北オホーツク・南宗谷
文学散歩 1


       えぞ地の旅    ブラキストン

 チカトムシから枝幸まで、わずか五里(十二マイル)四分の一で、昼ころそこに着いた。
 湾の中には、ジャンクが一隻しか見えず、すぐ番屋の前方に泊まっている。番屋の人は、日本人四人と、アイヌの人が三十人である。この人たちの話では、海は冬の間、何マイルも氷でふさがってしまう。
 夜はだんだん寒くなるので、毛布の上に、日本のふとんを一枚重ね、また下に一枚敷いた。これは、残りの旅行中、引き続き天気が寒かったので、その後ずっと実施したやり方てある。
 日本の家は、寒い気候には不向きである。単なる骨組みにすぎず─割れ目や裂け目だらけの厚さ二分の一インチの板で木のわくを囲ったものでー少しも寒さを防がない。
 床も同じように、非常に粗末な作りである。しかし、人が住んでいる建物では、床に厚いマットを敷いて、この不便を無くしている。
 不思議に思うだろうが、えぞのどこでも、寒さに適した家を建てている日本人を見たことがない。
 枝幸に駐在している、函館の若い一人の役人に会うが、この時斜里から宗谷の海岸で会った、たった二人目の役人である。この役人は、私を良く知っていると言ふが、見覚えがない。非常に礼儀正しい人で、一緒に長い間話をした。
 この人は、一八六八年の夏、女王陛下の船ラトラー号が遭難した時、宗谷の責任者で、事件の詳しい話をしてくれた。
 この人の意見では、礁脈があるのを全然知らないとしても、船は絶対、それ程岸近くを通るべきでなかった。これは、この地方を良く見た後では、全く否定出来ない意見だと思う。
 この海岸では、枝幸に着く前でさえ、漂流物の中に、銅のボルトが刺さったオーク材の破片があった。これは間違いなく、あの不幸な船の物で、ラ・ペルーズ海峡を流れる、強い潮流に運ばれたものである。
 幸いにも、枝幸には馬が二、三頭所属していて、そこの責任者は、政府の決めたいつもの料金で二頭提供してくれた。そして、私のつれのアイヌは前に泊まった所へ戻って、荷鞍と食糧を持って来たので、翌朝(十月二十一日)、また二人で、宗谷へ向け出発した。

    (北海道出版企画センター「えぞ地の旅」   西島照男訳 昭和六〇年一月)

            Thomas Wright Blakiston
                 一八三二年英国生 探検家・鳥類研究家・事業家  文久三年函館へ 
                 日本の南北動物の分界線ブラキ ストン・ライン(津軽海峡)発見





     オホーツクの旅     戸川幸夫

 厳しい北涯の自然と詩情とにふれてみたいという人なら、冬の十二月ごろから二、三月ごろまでに、この地を訪れるがよい。
 空はねずみ色の重い雪雲に覆われている。たまさかに太陽が輝かしい顔を出したかと思うと、つぎの瞬間に猛吹雪が襲ってくる。
 吹雪のあいまに、台地のつらなる宗谷岬にたたずんではるか北の方を眺めると、懐かしい樺太(サガレン)の山々が雪をかぶって、いぶし銀のように光っている。海はとろりと眠たげで、流氷が静かに流れてきている。
  ねずみ色の雲おもかりき
    その雲の下に白々と岬ふぶけり
 こんな歌を作ったのも、この岬の上であった。

           (小学館「日本の旅(1)北海道」 昭和四五年四月)



     オホーツクの海岸をゆく   田宮虎彦

 私は眼の前にひろがるオホーツクの海を見ながら、その流氷の話を思い出していた。季節にはめずらしいほどの暖かさが数日つづいていて、日差しがキラキラと輝いていた。だが、そんなオホーツクの海にも、荒涼とした冬の海がどこかにかくされているきびしさが感じられた。海の色がいつか黒ずみはじめている。熊笹の原野にかろうじて生えた木々が、まるで灌木の林のように、熊笹の丈をわずかに越すあたりから、幹も枝も海から吹きつける烈風のかたちにみにくくゆがんでいる。すでに北オホーツクの海であった。
 北見枝幸の町から浜頓別の町までの間は、砂丘のつづくオホーツク海岸の中で、ここだけ特異な海岸である。ウスタイべの岩石海岸も異様だが、北見神威岬も怖しいように吃立した巨岩ー巨岩というより、一塊の岩そのものが山となって、きり立つようにそそり立ち、今にも雪崩れ落ちて来そうに思える。アイヌはこの岬を魔神の鼻とよんだ。
南オホーツクの能取岬と、北オホーツクのこの北見神威岬は、オホーツクの海沿いの今度の旅で私が思いがけず見ることの出来た美しい岬であった。
 オホーツクの海沿いの旅は、もちろん数多い湖沼や原生花園、また広い原野や砂丘のつらなりを見ることに楽しさがあるに違いない。幾度もくりかえすが、北見神威の岬を見たあとで見た浜頓別のベニヤの原生花園やクッチャロ湖、猿払原野に点在するカムイト沼やポロ沼、原野をきりひらいた猿払牧野も、南オホーツクの湖沼や原野や原生花園と同じように、広く大きい北海道の自然がいっそう素朴な自然のままに残されている美しさで私の心をとらえたのであった。だが、私は、能取、北見神威の二つの岬を見たことで、私には、今度の旅は岬を見る旅であったともいえそうに思う。そして、その岬の旅の終りは、宗谷岬であった。

                  (「旅」昭和四五年七月)



     荒涼の地の果て・宗谷岬   辻 邦生

 私はその後、運転手のすすめで雪のなかを鴉が群れる頓別の漁港まで出て、そこからオホーツク海を心ゆくまで眺めた。海は雪にとざされていたが、波は思ったよりおだやかだった。ただ海の表情は暗かった。雪のなかで海の色はほとんど黒に近かった。
 神威岬にいったのはそこが岩の突出する岬であることを、写真で見ていたからである。私はオホーツクの波のしぶきに濡れながら海へ突きだしているこの岬を見たときそれが私の夢想にあった北の岬であることを実感した。岩群は高波にすっぽりと頭をかくし、やがて白い波の糸を引きながら浮びあがり、岩のまわりで波が騒いだ。せめてそのとっつきまで行きたかったが、雪が深く進むことができなかった。
「物寂しい感じでしょう」と運転手が帰りに私に話しかける。物寂しい?
 たしかにそうだ。しかしこの荒涼たる眺めを私は自分の心として見るために来たのかもしれぬ─そんな小説の主人公の気持を思いだした。
 その日、私は一日オホーツクに沿って南下した。それも普通列車と定期バスに乗って・・・・。北見枝幸から雄武までは汽車もなかった。しかしゴム長の着ぶくれたおばさんたちや学校帰りの中学生や親戚に呼ばれてゆく親爺さんたちが生活の匂いをむんむんさせて、列車やバスを乗り降りした。私はその生活の温みに心がなごんだ。
 朝のうちの雲はやんで、嘘のような青空が広がり、オホーツク海も青黒い。鯖の背のような色に変っていた。波はなく、真白な雪原の向うに、いきなり版画のような海があるのだった。防風林の木々が斜に傾き、見えない風力の強さを示していた。

                 (「旅」昭和四七年二月)



      オホーツク街道    司馬遼太郎

 浜頓別町にむかっている。
 なによりも幹線道路が除雪されているのがありがたかった。
 オホーック海岸に沿う国道238号は灰色のゴムでおおわれたようになめらかで、氷結もせず、濡れもしていない。この道路を走っていて、あらためて日本が文明国であることを認識した。
 ときどき路傍に除雪車が置かれているのをみた。早朝に活動するのか、運転者はいなかった。
 雪は横から吹きつけてくる。
「このあたりの子供は、雪は横からふるものだとおもっています」
 と、稚内できいた。
 浜頓別町にちかづいている。雪は、吹雪のかたちで、車体をなぐりつけた。
「シタギです」
 と、運転手さんがいった。
「こいつはシタギだ。しばらく息をひそめていれば、やむ」
 というふうにつかわれる。小学館の『日本方言大辞典』に出ている。「突風。北海道増毛郡」とある。

 浜頓別町は、クッチャロ湖畔にある。
 北海道にはべつに屈斜路湖があつて、いずれもアイヌ語の咽喉ということばだそうである

 クッチャロとは、正しくは′ホののどというべきところを、湖を外して命名されたものらしい。
 この湖は海岸に接している。それに海岸に湿原があるため、国道238号はわずかながら内陸に入っている。
 海が見えなくなると、湖になった。
 その水辺に越冬中の白鳥がたくさんいた。
 シベリアからやってきた連中で、幼鳥が多いらしく、色が煤けていて、白鳥というより灰色鳥である。幼鳥はみなこんな色だそうで、成鳥になるにつれて、バレエの衣装のように白くなる。
 湖畔で、白鳥に餌をやっている人がいた。
 山内昇という一九三一年うまれの人で、営林署を六十歳までつとめおおせた。
 余生のすべてをクッチャロ湖の水鳥の世話にささげているというのである。
     (中略)
 道路は岬を突ききって、むこう側に出た。神威岬が、背後になった。
 同時に、地形が、かわった。
 海岸からのひらたい段丘の面積が、ひろくなっている。すべて雪原である。

 佐藤隆広氏に出あったのは、この雪の道路上においてだった。氏は、小さな車を、路傍にとめていらした。
 このあたりの地名は、目梨泊という。泊は日本語からアイヌ語に入ったことばで、船の停泊地のことである。泊という日本語は、「万葉集」にも、しきりに出てくる。
 目梨は、アイヌ語である。東風が吹くときの泊ということらしい。山田秀三氏の前記の本では、「東風の荒れる時には正に有難い停泊地になったことであろう」という。

 あいさつもそこそこに、佐藤さんが雪原を歩きだした。雪の下には、数百年におよぶオホーツク人の遺跡がうずもれている。
 一歩踏みだすと、すねまで雪に没した。歩くには、それをいったん、それも高々と抜かなければならない。そういう歩行を何十回もくりかえすうちに、疲れてきた。
「村井さん、あの山ぎわまでゆくのでしょうかね」
 村井重俊氏にきくと、このひとはすでにオホーツク人になりきっていて、「いや、そこまでは行きません。きっと細い谷川のあたりまででしょう」と言いきった。
 結局、村井氏が予見した谷川があるらしい地形の近くまできたとき、先導してくれている佐藤隆広氏が、足をとめた。
「このあたり一帯です」
 予見は的中したが、見たところ、白一色の雪原である。この下に、住居もあれば、墓壙もあり、土壙もある。土壙だけで二百五十三ヵ所もあり、それらを総合して、「目梨泊遺跡」という。当時、この大きな〃町〃にいたひとびとにとって、当然ながら水が必要だった。
「谷川はどのあたりでしょう」
「谷川というより、沢でしょうか」
 と、佐藤隆広氏が、北の方角を指さした。そういえば雪原がすこし窪んでいるょうにみえた。
「住居跡は、沢に面していて、それもすべり落ちそうなところにあるのです」
 水を得やすい場所がえらばれたのだろう。

             (朝日新聞社「街道を行く」 平成五年八月)
             (朝日文庫「街道を行く」 平成九年一月)



       いざ北オホーツク  渡辺俊博 

 再びバスに乗り中頓別の街を出ると、〈北緯45度線通過地点〉の標識を通過した。道路に線があるわけじゃないけれどなんとなく感動する。やがて浜頓別ターミナル到着。
 ここから歩いて十分くらいのところに「ラムサール条約登録湿地指定(平成元年)の〈クッチャロ湖〉がある。
 ここには春と秋に、一万羽以上の白鳥がやって来るらしい。周辺にはキャンプ場やレクリエーション施設もあり、冬にはスノーモービルや帆かけスキーが楽しめる。
 湖畔に沿って一周はできないが、車でグルリとまわってみる。道道七二四号から入って行くと、途中に〈クローバーの丘〉があり、ここからはオホーツク海や湖が望める。さらに走り国道二三八号に出て浜頓別に向かうと〈よつ葉乳業〉の工場がある。その工場の裏には〈ベニヤ原生花園〉が広がる。

         (北海道新聞社「北海道各駅停車
                      見て食べ歩き」平成八年七月)

 

       新緑の北見山地   志水哲也

 やっとぺンケ山だ。ペンケ山直下の雪渓に辿り着いた。気が狂いそうなヤブこぎからようやく解放されて、雪渓に這い上がり、ヤブのなかでできた手足の無数の掻き傷を見る。
 あちこち血だらけじゃないか。
 疲れきった体を春風が優しく撫でる。モンシロチョウが風にフワフワと揺れながら飛んでいく。
 ペンケ山の頂上に上がるといきなり視界が開けた。海だ。北に向かって立つ僕の左に日本海、右にオホーツク海、左右から波に押し寄せられて北に延びた陸地が宗谷半島だ。パンケ山、知駒岳、イソサンヌプリ、幌尻山と、標高五○○b前後の丘陵が、その北端、宗谷岬に向かって緩やかに続いている。その向こうには、いまは見えないが、サハリンがある。
 西に目をやると、青々したサロベツ原野を天塩川が横切り、その向こうには紺碧の日本海。そして海の上には艶美な姿で利尻富士が浮かんでいる。
 利尻。何度も行こうとして行きそびれた山だ。僕にとって利尻は、冬の利尻岳西壁単独登攀を意味していた。利尻に渡るときは、それを実行するときだと、二五歳で初めて北海道に来たときから、僕はずっと信じてきた。冬が来るたび、来年でもいいや、山は逃げない、などと思っているうちに、実行しないまま年月がたってしまっている。それにしても、そんな愚直とも言えるような思い込みを、あと何年持っていられるだろうか。歳取るごとに丸くなっていく自分への焦り。
 決めた。風は強いがここで今晩はキャンプしょう。テントを張り終わると外にマットを敷いて、その上に腰掛けて、ボーッとしてしまう。知駒岳ぐらいまで稜線通しに北上しようかと思ったりしていたが、ここへ来て、それはもうどうでもよくなってしまった。
 この先には雪がないのだ。僕の旅したい北の山は、雪がなくなってしまってはダメなんだ。僕が焦がれてきた北の山は、いっも雪があった。もうほんとうに、これでやめにしよう。そうして僕はこれまで五ヵ月間の、六○○`に及ぶ山稜と雪の思い出に浸る。
 やがて、太陽は真っ赤に染まって、ちょうど利尻富士に沈もうとする。その手前に長く横たわる天塩川の蛇行した流れに、西陽が照り映える。僕はその美しい光景に見惚れ続けた。
東天から今夜も闇が広がってきて、言い表わしようのない物寂しさに襲われる。もうおしまいだ。これが最後の晩なんだ。
 なぜかどんどん目が冴えてきて、ぜんぜん眠くならない。翌朝、起きる時間や出発する時間が決まっているわけではないし、いつまでに帰らなければならないわけでもない。この際だ、今晩は眠くなるまで、次々と湧き上がってくる思い出の一つ一つにつき合っていよう……。

         (白山書房 「果てしなき山稜」  平成七年五月)