蓬莱学園/宇津帆島案内


 私たちの学ぶ学校、学校法人蓬莱学園私立蓬莱学園高等学校について紹介します。
また、学校所在地の宇津帆島(うつほじま)についても紹介します。

■蓬莱学園の紹介

 蓬莱学園は、東経140度31分、北緯20度50分、東京から真南約1,800kmに位置する南海の孤島、東京都台東区宇津帆島にあります。

宇津帆島の位置

 生徒数は12万人と世界有数の巨大学園として知られ、所定の入学・転入手続きを取れば誰でも、学歴・年齢・性別・国籍・人種・宗教・イデオロギーなどに問わず、全ての知性体が入学できます。生徒の一部には、幼児から99歳を越える方やロボット人工知性体なども入学しています。
 授業は前期後期の二期制で、1月・4月・9月にそれぞれ入学式、台風が来襲する酷暑の6月から8月までは夏期休暇で、12月末に卒業式があります。

<年間行事・祭事表>

 蓬莱学園は全寮制で、戦後まもない頃に廃材などを活用して建設した大小多数の複合住宅群である木造の恵比寿寮(男子寮、5万人)と、最新設備を誇り高さ360mの超高層ビルである弁天寮(女子寮、5万人)、そして学園西部に建設中の大黒寮(男子・女子寮、現在2万人)があります。また寮を嫌って、宇津帆新町などの島民が経営する下宿を借りる生徒も少なくありません。

 蓬莱学園内にある設備は、すべて生徒自身が運営しているのも特徴の一つです。発電量364万kwを誇る原子力発電所や火力発電所の電力、ガス・上下水道・電話・通信などのインフラ設備や、学園環状線の鉄道や路面電車・トロリーバス・バス・連絡船・飛行船・飛行機などの交通機関、学園内の治安や消防・医療、そして学園を他国から守るための軍事力(原子力潜水艦や海防艦、戦闘機、戦車など)…etc.

 そして蓬莱学園といえば「課外活動」です。先に挙げた学園を支える委員会活動のほかに、クラブ活動も盛んです。過去三度も東東京地区から甲子園に出場した野球部、巨大粒子加速器を持つ超統一理論あやとり研、怪しい発明ばかりする狂的科学部、学園生徒の胃袋を支えるお料理研、実力派ぞろいの演劇部吹奏楽部、などなど挙げれば数え切れない個性派ぞろいのクラブや同好会が、今日も宇津帆で事件を起こすのです。

■宇津帆島の紹介

 宇津帆島は蓬莱学園とほぼ同義ですが、一応別項目にしました。

 宇津帆島は南北約22.4km、東西約18km、面積222平方kmの火山島で、神奈川県の1/10、モルジブ、沖縄県石垣島と同じ面積を広げ、南極大陸を小さくしたような陰陽図のような形(6の字の左右反転)をしています。

宇津帆島周辺図(320*256)  宇津帆島全図(200*256)

 亜熱帯性気候で台風の通り道のため年間平均降雨量は2,500mmで、気温は一年を通じて変動が少なく、冬期でも平均最低気温が20度を下回ることはありません。

 宇津帆島は大きく分けると、北部、中央部、南部、西部の4地域になります。
 北部(旧島)は緩やかな山地で、中心には「はちろう神社」のある標高500mの休火山・はちろう山(さん)があり、中央の山頂から南西に羽知那川(うちながわ)が流れます。そしてはちろう山の麓には、羽知那川を挟んで西側が旧島民が住む羽知那村(うちなむら)、東側に台東区立宇津帆小学校や宇津帆中学校のある宇津帆本町(うつほほんまち)があります。そして旧島の西には無人の弓美島(ゆみじま)があり、干潮時には旧島北西部と浅瀬でつながるので、歩いて渡ることもできます。旧島や弓美島には、いくつかの縄文時代の遺跡が発見されています。

 中央部はなだらかな丘陵地帯で、蓬莱学園の主要施設が集中しています。南東に墨川(すみかわ)が流れていて、源流の一つは中央の湖である不忍池(しのばずのいけ)と御槌岳(みつちだけ)です。そして墨川河口部の宇津帆島東側は遠浅の海で、南北数kmにわたる珊瑚礁があり、国の天然保護地域にも指定されています。

 南部は西から順に阿松岳(あまつだけ)、伏里山(ふせりやま)、御槌岳という標高800mから1,000m級の活火山がそびえ、過去数十回の噴火によって多量に吹き出した溶岩が複雑な地層を形成し、この溶岩と火山灰の上に、学園三大秘境の一つである南部密林が広がっています。また海岸沿いには巨石遺跡群が点在しています。

 島西部は火山からのなだらかな斜面が続き、比較的おだやかな海岸線を形成しています。阿松岳東部斜面から西部の平原にかけて、緩急の厳しい淵内川(ふちないがわ)がS字型に走り、学園中央部の淵内湾(ふちないわん)に流れ込みます。
 島の西南部は秋葉原砂漠(あきはばらさばく)が広がっています。
 また、島の大地は非常に古い玄武岩層から成り、地下には鍾乳洞や洞窟が蜘蛛の巣のように広がっているのも特徴です。

 宇津帆島の植生や生態は、タロイモ・ヤムイモ・パイナップル・バナナ・サトウキビなどの亜熱帯性植物が島全域に自生し、クスノキ・ブナ・カエデ・マツなどの帰化植物も見られます。不忍池の北にある雨木桜(あめきざくら)はその代表例です。
 そして島の南部から西部にかけてジャングルが広がっています。
 森林地帯には鳥類をはじめとする豊かな動物層が見られ、南東部に生息している野生馬などが有名で、旧島ではの飼育も盛んです。また島の沿岸部は豊かな漁場となっており、タイ・ヒラメ・イカ・カニなどの魚介類がたくさん捕れます。

 南部密林では通常の植物相や動物相だけでなく、常識をくつがえす奇怪な動植物が闊歩しており、全長30cmもの巨大胞子(一寸胞子)を持つ超弩級シダや、40mにも達する一本の巨木に約73,000種350万匹の昆虫が住んでいるファーブル昆虫木などがあり、すでに本土で絶滅したニホンオオカミトキや、恐竜ムカシトンボのような「生きた化石」生物、ウツホハナアルキオシツオサレツなどの新種生物、妖精キマイラなどの幻想動物を見たという報告例まであります。

■蓬莱学園の沿革

 今から145年前、穂北眞八郎(ほきた・しんぱちろう)翁が西暦1855年(安政二年)に、上野・不忍池の近くに私塾「蓬莱塾」を創設したのが始まりです。塾生は352人でした。

 1890年(明治二三年)、蓬莱塾が浅草に移転して「東京市蓬莱大学校」と改称し、この時に理事会も設立しました。蓬莱大学の付属校(予科)として、小樽校(第一高等部:1901年(明治三四年))、長崎校(女子高等学校:1915年(大正四年))、浅草校(浅草高等部:1921年(大正一○年))と日本各地に分校ができました。
 また関東大震災の起こった1923年(大正一二年)秋、学園が宇津帆島の一部を買い取って南洋研究機関を設立。この研究所の関係者のほかに、地震で焼け出された浅草住民が宇津帆島に移住して町を作っていったのが、今の宇津帆本町(うつほほんまち)・宇津帆新町(うつほしんまち)と言われています。

 そして1930年(昭和五年)浅草の大学部を発展解消し、宇津帆島の研究機関と合併して「研究局」(後の「研究部」)となり、宇津帆島に第二高等部(当時は男女別学)を創設しました。当時の生徒数は1,213人でした。

 その後第二次世界大戦では、宇津帆島の施設が日本海軍により接収され秘密軍事基地ができたり、第二高等部の生徒達も学徒動員されたりしました。大戦中の出来事に、応援団「大団旗死守」伝説銃士隊「三三七高地の突撃」などがあり、日本が負けるまで米軍が宇津帆島を制圧することができませんでした。
 海底地震により島の半分が沈み、火山噴火や島が大幅に再隆起(昭和隆起)し、現在の地形を形成したのもこの頃です。

 日本が負けた後、GHQが宇津帆島に進駐し、1948年(昭和二三年)小樽と長崎の高等部が廃止され、宇津帆島の第二高等部と合併しました。
 そして同年にGHQ時代が終わりましたが、この時にいかなる密約があったのか、以後宇津帆島の存在は日米政府の秘密事項となり、地図や文書から消されていきました。
 「宇津帆島」ってどこにあるんだろうと、お手元の地図を見ても載っていない理由は、戦後直後の出来事までさかのぼるのです。
 また戦後直後から復員学生を大量に受け入れたのが、学園巨大化の始まりと言われています。終戦直後は1,390人だった生徒数は、1950年の事務大混乱で卒業者が激減したときは48,315人にも急増しました。

 そして1954年(昭和二九年)四月、私立蓬莱学園高等学校と正式に改称し、別学を廃し男女共学となり、研究局から研究部となりました。
 1986年(昭和六一年)世界初の一○万人高校となり、1990年(平成二年)の90年動乱では「六・四内戦」と呼ばれる生活指導委員会(通称SS)の生徒会執行部へのクーデターにより学園生徒同士の戦争となり、死傷者が五千から一万人ともいわれる悲しい出来事もありました。

 1999年(平成一一年)生徒数は一二万人となりました。蓬莱学園は百数十年の歴史がありますが、生徒の気質は当初から変わらないと言われています。
 創立当時から好奇心と野次馬根性にあふれた生徒たちが、今後も蓬莱学園に集まって行くでしょう。


■参考資料 ■地図
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