日曜日, 10月 10, 2004

人格障害と恋愛

人格障害、就中境界例と自己愛の為に傷つく人は 多い。恋愛がスバラシイという事になったのは日本でも明治以後の話である。恋という言葉は古くから良い意味で使われてきたが、愛という言葉はむしろドロド ロした、忌むべきニュアンスがあった。愛執とかね。親から得られなかった愛情を、恋人に求めてぐじゃぐじゃな関係になりよけいに傷つく人たちがいる。飢え て求め、人を振り回して結果として更に傷つく。こういった人々を(も)描いたのが、吉野朔実の「恋愛的瞬間」である。元ネタはDSM-IVではないかと思えるぐらい精神障害が連作のテーマとなっている。
仏教においても、愛というのは捨てるべき感情であった。世の中のあらゆる執着から解脱することにより、心の平安が訪れるといのが仏教の根本である。今の日本の仏教が仏教と呼べないものであることは言を待たない。これも明治以降に肉食妻帯が許されたためである。
愛が商品化され、消費される現代で愛がスバラシイということは論証不可能な命題のようなもので、誰も疑っていない。ただ人格障害の人たちを見るときに、僅かに疑問がさざ波のように心を揺らすが、すぐにあれはオカシイ人だからと自分を納得させるのだ。
こ のことに答えは出ていない。吉野朔実も描くだけで解決は示していない。主人公の心理学者である森依四月は「私には恋愛の才能はない」といいつつアルコール に耽溺している。他人にはアドバイスできても自分の問題は解決できないように見える。しかし本当に愛は必要なものなのだろうか。慈悲とか大切にする気持ち は愛とは別物で、仏教やキリスト教では愛ではなくそういう言葉を使ってきた。愛とは性愛の拡大概念のことであるから、(現に今売られている愛は全て性愛 だ)森依四月に才能がないのは必ずしも不幸なことではあるまい。しかしそれでも彼はズブロッカを朝から飲む。時代の軛から逃れるのは彼のような知性を以て しても難しいのだろう か。

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