北オホーツク・南宗谷
文学散歩 2

   

      嘱託医と孤児   石坂洋次郎

 オホーック海は濃霧の海だ。昼も夜も乳白色の霧が海面にたてこめて盲目の白眼を思わせるような底知れない混沌空虚の気を漂わせ、空までが薄いコバルトに色褪せて、ともすれば気力も失せるようなわびしい旅情を誘発される。単調な一直線の沿岸は山が海近く迫り、足跡の乏しい小逕或は海を眺め或はトド松エゾ松の密林に隠れてかすかに細々と通っている。興部まで、枝幸、礼文、幌内、雄武等の大部落以外は二三戸乃至五六戸の小部落が点在しているだけで、土地の人間でも滅多にこの海岸線のコースを上下することが無いのだという。そう聞けば私等にとっていわゆる未墾の処女地というものだ。最初の鍬を打ち込む喜びは知る人ぞ知る─私等は夏八月の大陸的な熱暑と闘い、山に海にしわがれた讃美歌の合唱を響かせながら倦むことを知らぬ祝福された健脚を駆った。肩に喰い入るリュックサックの重味は一としお身心の充実を覚えしめた。だが何といっても人間があまり住んでないのだから福音を宣伝するという表向きの仕事が栄えないのは当然の事で、ただこの行程は困苦に耐え、反省をもち、内なる生活を鍛錬する意味では最も恵まれた適切な機会であったかと考える。
 二日目。幌内の少し手前にオチシュべッ川というのが流れ、河口に同名の小部落が出来ているが、この部落に入る一里ばかり先ぎで、道庁の嘱託医だと名乗る男と道連れになった。たださえ人なつかしい密林の中で農夫でも漁師でも無い智識階級の人間に出合ったのだから、私等は空谷の跫音とでも形容したい端的な親愛の情に駆られた。この男は骨組のガッシリした大兵魁偉な人物で、年配は五十代、髪は半白、片眼が思いきり潰れて、紫色のあざを生じ、髭のうすい艶々した童顔など、一寸早稲田の安部磯雄を思わせるような悠揚動ぜぬ風貌を具えていた。大きな麦わら帽子を阿弥陀に冠り、浴衣がけ尻端折、下を紐で結ぶ白木綿の旧式な長股引を穿ち、素足にゴム短、肩には医者鞄を吊り下げた太い自然木のステッキをかついでいる。扮装も一とかどなら、口も率直だ。
「わしは日露戦争で片眼になった。片輪者は内地におっても化物扱いされそうで北海道に流れ込んだ訳だが、これでも一頃は札幌で堂々と門戸をはって暮したものだ。ところがイヤな人間が段々殖えやがるんでとうとうこんな辺鄙な所に退却する事になったのだ。……貴方がたの念願は誠に奇特の至りだが、悪質下等の種は繁殖率が高く良質の種は少いというのが生物界一般の約束だから、これあ容易で無い骨が折れますぞ。それに世間がこの不景気では神様だけが繁昌するという訳にもいくまいて。ハハハ……」

                  (サイレン社 昭和九年八月)

 


     生命ぎりぎり物語   柴田錬三郎

 それは、オモチャのような、小さな車輸ひとつだけの軌道車であった。乗客は三十人余りですでに満員であった。半分が仕切られて貨物車になっていたからである。
 雄吉は座席がふさがっているのでデッキに立って外を眺めた。
 一望さえぎるもののない曠野がひろがっていた。時折り十戸ばかりの小さな集落が掠めるだけであった。
 雄吉は、ただ、無心に、原始のままの荒涼たる景色へまなざしを向けていた。
 六線市街は、雄吉の想像していたのよりずっとにぎやかであった。馬橇が頭から下げた鈴を鳴らし乍ら、幾台もとことこと駆け過ぎる。タイヤに滑り止めのチェーンを巻いたトラックが、馬橇を追い抜いて行く。
 その広い往還の左右には駄菓子屋、雑貨店、旅館、病院、小料理店、映画館、理髪店、そば屋、靴店、魚屋、肉屋、薬屋などが、いずれも粗末なバラックの建物を並べていた。内地では珍しい馬具屋、蹄鉄屋の店さきの風景は、どこかで見たような眺めであった。
「ああ――」
 雄吉は合点した。アメリカ映画の西部劇にあらわれる風景と、そっくり同じだったのである。
 蹄鉄屋のふいごの火があかあかと燃えて、あたたかそうであった。あるじと徒弟の打つ鎚の音が、のどかに往還にひびいた。
 人影はすくなかった。
 雄吉は、とある食堂の店さきで焼かれている鯛焼きを五つばかり買ってから、丸金造材部の事務所を尋ねた。事務所は、幌別川の橋のたもとに、いまにも川面へのめり込みそうな恰好で建っていた。
     (中略)
 道は市街地を過ぎると幌別川に沿っていた。
 流れは蕭条とした冬枯れのバッコ柳の疎林の中を、ゆるゆるとうねっていた。両岸ぎわには薄氷が張っていて、その上へ、雪をのせた枯葉がしだれて、先端は水面の薄氷を吸い上げたように、無数の水玉をたわわにつけていた。まるで白い花を咲かせたような美しさであった。
     (中略)
 次の日の午後―。
 雄吉の姿は、枝幸の町はずれにある古びた建物の中に見出された。
 その建物の入口には、
『枝幸発展記念館』
 と、記した木札が、かかげてあった。
 十坪あまりの内部には、熊の剥製が埃をかむっていたり、陳列ケースの中に、金の鉱石がいくつかならべてあったり、また、壁には、千石鰊場であった頃の写真やら絵図が貼ってあったりしたが、いかにも、さむざむとした眺めで、この記念館そのものが、さびれはてた枝幸を象徴しているようであった。
 雄吉は、火の気のないその室の片隅のボロ椅子に腰を下して、古びた書類を、披いていた。
 それは、砂金に関する書類であった。
 雄吉は、それを調べて、百年亡者の老人が、まだ生きているとすれば、どのあたりに住んでいるか、その手がかりをつかもう、と考えたのである。

 枝幸砂金が、はじめて注目されたのは、明治三十年ころだといわれている。
 ちょうど、枝幸のニシン漁がだめなったときと期を同じくしている。ニシン漁がだめになったので、人々の目が、しぜんに、渓谷の砂金に向けられたのであろう。
 枝幸砂金の発見者は、日本人ではなくて、トッド夫人であった、という。
 明治二十九年八月に、この地で、皆既日食があった。日、米、仏の観測隊が、やって来た。日本観測隊の隊長は、東京天文台長寺尾寿博士。米国観測隊長は、アマスト大学教授ダヴィッド・P・トッド博士。フランス観測隊長は、アッシュ・デ・ランドル博士であった。結果的には、この観測は、天候不順のため、不成功に終わったが、そのとき、たまたま夫と同行してきたトッド博士夫人が、渓谷を歩いてみて、砂金を発見し、この地方の地勢その他を観察した結果、砂金が豊富であることを提言した。
 ニシン漁がだめになっていたやさきであったので、人々は、われがちに渓谷へ殺到し、たちまち、ゴールド・ラッシュがはじまったのである。

            (文芸春秋社 昭和四二年)
           (春陽堂書店 昭和四七年一一月)



 

 【短歌】

ポロ沼はこほりて雪を被れどポン沼いづこ汽車にすぎゆく        猪股 泰

オホーツクに寒冷前線居据わりて異常低温つづく七月          青地 繁


 【俳句】

夏霞オホック海と云ふあたり         長谷川かな女

夕映えのオホーツクを背に魚箱うつ      福田甲子雄

啓蟄や翅あるものは日を讃へ         大山不死人

流氷の帯の先なる空暗し           鈴木 御風

オホーツクへ炎天傾きつくしたり       斉藤日方子

草に臥て草食べ足りて牛の夏          津田 清子

白鳥の村昏れ白鳥昏れのこる          新出 朝子


 【詩】

      北見の海岸 中野重治

沖合いはガスにうもれている
渚はびっしょりに濡れている
その濡れた渚に黒い人かげが動いている
黒い人かげは手網を提げている
黒い人かげは手網をあげて乏しい獲物をたづねている
黒い人かげは誰だろう
黒い人かげはどこから来ただろう

獲物はいつも乏しかろう
部落はさだめし寒かろう
そして妻子のあいだにも話の種が少なかろう
そして彼の獲物は売れようか
彼の手にも銭が残ろうか
いいえ
彼は黙ってこの海岸を北へ北へと進むだろう
手網をさげて
妻子を連れて
そして家畜も連れないで

やがてはこヽを汽車が通るやうになるかも知れぬ
大きな建物が立って
高い煙突から黒い煙が上がるやうになるかも知れぬ
そして賑やかな油ぎった歓声がわき上がるかも知れぬ

その時
黒い人影はどこにいるだらう
彼の息子や娘はどこにいるだらう
彼らは病気をせぬだらうか
そして医者がいるだらうか
彼らは死なぬだらうか

黒い人影はどこから来ただらう
黒い人影は濡れている

       (ナウカ社 昭和10年)
       (筑摩書房「中野重治全集」第1卷 昭和51年)