宗谷岬・宗谷丘陵
文学散歩 1

            海 峡    寒川光太郎

 鬱蒼とした樹海が、何処までも限りなく続いている。
 その間に二三軒の土人部落が、忘れもののようにポツリポツリと建っている。それが蝦夷内地の風景であった。
 この部落伝いの細道を、北へ北へと進んで行くと、軈て荒々しい潮流が岩を噛んでいる断崖に出るであろう。樹海は此処で盡きている。緑の限りない波涛は此処で代って渺々とした紺碧の海が始まるのだ。
 険岨な絶壁の麓に、僅かばかりの沃地が取残されていた。そこに、土人達に依って古くから開かれた小港、宗谷が、古ぼけた集落とだだっ広い漁場倉庫役宅等に依って示されていた。
 此処は、末だ唐太の漁場が開かれぬ頃から、漁湯の他に奥地土人達の交通と貿易との要地になって居た。かって第一の海峡を越えて、津軽秋田辺りまで南下したギリヤーク・オロッコ両族も阿部比羅夫の東征に遭い、この第二の海峡へ敗退殺したという歴史を持っていた。そんな往古でなくても、山靼や樺太アイヌ人の交易所として極く最近まで続いたのは事実である。今は又新たに第一の海峡と同様の使命を必要とした。
 宗谷駐在を命ぜられた傳十郎が、津軽兵数十名を率いて此処に到着した頃は、ユノ号襲撃の噂が未だ騒然と飛び交っていた。
     (中略)
 明くれば文化五年、四月十三日、空は曇っていたが、風は激しくない。沖を見ると僅かに波うねりが見え、海鳥の羽搏きすら聞えてくるどんよりと静かな朝であった。
 頬に当る風は冷え切っている。旅立つ者にとっては、どんよりしているが、ぐっと心を引き締める爽快な朝であったに違いない。別れの冷や酒が汲み交わされた。二人は旅行している間にいつもこの意義ある春を送らせてくれた風景を、思い起こす事が出来るようにと、砂丘、平野、樹々、部落等を振り返り、それをしみじみと胸に吸い込んだ。
渡海する者達は既に小伝馬に乗り込んでいた。口々に挨拶が叫された。二人は再度振り返り、これっきり見ることが出来ないとでも言うように、勤番所詰めの同僚や、駐屯兵の顔を一つ一つ凝つめた。オオセグロ鴎が高く翻った。磯の香がぷ〜んと強く匂った。
     (中略)
 傳十郎と林蔵とは、こうして第二の海峡(宗谷海峡)へ船を乗り入れたのである。

         (河出書房 昭和一五年)

 

            風 の 砦   原 田 康 子

 十三浜を出てから三日目の朝、昌徳丸は積丹半島突端のカムイ岬沖にさしかかった。西海岸第一の難所といわれているところである。船乗りたちは、神酒と米を海に投じて合掌し、帆をなかば下げて、ここを乗りきった。
 カムイ岬までは、蝦夷地の山が波間に見えかくれしていたが、潮の流れがかわったのか、カムイ岬を過ぎると、陸地はまったく見えなくなった。目にはいるのは、空と水ばかりである。海は黒味をおび、風は冷たさをましてきた。
 船尾の日章旗が、香織の目にしみるようになった。二年前の安政元年(一八五四)、幕府は、この国のすべての船は船じるしとして日章旗を用いるよう布告を発していたのである。それは、外国船と識別するための処置であったが、香織は日章旗のあざやかなくれないを見ると、なんのためでもない、国事のために、異郷へおもむきつつあるのをおぼえずにはいられなかった。そして、その日章旗と並んで、佐竹家の船じるしが、潮風に引きちぎられそうにはためいていた。
 四日目の午後、香織は、行手の水平線上にぽかりと浮んでいる山の頂をみとめた。富士に似た山容の山である。利尻島の山であった。
 翌朝、香織が目ざめると、山は眼前に迫っていた。島全体が山をなしている突兀とした峻峰である。山はまだ雪におおわれ、朝日を受けて薄くれないに輝いていた。
 利尻島と礼文島のあいだをぬけると、目的地まではひと息だった。行手に、ひと筋の帯のように陸地がのびていた。山らしい山のない、低い山地のつらなりのようである。その陸地のつらなりとはべつに、はるか北方におぼろな島影があった。「あの遠くの島はなんだ。北蝦夷か」香織が聞くと、
「へえ。唐太でがす」と、船乗りは答えた。
 その日の午後、昌徳丸は宗谷に到着した。

 宗谷の澗は、小さな崎に抱かれていた。
 丘陵が海岸に迫り、崎に近い丘の下に建物がかたまっていた。わずかばかりの建物であるが、いずれも和人の手になった木造の建物である。蝦夷地の北端にありながら、宗谷は早くからひらけた漁場であった。
 すこしはなれて、蝦夷人の集落があった。こちらは家屋の数も多い。船上から見ると、集落は背後の丘とおなじ枯草色をしていた。
蝦夷人たちが、ものめずらしげに船着場の近くにむらがっていた。子供もいれば、姥いた者もいる。蝦夷人には結髪の習慣がないらしく、男も女も肩まで髪をのばしていた。彼らの眼窩は深く、あきらかに和人とはことなる相貌である。男たちの顔面はひげでおおわれていた。
「みごとなひげだな。まるで鍾馗だ」と、運平が言った。
 それよりも香織をおどろかせたのは、女たちの口のまわりの入れずみである。入れずみで、上くちびるを薄青くふちどった女が、そこここで目についた。土崎を出て以来、ひさかたぷりに踏む大地であったが、香織は辺土に一歩を印したという感慨を抱かずにはいられなかった。
     (中略)
 宗谷岬までは、二里近くの道のりである。砲台を構築中の出鼻の下をまわって、海沿いに北へ進むのである。
 道は悪かった。踏みあとをひろげた程度の道が、とぎれとぎれについているだけである。あとは砂浜をたどるのだが、崖が落ちこんでいるところもあり、そういう箇所は徒のほうが安全だった。
 香織は、馬には慣れていなかった。九十石の生家も馬上の身分ではなく、正式に馬術を身につける機会はなかったのである。しかし、この広大な蝦夷地に駐屯するには、馬をこなせなくてはならない。陣屋で馬を用意したのも、それを考えてのことだった。
 香織は矢立てを手に取り、難所や砂浜のありさまを一々書きとめながら先へ進んだ。馬で岩礁を越えるのは気骨が折れたが、運上屋や幕府の役所へ出かけるよりは、はるかに気持がよかった。
 ところどころに蝦夷人の小さな集落があった。宗谷の集落とおなじく、萱屋ばかりである。犬が一行に向って吠え立てた。大人は宗谷へはたらきに出ているのか、目につくのは年寄りと幼児だけで、どの集落もひっそりしていた。
 昼近くに宗谷岬についた。低い丘の先端が砂浜に落ちていた。岬という感じからは遠かったが、ここから北蝦夷まで海上十二里、ここが蝦夷地の極北であった。雲がひろがっていて、北蝦夷をのそむことはできなかった。

      (北海道新聞日曜版
        昭和四六年二月〜四七年四月)
        (新潮社、昭和五八年六月)
   
北 の 岬     辻 邦 生

 こうして旭川から七時間の汽車旅のあと、私が稚内の駅前におりたったとき、東京で考えたことも、直子のことも、あれほど私につきまとっていたマリ・テレーズへの思いも、遥か昔の出来事のように感じられた。私は、何か宿命の糸のようなものに引きずられて、この長い旅をつづけてきたような気がした。それはただまっすぐマリ・テレーズのところにつづいていた。私はそのすじみちを最後まで辿ってゆくほかなかった。私は半ば自動的にタクシーに乗り、運転手にアドレスを示し、車が動きだすと、身体を後に倒して、眼をつぶった。自分がいまマリ・テレーズのそばに来たのだという実感はまるでなかった。まして数分後に彼女に会えるのだという気持などまったく起らなかった。ただ早くこの苦しい旅の終りまで行きつくしたいと思うだけだった。その結果がどうであれ、私ば、旅の途中、どっちつかずでいる状態にこれ以上耐えられなかった。しかしそれも終るのだ。それも間もなく終るのだ、そう私はひとりごちた。
     (中略)
 季節はずれのために、宗谷ゆきのバスの乗客は、私たちをのぞけば、いずれも士地の人々だった。籠に野菜や魚や干魚を入れたのを椅子の下に置き、顔見知り同士で、近在の噂や、漁業組合の話や、今年の夏の景気などを話しあっていた。
 私たちは、町を出てゆくバスの窓から、激しい風に吹かれる北の海と、湾曲して遠くのびている海岸線を見つめた。
「晴れていると、もうこの辺りから、樺太が見えるんですって」
 マリ・テレーズはそう言って、水平線の方を指した。
 海には低く雲が垂れこめ、暗澹とした海面に波が白く牙をむきだし、長い荒涼とした海岸線に打ちよせていた。海岸線は黒ずんだ岩が累々と重なり、波しぶきをあげ、いたるところに海藻が打ちあげられていた。
 丘陵状にのびている岬は、かたい黒い岩に覆われ、風に吹かれた灌木が岩角にこびりついていた。海がしけていたためか、海面には漁船らしいものの姿はなく、風の下で波だけがもだえ、飛沫をとばし、時おり鴎が風をついて岬の方へ飛び去っていった。
 バスは途中二度ほど止っただけで、岬の先端に着いた。先端には燈台があり、燈台からすこし離れて、小さな部落が風をさけるようにかたまって見えた。
 帰りのバスまでの三時間ほど、私たちは燈台を見学したり、燈台の上に備えつけられた望遠鏡をのぞいたり、部落の裏の松前藩士の墓を見にいったりした。
 部落からはずれ、本土の最北端といわれるその荒れはてた海岸に立つと、オホーツク海の波が咆哮し、身もだえ、岩を噛む飛沫が霧となって吹きとばされるのが見えた。風は海から真向いに激しく吹きつのり、その風の中に立っていると、息苦しいほどだった。しかし私はその岩の一つに立って、飛ぶ鳥の影さえ見えない暗澹とした海の遠くを見つめていた。

                     (筑摩書房 昭和四五年九月)