宗谷岬・宗谷丘陵散歩 1
宗 谷 岬
○あけぼの像
北海道の牛乳生産量100万t突破と、飼育乳牛50万頭突破を記念し て、昭和46年7月、宗谷岬の丘陵上に建設されました。
この像は、牧柵を型どった台座の上に、野良着姿の若い男女が、南に果てしなく広がる宗谷丘陵を見つめながら力強く立っているブロンズ像で、 “天北酪農の夜明け”を象徴したものです。
像の高さは、台座を含めて6.3mで、男の身長は2.25m、女の身長は1.95m あります。製作費は2千万円で、稚内市が9百万円を、道が3百万を、残 り8百万円は道民一般募金でまかない建立しました。製作者は、自由美術 家協会々員の峰孝氏です。
○旧海軍望楼(宗谷岬平和公園)
宗谷海峡を睨むように立つ旧海軍望楼には、1階は見張室と待機室で6個の銃眼窓、2階には5個の見張窓があります。
ここから宗谷海峡を見渡すことができます。稚内では、明治時代の建築物として現存する唯一のもので昭和43年(1968)市の有形文化財に指定されました。
○宮沢賢治文学碑
『「はだれに暗く緑する宗谷岬のたたずみと北はま蒼にうち睡るサガレン島の東尾や』
宗谷岬公園の一角に宮沢賢治文学碑「宗谷(二)」の一節を記した文学碑があります。
「宗谷(一)」と「宗谷(二)」は大正12年8月、賢治が稚内より連絡船の客となり、大泊に至る間に作詩したものといわれています。
前年11月最愛の妹トシを失い「永訣の朝」、「無声慟哭」を書き、勤めていた岩手県立花巻農学校の夏休みを利用して、トシとの心の交流の旅に出た彼の心情がみごとに凝縮された一節です。
『宗谷挽歌』では
稚内の電灯は一列となり、その灯の影は水にうつらない。
霧はいよいよ激しく、航灯の青い光の中をどんなにきれいに降ることか。
灯は移動しはじめ、たしかに船は進み出す。嶋れ、汽笛鳴れ、火はまた燃える」
と、稚泊航路開設当時の稚内港をうたいあげています。この文章もまた美 しく、哀しくそして心の底からつき上げる熱き思いが人々の心をうちます。
碑を建立したのは宗谷要塞重砲連隊宗谷会の人達で、僚友の霊に対する深い、哀悼と平和への祈りをこめて、この碑を「平和記念碑」と命名しま した。昭和61年12月12日、関係者多数参列の下、除幕式が盛大にと り行われました。
○宗谷岬音楽碑
ダ・カーポ、ボニージャックス、千葉紘子、芹 洋子などがレコーディングし、またNHK「みんなの歌」でも全国に紹介された郷土の歌宗谷岬≠フ音楽碑が「日本最北端の地の碑」に程近い場所に建てられています。
この音楽碑は、両端に旭川産のペーハン石2個を置き、これに宗谷岬 ♂フ詞と楽譜を刻んだ黒御影石を「かけ橋」として渡したもので、昭和5 5年11月に建立されました。
また、観光客にもこの歌を口ずさんでもらおうと、昭和57年に風見鳥 をあしらった音響装置を設置し、千葉紘子が唄う宗谷岬≠ェ訪れる人々の旅情を誘っています。
○宗谷岬灯台
宗谷岬の突端から南へ120mの高台に、紅白のツートンカラ−が鮮やかな 「宗谷岬灯台」があリます。灯台の歴史は古く、道内では野沙布岬(根室)、日和山(小樽)に次いで、3番目に建てられ、明治18年9月25日に点灯 されました。当時は石油を光源に使用していたと言うことです。
灯台の高さは17m、海抜約40mで、白い光17.5海里(約32q) まで達し、宗谷海を航行する船舶の重要な目標となっています。対岸のサハリンのノリオン岬までは、43qですから、宗谷海峡の中間ラインよリずっと先まで白い光が届いている計算です。また、この灯台は霧信号所並ひに無線方位信号所が併設されておリ、視界の悪い日には霧笛を鳴らしたり、白い光が属かない遠距離で航行している船舶のために、一日中電波を発信し宗谷の方向を知らせています。
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