宗谷岬・宗谷丘陵散歩 2
○間宮林蔵渡樺出航の地
宗谷岬から西へ、3qの第二清浜地区に、「間宮林蔵渡樺出航の地」 があります。
彼の著書東韃(とうだつ)紀行≠ナも、ただ宗谷≠ニあるだけで漠然としています。
しかし、林蔵の墓が見つかったことや、アイヌの「林蔵祭」伝承などから、現在の第二清浜地区と考えられます。
文化5年4月13日、幕府から命を受けた林蔵(当時29歳)は、松前奉行支配調役・松田伝十郎とともに、第一次樺太探検に出発しました。この時、林蔵は郷里から持ってきた墓石を海岸に建て、探検への覚悟のほどを示したと言われています。
同年7月13日、第二次樺太探検のため、アイヌの舟に乗って単身で出発し、トンナイ(旧真丘村付近)で冬を越し翌年5月に樺太を北上、樺太北端のナニオーまで踏査して樺太が島であることを確認しました。
この時の探検地図が、後にシ―ボルトによって紹介され、樺太北部と大陸の間が「間宮海峡」と命名されたのです。しかし、幕命を受けた秘密事 項が逆にシーボルトによって明らかにされたため、林蔵は窮地にたたされ 不遇の余生を送ったと言われています。
アイヌ伝承者故・柏木べンさんは、「後生、宗谷アイヌは林蔵が建てた墓石のまわりで夜を徹して林蔵祭をした。」と伝えています。
○間宮林蔵の立像(宗谷岬)
世界地図にただ一つ日本人の名を残した、江戸時代の探検家「間宮林蔵」 の生誕200年にあたる昭和55年(1980)7月、その偉業を讃え建 立されました。
林蔵が樺太ヘ渡る決意を秘め、遥か海の彼方を見つめる姿の像で、肩には測量用の「縄策(じょうさく)」という道具が掛けられています。
○宗谷厳島神社
天明2年(1782)以前に建立されたいわれる宗谷厳島神社には、当時の貴重な奉納品が多く残されており、昭和45年6月に神社と奉納品の 数々は市の有形文化財に指定されています。
○宗谷護国寺
宗谷護国寺は安政3年(1856)に開山し、同6年に建立されました。 寺号を泰平山松寿院護国寺と称し、幕府直轄の寺院としてその持ち場は、 西は利尻・礼文・増毛から東は網走までの広範囲に及びました。明治46 年(1912)に一度焼失し、その後場所を変え再建されました。
安政3年に藤原義行が奉納した鏡が存在することから、この年をもって創始とするのが一般的です。江戸幕府の許可を受け有珠善光寺の住職が、 宗谷場所の協力を得て建立した幕府直轄の浄土宗のお寺でした。 創始当時は、利尻、礼文、樺太、増毛、綱走という、広大な地域を受け持っていました。
寺は、明治45年に一度焼失し、現在の「宗谷護国寺」は位置をかえ、 昭和25年に再建されたものです。焼跡は、昭和32年に、北海道文化財 に指定されました。また、この寺には、藤原義行が奉納した「釣鐘」、吉本善京筆による「懸額」などがあり、稚内の文化財に指定されています。
○旧藩士の墓(宗谷公園)
文化4年(1807)江戸幕府はロシアの南下政策に対する警備のため に、東北地方の津軽藩などから多くの藩士を北の寄りに派遣しました。 しかし宗谷の冬は想像を絶するすさまじさで寒さと野菜不足が原因と思われる水腫病にかかり、多くの犠牲者を出しました。 旧藩士の墓は全部で13基あり各所に点在していましたが、地元有志の 手によって昭和31年に宗谷公圏内に移されました。
江戸幕府が、最初に蝦夷直轄を決行したのは文化4年といわれています。 ただ単に、寒きに強いはずと書う理由で、本州最北端の津軽藩士が、まず、 宗谷に派遣されました。津軽とは、全く違う厳冬のため多数の越冬死者を 出しだといいます。
そして、翌文化5年に、同じ東北の会津藩士1,293人が交代要員と して派遣されてきました。会津藩士は、宗谷のほかに樺太、利尻・礼文にも分駐され、宗谷には346名残ったとされています。
宗谷での越冬は、想像を絶する凄まじさで、一冬で50名が水腫病などで死亡したと記録されています。旧藩士の墓に葬られる3名は、いずれも文化5年の6〜7月の死亡であることから、寒さと野菜不足による水腫病とあわせ、慣れぬ生活が屈強な男達をも死に追いやったものと想像されま す。
旧藩士の墓は全部で13あリ、会津藩士は3名、秋田藩士2名、残りは幕府関係者のものとみられます。宗谷公園に安置されている墓は、近くの海岸に点在していたものを明治44年に村民の手により1か所に集め、さ らに昭和3年現在地に移されたものです。
以来、地元では毎年9月18日盛大に慰霊祭をとり行ない、この地で果てた旧藩士の冥福を祈っています。この時代から単身赴任の始まりと思われます。
地元の俳人、岡崎古艸(こそう)の句 『 たんぼぽや会津藩士の墓はここ 』
の句碑が、ひっそリとたたずんでおり、幕未の激動期に遠く故郷を思ってこの辺境の地で果てた人々の無念の声が聞こえるような気がします。
○宗谷の発祥
宗谷とは、アイヌ譜でソ・ヤ、つまリ「磯岩の多岸」と言う意味です。 現在の宗谷地区は、元来アイヌ語でウエントマリ、つまり「悪い泊地」 と呼ばれていましたが、宗谷場所が開設されたとき、ウ工ントマリの名を忌み嫌って大岬地区にある弁天島のアイヌ語名「宗谷〈ソ・ヤ)」をあて たと言います。
宗谷の地は、安土・桃山時代の天正年間(1580)に松前氏の藩領と なり、江戸時代の貞享年間(1684〜1687)に松前藩が直領の「宗谷場所」(交易の場)を置いたことに始まリます。その後、当時のロシア 南下政策の脅威に対する防衛の中心地として、また・棒太渡航の拠点として、地元産品の交易場として世に知られるようになりました。
明治12年(1879)には、この宗谷村に稚内部落を含めた戸長役場 が置かれ、これが‘稚内市の開基”となったことからもわかるように、宗 谷村は稚内村より先行して発展してきたといえます。
その後、明治33年に、稚内を分村、そして昭和30年(1955)には発展した稚内市と合併し、現在に至っています。
○大韓航空機撃墜事件
昭和58年9月1日、ニューヨーク発アンカレジ経由ソウル金埔空港行き大韓航空KE007便、ボーイング747は、予定飛行コ−スを大幅にソ連、サハリン上空を侵犯。サハリンの基地から緊急発進したスホイ型戦闘機のミサイル攻撃を受け、モネロン島沖合に日本時間9月1日午前3時26分墜落。同機に乗っていた乗客2 40名と乗員29名の合計269名全員が死亡。
遭難現湯に最も近い稚内は、事件収拾と報道の前線基地となり、全世界の耳目を集めた。ブラックボックスをめぐる米ソの捜索合戦や遺族をのせた第7宗谷丸での洋上慰霊祭などは、毎日のようにトッブ記事として扱われた。また、人道的立場に立っての稚内市の事件の対応は、国際的にも賞賛を浴びた。
○稚内市発祥の地
明治12年(1879)7月1日、宗谷村に戸長役場が設置され、この年を稚内市の開基としています。昭和33年(1958)戸長役場のあった場所に、「稚内市発祥之地」か建立されました。
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