこの日、会場はなかなかな盛況で、ロビーにはリュートのつのだたかしさんの姿も見られた。この方、ローレンス=キングのソロコンサートの時にも、カッコイイ姿をお見かけしたので、彼のファンかとお見受けする。

 プログラムの Luz y Norte (灯火と北極星)は、スペインのアマチュア音楽家リバヤスが1677年に編んだ、スペイン、イタリア、アフリカ、南アメリカの舞曲選集だということだ。外海を航海する探検家に進路を指し示す灯火と北極星のように、音楽の広い海原に乗りだしてゆくものたちへの道しるべとすべく編まれたものだろう。このころのスペインの交易の広さに今更のように驚きつつ、音楽の交流にも思いを馳せる。

 さて、そのハープを中心とする、男性4人、女性2人の演奏は、しっとりと始まった。左端に黒髪のガンビスト、中央にパーカッションのお兄さん、右手にキタローネ、ハープ、うしろにギター2本。みな黒の衣装に、男性は渋めながら華やかな色のベスト、舞台上方のオルガンとそれを支える何本かの柱を従えて、見る目にも美しい一幅の絵のよう。いい雰囲気です。

 ところがどっこい、1曲目が終わっておなじみローレンス=キングの解説があって、ギターを弾いていた女性の歌が入るのを皮切りに、次第に様相が変わってくる。2,3曲のまとまりが5,6グループ、そのあいだに長めの1曲が入るというプログラム構成だが、その2,3曲のうち1曲は、元歌による彼らの即興演奏だ。やおら、ギターを弾いていた男性が楽器をおいて舞台の前方に出てくると、ピッとポーズを決めて、ステップを踏み始める。ひたすらまじめな、どこか悩ましげな表情と、形を崩さない上半身は、フラメンコダンサーのそれのようでもあり、いっぽうバレエのステップや挙措のようでもある。しだいにその踊りは、プログラムが進むに連れて、ダイナミックになり、マイムのような要素も入ってくる。ひやあ、こりゃ大道芸の世界だあ!
 どうしたわけか、前から4番目なんていう席をとってしまったので、かなしいかな、このダンサーの目を見張るようなステップが、よく見えない!膝から下の動きが、半分くらいしか見えない!うーん、こんな踊りだったとわ。不覚。
 ダンサーとパーカッションのお兄さんの、「どうだ」「おりゃあ」「そんなら」「こう来る」という感じの、ステップと太鼓の掛け合いも見せ場。

 一方、演奏の方はかき鳴らされるギター、めっぽう達者なガンバ(チェロのような音色、この人うまかった)、律儀なキタローネに支えられつつ、ハープが自在に舞台の色彩と雰囲気をどんどん塗り替えて行く。ローレンス=キングは、たいていの場合、舞台では暗譜で演奏する。他の演奏者のパートをも全部知り尽くしているんだろうと思わせるような具合。この日も終始全く譜面なしで、全編インプロビゼーションか、という感じ。現代の吟遊詩人の面目躍如である。ごくピアノで奏でられるところは、この席の利点が感じられる。本当に目の前で、弦の震えが伝わってくる。

 休憩後、パーカッションのお兄さん(どこかの大工のせがれと天使を足して2でわってプラスαしたような手足ひょろ長)と、さっきのギタリスト/ダンサーがいない、と思ううち、ホールの外でなにやらかすかな怪しい音が…。と、客席後方のドアが開き、騒々しい音を立てて入ってきたのはそのふたり組であった。およよ、怪しい音は何とバグパイプ。へええ、こんなものをその頃も使っていたのねえ!ふたり組のコミカルな表情たっぷりの入場で会場はまたまた湧いたのであった。もうそのあとは、曲が主かダンスが主か、両者渾然一体、切っても切れない友だち同士といった体でプログラムは進むのでありました。
 馬上試合の曲では舞台上でハープ対他の楽器が二手に分かれてバトル、ダンサーはその前で箒を抱え、振り回して踊り、かけ声をあげ、走り回り、なにやらもう猥雑な雰囲気たっぷりである。しまいにはくだんのバグパイプまで鉄砲代わりに持ち出して、会場は沸きに沸きました。

 いつまでも終わらないでねと思ったプログラムもアンコールに突入し、ジョン・ポール・ジョーンズ(ツェッペリンにいたギタリスト)の作った曲も演奏され、この時には客席最前列のお兄さんが盛大に拍手していた。

 いやいや、芸達者なメンバーを得て、ローレンス=キングは演出もなかなかのもの。これは天性のものです。テレビカメラも入っていたからそのうちBSででも放送されるのではないだろうか。今年初めての演奏会なのだったが、気分はもうこれぞ今年のベストワン!

 開演前にお見かけしたつのださん。タブラトゥーラでは、見かけによらない軽快なステップを披露なさるのだが、さて、きょうのこのステップをご覧になって、次回のタブラトゥーラの公演では新境地がみられるのでは、とひそかな期待であるが、いかに。

 ええと、最後にどうしてもよく分からないのが Luz y Norte そのもので、このプログラムの解説は同じ題のCDの解説と同一なのだが、どうもその実態がよくつかめないのだ。ううん、これがどうにももどかしいのであった。ほんとに楽しい演奏会だったので、この点が心残り。

*会場でお会いしたデデさんのご感想はこちらです。

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 ヒロ・クロサキのベートーヴェンI、II

981116、19 北とぴあ さくらホール

<第4回北とぴあ国際音楽祭>

16日

カカドゥによる変奏曲 op.121a

ヴァイオリンソナタ 第9番 イ長調/イ短調 op.47 クロイツェル

ピアノ三重奏曲 第5番 ニ長調 op.70の1 幽霊

19日

ピアノ三重奏曲 第1番 変ホ長調 op.1の1

ヴァイオリンソナタ 第5番 ヘ長調 op.24 春

ピアノ三重奏曲 第7番 変ロ長調 op.97 大公



 一年ぶりのヒロ・クロサキの演奏会である。昨年は、ソプラノとチェンバロ、およびチェンバロとのデュオの2回が都内で行われた。その際、「来年は北とぴあでベートーヴェンのトリオをやるの」と話しておられたが、それが今回の二夜の演奏会なのである。うれしいな、うれしいなっと。

 オーケストラピットをつぶして舞台とし、舞台後方は屏風状の響き板と緞帳で遮ってある。客席は前の方とサイド、2階を空き席に設定してあり、1300人収容のところを600席に限定してある。私は二夜とも前から4列目のレフト側に席を取った。というより真ん中の方がもうなかったのだ。むす。

 さていよいよ、久しぶりにお目にかかるヒロさん。どきどきどき!
 ヒロさんはあいかわらずの様子で登場、うーん、いつもながら燕尾服がいまいちです。舞台に据えてあるフォルテピアノはJ.シュリムプ、1822年製とのこと。一方ヒロさんの楽器は昨年と同じヤヌアリウス・ヴィナッチャ(1773)だが、これがいつも演目の最初はなかなか鳴らないのである。

 危惧の通り、1曲目のカカドゥ変奏曲では、出だしのピアノかつ遅いテンポのところでの音色が、いかにも弦をこする音だけである。うーん、やっぱり鳴らないなア、と思いつつも声なき声援を送る私。しかし序奏がおわり、明るい曲想にはいるとヒロさんの持ち味がすぐに戻ってくる。この曲の終わりにさしかかった所で急に音に艶がでてきて、楽器も暖まったらしく鳴り始めた。良かった、と思うまもなく1曲目はおしまい。いまひとつフォルテピアノのテンポと弦二人のテンポがかみ合いません。ヒロさんはいつもそれほど走る方ではないのだが、フォルテピアノのリンダ・ニコルソンはあくまでもマイペースって感じ。前へ前へ行きたいヒロさんを、要所要所で、そうね、ちょっと待って、私の分もちゃんと弾くから。って感じでお引き止め。足を引っ張る、とかずれてる、っていうわけではない。そういうアンサンブル。

 しかし1曲目のうちに楽器が鳴ってくるというのは早いほうでしょう。休憩まで調子が出ないと言うこともあるこの楽器。幸いなことに次のクロイツェルでは冒頭からかなりしっかり和音も力強さがでており、安心して楽しむことができた。翌日のスプリングと比べるとこの曲は取っつきにくいと言うか、構築的な感じが強いのだが、ヒロさんはこのような曲に道筋をつけパースペクティヴをもたらすのが格別に得意である。建築を勉強されたというのを聞きなるほどと思ったものである。実のところ、彼はこの2楽章のような性格のものには他の人より特に向いているとは思えないのだが、やや聞きにくさのあるこの曲を、特に1,3楽章にいきいきと甦るような息吹を吹き込んで聴かせてくれた。

 3曲目のピアノトリオは2楽章のもやもやぼわぼわしたところが印象的というのかようわからんというのか。やっぱり、1,3楽章がいいわね。ヒロさんはごく端的に言うと、Durの人なのです。今日のように作品番号があとの方でしかもmollが多いのは、必ずしも向いているとは言えない(と言う予想通り)。しかし、逆に彼の持ち味がよくわかるプロであったという見方もできよう。正直言って、アンコールに演奏されたピアノトリオ1-1(4楽章、19日のプロの1曲)のような、初期の喜遊的な色彩のものが、いかにもヒロさんらしさが発揮されたものであったし、聴衆の目当てでもあろう。でもね。ヒロさん、やりたいんですよ、こういうプロが。それ、よくわかる。むこうではこういうプロをやる機会って、どのくらいあるのだろうか?お訊きしてみれば良かった!

 フォルテピアノは私はあまり聴く機会はないのだが、今日の楽器はよくあるボンボンないしキンキンした音などと異なり、楽器としての完成度が高いのではないかと素人耳には思えた。なんだいこりゃ、柱時計じゃないヨと言いたくなる楽器もあるでしょ。
 チェロのアントワーヌ・ラドレットお兄さんもややモダンぽい音色のチェロを実に気持ちよさそうに弾いていた。どうしても他の二人に目がいってしまうのだけれど、実はこの方がよくアンサンブルを支えて広がりを与えていたと思う。このチェロは1997年シャール・リッヒェ作のストラディバリ・モデル。この楽器のスペックはこれ以上よくわからなかったが、いくら何でも去年の作では、古典の音は出ないんじゃないかと。もうすこし弾き込まれた楽器にして欲しかったと思うが、モダンぽい印象が楽器の問題だけなのか、奏法のせいもあるのか、チェロを弾く方々に伺ってみたいところである。

 19日。開演間近、席について落ち着くべく巣作りをしていると、通路からにっこりのぞき込む大ネコあり。メイル友だちの、古楽の字引・デデさんである。ミニミニオフの趣ですね。
 さて、開演である。おや?きょうは、登場するときから先日と雰囲気が違うぞ。リラーックス、リラックス、つい今まで楽しく楽しくアンサンブルしていてそのまま出て来ちゃった!という様子である。

 1曲目は先日のアンコールでも4楽章を弾いた、作品1−1。知らずに耳にするとモーツァルトのように聞こえる。先日より全体にミスタッチが多いのだが、冒頭から楽しさが溢れ、3人が3人とも、体が良く動いている。表情も豊かに、楽しんで弾いているのがありありとわかる。ヒロさん、こうでなくっちゃ!ミスタッチするとどの奏者も口をへの字にしたり、およよ、と目をむいたり。でもごっきげんに音楽は流れて行きます。隣のお兄さん、先日もそうだったけど、こんなに愉しい演奏に初めから寝ないでねッ!

 今日のプロは、みなDurである。聴衆の期待する「ヒロさんらしさ」が味わえるようなプロ。その2曲目はあまりにも耳なじみのあるスプリングソナタである。前回のクロイツェルも聞き物だったが、やはりこれはよかった。いきなりヴァイオリンの心地よいメロディで始まる1楽章、ヒロさんの咲かせるのは春風にそよぐひな菊の花かしら。ヴァイオリンが奏でるテーマがフォルテピアノに引き継がれようとするとき、フォルテピアノの春風がふわあっと舞い上がって聴くものの視点を高く持ち上げる。そこに寄り添いながら気ままに遊ぶヴァイオリンの伴奏の音型が、非常に耳に新しくきこえる。だいたい誰の演奏を聴いてもここはごそごそして居心地が悪いものだが、ヒロさんの黄金の右手が繊細にこの部分を表現している。ほとんど拍手もの!こんなところがヒロさんのすばらしさなんである。2楽章は遅いテンポのたゆたうような曲想であるが、このベートーヴェンらしいフォルテピアノとの絡みも、息のあった二人らしく聴かせる。ベートーヴェンのスケルツォはどれもいかにもベートーヴェンにしか書けないと言うべきものだが、このソナタの短いスケルツォも同様。小気味よくアッというまにスビトで4楽章に突入!いやいや、爛漫です。こんなスプリング、手元に置いていつでも味わいたい泉です。

 プログラム最後の大公は、いつになく力演である。ヒロさんにしては珍しい、リキの入った演奏とお見受けした。だからといって、力んでいるって言う訳じゃない。ヒロさん、大公とスプリングがやりたかったんじゃないかな、一番。いや、もちろんmollのも別の意味でやりたかったには違いないが、心情的にはこれ。大作だけれど、耳なじみの良い、聞き所の多いこの曲は、彼自身も昔から愛聴してきたのではないだろうか。隅々まで知り尽くした曲にちがいない。その曲を自分の言葉で表現する喜びが横溢し、弾き終わったときの紅潮した嬉しくてたまらない顔!弾いたァ!って顔、していたなあ。

 うーん、すてき、すてき!この日もアンコールがあったのだが、譜めくりのお姉さんがなかなか出てこない。皆がじっと袖を注視し、失笑も漏れるが出てこない。しびれを切らした聴衆のひとりが、袖のドアをたたいてお呼びに参上する有様。次の曲の時も、また同じことが繰り返されたのには、閉口した。ほかにも2,3、所詮王子ってイナカって言われても仕方ないようなことが見受けられたのは残念である。でもこんなご機嫌な演奏会、たった3000円なんて、嘘のようである!

 ヒロさんの演奏会ではいつも、音楽する愉しさを存分に味わうことができる。その音色に、表現に、ヒロさん自身の表情に、共演者とのまなざしのやりとりに、音楽することの喜びが溢れている。
 この演奏会でもそれは十分に感じられた。ただ、わたしたちがまずヒロさんに弾いて欲しいのはやはり、ヒロさんでなければ弾けないもの。他の人では聴けないもの。というとそれは必ずしもベートーヴェンではないのではないだろうか。確かに「ヒロ・クロサキのベートーヴェン」は堪能したのだけれど、ヘンデルやビーバー、その他の数々のバロックの宝庫から掘り出したちょっと埃っぽい曲を、ついきのう生まれたかのように生き生きと甦らせて聴かせてくれる、そんなヒロさんの演奏をもっと聴きたい!と思うのは私だけではないだろう。(つまり、もっと日本に帰ってきなさい!ていうこと!)

 終演後、ヒロ様命のわたしは、昨年に続き厚かましくもお花その他を持って舞台裏に行き、次回のご予定なんかお訊きしたのだ。確定しているのは2000年。来年はお目にかかれないのだろうか!期待しているよーん、ヒロさん。

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 林峰男チェロリサイタル

981027 カザルスホール

パブロ・カザルスに捧げるチェロ連続リサイタル1998 第6日(最終日)

ボッケリーニ ソナタ イ長調(2楽章版)

J.S.バッハ 無伴奏チェロ組曲第6番 二長調 BWV1012

プーランク チェロソナタ

ドビュッシー チェロソナタ(1915)  

 出演:チェロ:林峰男  ピアノ:寺田悦子


 表記の連続リサイタルの最終夜として行われたこのリサイタルであるが、今年で11年目の趣向だそうだ。10月22日のカザルス忌を第1夜として連日行われ、スティーヴン・イッサーリス、山本祐ノ介、金木博幸、山崎伸子、ミクローシュ・ペレーニ、そして林峰男という面々である(山本、金木と言う方々は寡聞にして知らない)。

 峰男さんは、以前バッハの無伴奏チェロ組曲の連続演奏会をなさって、大変評判が高かったはずである。今日の演奏も、お得意のボッケリーニで手慣らしをしたあと、この技巧の勝った曲(第6番)をさすがに見事に聴かせてくれた。
 彼の持ち味は、その軽さにある。ふらふら、拠り所のない軽さ、中身のない軽さではもちろんなく、縛り付けられない軽さ、前向きな軽さである。「あ」をくっつけて明るさといってもよい。並み居る諸大家チェリストたちの、渋面を作った重厚なチェロとは違って、よく歌ってよく徹る美しい音色が身上である。だから、バッハの楽しさがよっく伝わってくる。つらーいバッハは、ご免です。

 そういう特色を持つ人だから、後半のプーランク、ドビュッシーが私には一層楽しかった。プーランクは初めての曲であるが、この作曲家らしい非常に聞き易いもの。その心地よさとエスプリの中に、サティなどに通じるたぐいの、ぎくりとするような鋭いものや足元にぱっくりと口を開けた深い陥穽を感じさせる。峰男さんのレパートリーとしてとてもあっているのではなかろうか。
 ドビュッシーの、比較的短いが凝縮した近・現代的な作品も、ぐいぐい引き込むような迫力を感じた。

 本当に美しい音!今弾いているのは、ストラディバリウスかな?以前のゴフリラーの方が彼らしいと思うのだけれど、日本に持ってくると不調になっちゃうとかいう話を聞いた。彼は、のってくると、足を投げ出すような姿勢になり、さらにかかとを支点にして、パタン!パタン!と床に打ち付けるのである。出ました、峰男さん、調子が出て来るにつれ、今日もパタン!バタン!にっこりしながら演奏を楽しみました。

 アンコールの最後に、照明をしぼり舞台上の二人にだけスポットライトをあて、吊り照明からは青い光。ピアノがトレモロを弾き出す…。そう、今夜は最終夜なので、カザルスゆかりのカタロニア民謡「鳥の歌」でしめくくりである。ルバートをたっぷり効かせ、しかし大仰でない、心のこもった「鳥の歌」。最後のピアノの音が消え、照明が緩やかに明るくなると、1階席では眼鏡を外して目元を拭う年輩の男性や、顔にハンカチを当てる女性の姿があちこちで見られた。…演奏家冥利ですね。

 私にはこのピアニストは峰男さんの伴奏としてはあまりよいとは思えなかった。響きが硬くて、峰男さんの音色を殺していた。悪くいうと、耳障りである。仲道さんが合うと思うんだけどナー、以前の経験からすると。どうでしょう?

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 ポメリウム

981026 紀尾井ホール

光よ、再び 〜 ルネサンスの宗教音楽

ギョーム・デュファイ 最近教皇から献上された
            戦う教会

コンスタンツォ・フェスタ 天にまします我らの父よ/めでたし、マリア

アンドレアス・シルバ 主のすべての美は

ジョスカン・デプレ あなたは祝福される、天の女王よ

パレストリーナ 日が昇る最初のときから

ウィリアム・バード 聖なる日

モンテヴェルディ 幼子が私たちに生まれ
           処女マリアは清らかな火で

カルロ・ジェズアルド イエスよ、ここに目に見えるパンとして現れた
             暗闇であった

出演:ポメリウム 指揮:アレクサンダー・ブラッチリー


 ポメリウムは初めてである(初来日)。それでなくとも声楽は、古楽を聞き始める前はあまり興味がなかったので、とても疎い。けれど、ルネサンス・バロックには声楽はなくてはならないのねと次第にわかってきて、いろんなグループを聞かせてもらった。声だけに、それぞれのグループの個性が、面白い。男声のグループの方が聞いた回数が多いが、きょうは男声8,女声4である。

 ポメリウムは、主宰者ブラッチリーがルネサンス時代の教会合唱曲を演奏しようと1972年にニューヨークで結成した。あまり見たところも聴いたところもそうアメリカっぽくはない。女声の澄んだ声とカウンターテナーの声がぶつからずよい効果として感じられた。テノール4人が広い声域をカヴァーしており、中でもハイトーンの彼氏(トム・ベイカー様だよん)が、音程のはっきりした冴えた声で気持ちよかった。男声が幾分くぐもりがちな柔らかい響きだったので、彼の声・決して硬質ではない・が入ると、全体がぴしっとしまるのである。またどの曲でも女声が「天使の声」系でうっとり。

 曲としては、私はデプレとかデュファイが好きでした。マニエリストと言われたジェズアルドの、半音階や耳馴染みの薄いハーモニーが多用された曲には、思わず現代曲か?とプログラムを見返してしまい、ちょっとドキドキしちゃった。
 それにしても、どうして歌の指揮者って、ああいう指揮をするの?ちまちま、こちょこちょ、いわゆる指揮、と言うよりサインて感じ。見ていてよくわかるなあ、と感心。

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 バロックオペラ「ポッペーアの戴冠」

981009 紀尾井ホール

モンテヴェルディ作曲 全3幕

出演:ザ・パーセル・クワルテット・オペラ・プロジェクトII


 私には初めてのバロックオペラである。
 
楽しかったああ!
 ひそかに、3時間半(6時半開演、10時
演)の長丁場、居眠りをするのは必至!と思っていたのだが、ほとんど杞憂だった。(座りすぎで腰が痛くって寝るどころではないと言う説も)
 皆現代風の衣装をまとい、たとえばマフィアの親玉のような皇帝ネローネ(ネロ)、やたらに色気を振りまくポッペーア、彼女に純愛を捧げてはいるけれど、気が弱くってオタオタしっぱなしの将軍オットーネ。「運命」や「美徳」よりずっとぼくの方が「つおーいぞ!」と言うことを見せてやりたい一心のガキンチョの「愛」。なにやら理屈をこねたあげく、死罪の宣告にこれ幸いとばかりに神様の世界にいってしまうセネーカ、等々。
 みんな変な人物ばっかり、中でももっとも自分勝手なネローネとポッペーアが都合良く結ばれておしまいという、なんたるちゃの筋書きである。

 ポッペーア役のグッディングは、93年のロンドンバロックの公演に同行したときに聴いたが、見た目も声ももっと線が細く、初々しくて清楚だったが音程がやや不安定な印象があった。今回はそれが見違えるように堂々として、成熟した感じ。
 ネローネはテノールのギ・ド・メイであったが、ドスが利いていてはまり役だと思った。この人あっての今回の舞台といっても過言ではないのではないか。
 「愛」のニッキー・ケネディ、ドゥルシッラのル・ブラン、オッターヴィアのビックレーら、皆芸達者で歌ものびのびと楽しく聴かせてくれた。夫いわく、女の人たちみんな太めね。(少年には見えなかったぞ、ケネディちゃん。)
 触れないわけには行かないのが、カウンターテナーのドミニク・ヴィスで、ポッペーアとオッターヴィア二人のそれぞれの乳母役およびメルクーリオの3役をこなした。かれはまず、ポストの赤みたいなものすごい朱赤のスーツ(ミニスカート)にハイヒール、あごまでのワンレンの髪という出で立ちで登場!ひええっ。きれえな足!うわっ、すごい声。つぎにコートを羽織り年よりの乳母という役どころで再び現れる。ハイトーンからドスの利いた低い声部まで、やわらかくなでるようなピアノからびりびり震えるようなフォルテまで、表情たっぷりにご自慢の声を自在に操ってみせた。過剰とも言えるくらいのおふざけぶりは、もー大変。セネーカに死の知らせを持ってくるメルクーリオとしてマウンテンバイクをひきスパッツ姿で出てくるは、これができた頃はその頃の観客にこんな風な感覚でとらえられていたのねと、一挙に同時代的感覚をいだいてしまった。

 普段よく聴くコンサートでの歌なんて、オペラに比べたら歌の死んだ抜け殻、歌の実物大模型、まことの国を思い出すよすがとしてのこだま(ナルニアだよ)みたいなものに過ぎないということが、よっくわかった。

 席は1階バルコニーの前の方だったので、楽器群にも近く、ガンバ、リローネの美しい響き、チェンバロの迫力が楽しめたし、アーチリュートたちも細部までとてもよく聞こえた。ヴァイオリン2本は最後列に控えていたが、さすがにこの楽器は登場すると我ここに有りと存在をアピールする素晴らしさだった。

 最終公演だったためか、歌手、楽器ふくめステージ上が一体となって盛り上がり、サービス満点の舞台でありました。また見たいよう。

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 今井信子ヴィオラリサイタル

980929 紀尾井ホール

J.S.バッハ ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ
         第1番 ト長調 BWV.1027
       無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調 BWV.1007
       ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ
         第3番 ト短調 BWV.1029

武満 徹  鳥が道におりてきた

レーガー  ヴィオラソナタ 変ロ長調 op.107

       (チェンバロ、ピアノ : ローランド・ポンティネン)


 昨年の、初台の東京オペラシティのこけら落としのシリーズで聴いて以来の今井信子である。ちかごろ出されたCDがバッハ作品集であったことからも窺えるように、近年の今井さんはバッハに惹かれているようである。昨年はヴァイオリンパルティータからいわゆる「シャコンヌ」を取り上げていたが、今回のバッハにおいても昨年と同様の印象を得た。
 今井さんのバッハは、美しい。花のようだ。華ではなく、みずみずしくたおやかな花のようだ。
 また重々しく荘厳なバッハではない。崇高で空の高みの中にあるものとしてバッハは表現されることが多いが、そのような捉え方ではない。息づいて血が通っている。だが決して生活のにおいがするといったたぐいのものではない。舞曲としての部分はある時は軽やかであり、ある時は流れるようであり、常に生きて、過ぎ去ってゆく時間を測ることができるようである。(音楽の素晴らしいところ、神髄は、このつかみ所のない「時間」というものに、ある輪郭と手がかりを与え、しかしそれでもやはり悲しいかな、決して捕まえることができないということをひしひしと感じさせるところにある、と私はいつも思う。…)
 今井さんはバッハに対して古楽の人たちのようなアプローチをしてきた人ではない。私はいわゆる古楽演奏に出会ってから、モダーンの演奏にどこか違和感を感じるようになったのだが、この日のバッハでは、その二つの流れがひとつに接近し、収束するように思った。
 無駄な力が全く入っていない今井さんの奏法から生まれる音は、決して音量的には大きいものではないが、ヴィオラとしては驚異的によくとおる音である。この透き通った、しかも暖かく柔らかな音色を武器として、ピアノ、ピアニシモ
を多用した自在な表現が聴かれた。
 昨年バシュメットとのデュオを聴いた際には、バシュメットのやたらに轟々と音量を誇るような演奏がどうも愉快ではなかった。ソロの部分ではなるほど上手と思うのだが、今井さんとの絡みになるととたんに音色の美しさ、音楽のつかみ取り方、音量の自在さ、どれをとってもバシュメットの力ずくの演奏が太刀打ちできないものがあった。世界に誇る日本の今井!である。
 個人的には、ヴィオラを弾く人間にとってはチェロやヴァイオリン、ガンバ、クラリネットなどの曲のヴィオラ編曲版は全然珍しいものではないので、プログラムにあるような「チェロのこの曲をヴィオラで弾くとどうなるか」なんてことは書くもがな。それにこんにち今更こんな事を書くのは時代遅れ。(だいたい10年前にはヴィオラがこんなに身近な楽器になるとは想像もしなかったと平気で書くような人間が何で今井さんのプログラムに解説を書くんだ!遅れてるよ。)
 もう一つわがままを言えば、ガンバ組曲は好きではない。ヴァイオリンパルティータから聴きたかったな。
 

 武満は大好きだ。どの曲も、白々とした月の光の中に浮かび上がる情景のように思える。なのに、そこここにあらわれる旋律の断片は、妙に人なつこく、よく知っているもののような気がする。あこがれに似た、何かを追い求めているかのような印象もある。
 この「鳥が道におりてきた」という小さな曲は、武満自身の言葉によれば「この鳥の主題は…(略)…静的な、地上の風景の中を歩いて行く。ひっそりとした白日の庭。」非常に静かな、はっきりとしたある種の夢の中のようなイメージ。だがやはり、断片的に現れるメロディに胸を沸々とさせるものがあった。

 レーガーのソナタは、全く初めてである。が、こんな曲があったということを知り、認識不足を痛感する、というよりこの曲を今井さんの演奏で知ることができて嬉しい。静かだが明るい、柔らかだが力強い。CDを買いそびれたのが残念である。弾き終えて思わず大きな口でにこっと笑ってしまう今井さん、素晴らしい演奏でしたよ!

 アンコール1曲目は通称「G線上のアリア」、ピアニシモがなんて美しい。2曲目はレーガーの「ロマンス」という私には初めての曲だった。2曲目のとき今井さんは、いったんピアニストに先立ってもう一度袖に引っ込もうとした。それに気づかずピアニストはさっさとピアノの方に向かってしまったので、客席から笑いがおこり、おっ、と振り返った今井さんは「あちゃー!」というように笑って、舞台中央に向かったのであった。そして笑いながら「ありがとうございます。小さいけれどきれいな曲です」と紹介して弾き始めた。は、は、は!今井さんて大好きだ。このヴィオラの第一人者の演奏会に、思ったより客席にヴィオラ軍団が少なかったのは気のせいか。ヴィオラ愛好家以外にも今井さんのヴィオリストとしてのみならず音楽家としての素晴らしさが知られてきたというべきかも知れない。

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 仲道郁代の音楽学校

980901 カザルスホール

ベートーヴェン:ピアノソナタ第8番ハ短調作品13<悲愴>
シューベルト:即興曲ロ短調作品142の3
メンデルスゾーン:厳格な変奏曲ニ短調作品54(主題と17の変奏曲)
田中カレン:<星のどうぶつたち>より
       星の歌T、やぎ、こぎつね、きりん、おおぐまこぐま、うお
       りゅう、ペガサス、はくちょう、ライオン

プログラムは
 [一時限」リハーサル見学

 
二時限」演奏会

の二部構成をとり、前半は舞台俳優・山下千景さんとの二人舞台によって、今日のテーマである「音楽家にとって解釈とは?」がナビゲートされた。ここでリハーサル風景として使われた曲が、そのまま後半で演奏された。


 前半の「音楽家と解釈」というテーマで肉声を聞いたせいか、仲道さんの方も聴衆の方も双方が、そのテーマを念頭において、とまではゆかなくとも、頭の片隅においていたためか、決して聞き易いところばかりでない曲目を集中してきくことが出来たのではなかろうか。

 彼女の演奏は、2回ほど聞いたことがある。初めての時はチェロの林峰男さんたちとのジョイントでブラームスのピアノクインテットだった。失礼ながら、お嬢さん芸の延長みたいなものかなあと思っていたら、これがなかなかな演奏だったのでびっくりした。そのときの印象で、なんとなくシューマンやラヴェル、シューベルトなどが向いているのではと思ったのだが、今回の演奏会でそれが裏付けられたように思う。

 中でも強い印象を受けたのはメンデルスゾーンだった。
 曲のものすごさもともかく、作品と演奏が一体となった素晴らしい演奏だった。「和音の塊」というほどの圧倒的な和音の連なりがクライマックスに達した後、最後のいくつかの、音量は大きいが内容的にはむしろ静まり返った和音によって、見事に曲が閉じられた。

 そして立ち上がった仲道さんは、演奏によっていかに消耗し尽くしたかを物語るような風情と表情だった。それを見守るこちらも、聴覚と精神を演奏の中にあまりに差し延ばしていたため、そこから現実に立ち戻ってくるのに今しばらくの時間と努力が必要だと意識して感じるほどであった。

 ところが仲道さんは、拍手に応えて2、3回舞台と袖を行き来した後、次の曲の為の譜面台が用意されるとすぐに再び登場し、「星のどうぶつたち」の演奏を始めた。私はこのとき、メンデルスゾーンによってすっかり精神状態が、いなばの白うさぎよろしく、さわられればすぐにぴぴっと感じるようになっており、回復するのに今しばらくの時間がほしいような状態だった。実際、「星のどうぶつたち」が始められる直前に我知らずうっすらと涙が出てきてしまい我ながらうろたえてしまった。

 それを、ほんの少しのインターバルを取ったきりで全く異なったタイプの曲を弾き出された仲道さんは、いったいどのように気分の転換をなさったのだろうか。こんなところをどう処理しているのか、是非うかがってみたいものである。

 「星のどうぶつたち」は、「クープランの墓」や「謝肉祭」を想起させるようなところのある、透き通った愛らしい、しかも星空らしいどこか哀愁を帯びた和音が印象的な佳品である。仲道さんは、これらを持ち前の透明感あふれるペダルワークで演奏し、すっかり私は引きつけられてしまった。

 前半はクラシックにそれほどなじみのない人たちを念頭に置いて企画されたもので、そういった試みの中では出色ではないかと思う。しかも毎年(今年で3年目)聞き続けることにおそらくいっそうの意味がある。ふつうよくあるアンケートのほかに、にたような質問項目が印刷された「宿題はがき」がプログラムにはさみこまれ、「もっとこんなことが知りたい、こんなとき演奏する人はなにを考えているのだろう」などを書いて返送してほしいという。切実に感じた上記の疑問を、書いて投函してみようと思う。そうして来年また行ってみようと思う。


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