利尻島・礼文島
文学散歩 1


          利 尻 岳     深田久弥

 礼文島から跳めた夕方の利尻岳の美しく烈しい姿を、私は忘れることが山来ない。海一つ距ててそれは立っていた。利尻富士と呼ばれる整った形よりも、むしろ鋭い岩のそそり立つ形で、それは立っていた。岩は落日で黄金色に染められていた。
 島全体が一つの山を形成し、しかもその高さが千七百米もあるような山は、日本には利尻岳以外にはない。九州の南の海にある屋久島もやはり全島が山で、二千米に近い標高を持っているけれど、それは八重岳と呼ばれているように幾つもの峰が群立しているのであって、利尻岳のように島全体が一つの頂点に引きしぼられて天に向ってはいない。こんなみごとな海上の山は利尻岳だけである。
     (中略)
 出発点が海抜ゼロ米であるから、千七百米を越える霧の頂上まで、ゆっくり登って八時間もかかった。じっと立っておられないくらい風が強かったが、その強い風が瞬時霧を追い払って、眼の前にみごとな眺めを見せてくれた。それはローソク岩と呼ばれる大岩柱で、地から生えた牙のように突っ立っていた。それが流れる霧の間に隠見するので、よけいに素晴らしいものに見えた。
 帰途は鬼脇へ下る予定であったが、この強風中、岩の痩尾根は危険だというので、鴛泊道をとることにした。この下りは道はやさしいが実に長かった。鴛泊の町に入った時はもう暗くなっていた。
 翌日の午後、私達は利尻島を離れた。きれいに晴れた秋空であった。稚内へ向って船が島から遠ざかるにつれて、それはもう一つの陸地ではなく、一つの山になった。海の上に大きく浮んだ山であった。左右に伸び伸びと稜線を引いた美しい山であった。利尻島はそのまま利尻岳であった。それもいよいよ遠くなり、稚内の陸地が近づいて来た。やがて山も消え、その山の形に白い雲が一と所海面に湧き上っているのが、利尻岳の最後の面影であった。

    (朝日文庫「日本百名山」
             昭和五七年七月)



         北海道探検記    本多勝一

 雨がやんだので、街のすぐ裏にある久種湖へ行った。牧歌的な丘陵にかこまれた、静かな湖である。湖というには小さい感じだが、いわゆる観光的な匂いはまったくなく、茫然と無意味に旅をし、野宿するには、こんなところがいいと思う。ヨシキリがないている。しばらく釣糸をたれてみたが、何も釣れなかった。
 街に帰って、ある旅館に泊った。旅館のカンバンは出ているけれど、一種の民宿のようなものである。ふだんは家の人が使っている部屋を、客があるとあわてて片づける。そんな部屋が三つくらいあるようだ。隣の部屋から、旅行中らしい三人の女子学生の声がきこえてくる。べつに聞く気はないのだが、どんどんきこえてきてしまうので、しかたなくきいていた。明らかに、東京から来た大学生である。彼女らもまた、さいはて感を求めて北海道を旅行中らしい。むしろ北方的ロマンチシズムを感じたがっている典型のようなパーティーだ。
     (中略)
 あくる日、私たちはバスでスコトン岬に行った。海岸ぞいのバス道路は、船泊から六キロほど西の江戸屋という部落までしかないので、それから岬までは歩く。江戸屋から坂道を登って半島の稜線上にある台地に出た。台地はいちめんが草でおおわれ、高山植物に属ずるものもかなり混っているが、花の季節はすぎて、ノコギリソウなど数種だけが開花期の頂点にある。スコトン部落の家は、たがいにはなればなれになっていて、ゆるやかに起伏する台地の上に、小学校だけがやや目立つ存在だ。

         (朝日新聞社 昭和五九年二月)



         火の島・利尻   更科源
       

 鰊のさかんにとれた頃は、黄金の島といったそうである。私はこの島を見るたび、なぜか火の島という感じがしてならない。もちろん今、この天心に刺さるようにそそり立っている利尻岳からは、炎はもちろん一条の煙すらのぼっていないが、突如として海底から火を噴きあげて、ここ尖塔のような島をつくった日の壮観さが、そのまま凝固したような烈しい動きを、まだ持ちつづけているような島の姿である。
 一七一八・七メートルの利尻岳には、山頂には魔物が棲み、人間が登ると怪獣が現われたり、大暴風雨になって石を投げおろすといって、おそれ近寄らない山であったが、今は鴛泊、鬼脇、沓形、どこからでも登山道はひらけている。しかし昔の人が、魔物が棲むといって近寄らなかったのには、それだけの理由があったようにきびしい山で、雨が降るとたちまち谷間を奔流が怪獣のように走り、少し曇ると直ぐに密雲の中に身をかくしてしまう。登山を目的に島に渡ると、ときどき失望が待ちかまえているが、運がよいと島を一周するバスで、四方からいろいろに変化する山の姿を見ることができる。外海に向った島の東側は、何度かの山火事で木のほとんどがなく、地熱の底から噴きあげた溶岩と麁草だけで、水も乏しい。
 私はこのきびしい山容も好きだが、もう山の姿なんかに何の感興も示さず、黙々と浜辺で働いている、島の人たちの姿にむしろひきつけられる。島には馬の姿はほとんど見られず、仔熊よりもずっと大きい樺太犬が、いたるところで長長と寝そべっているのに出会ったが、一度も吠えられたことがなかった。真黒い毛をふさふささせて、やさしい金色の目をしていた。
 世の中のすべてが金色に見えるような目であった。この犬が山から木材や燃料にする根曲竹を曳出したり、魚を運んだりするのだということだった。

            (新潮社「北海道の旅」昭和五四年七月)



        礼文キャバレー物語  佐々木逸郎

 沓形から礼文島の船泊港にまわった船は、なにかの都合でそのまま一泊することになった。船に弱いプロデューサーは船中一泊をきらって宿を探そうということになつた。ところが、船泊に二軒しかない旅館の一軒は、香深を経て巡演中の楽団一行で満員。あとの一軒も、利尻から来た娘さんの婚礼の会場になっていて、今夜は貸切りだという。プロデューサーは懇願の末二階の布団部屋をものにして祝儀のある旅館にもぐり込んだ。
 夕食が済んだころから階下の祝宴はにぎやかになった。酒ではずんだ漁師たちの胴間声がソーラン節をがなりたてる。とても眠るどころではない。祝儀を承知で泊り込んだ私たちである。文句を言える筋合いではない。こうなったらこっちも酔っぱらって眠るほかはない。しかし、相棒はまだ船酔いが残っていると青い顔をしている。女中さんに聞くと船泊にキャバレーがあるという。私は耳を疑った。が、彼女は間違いなく二度目にもキャバレーと発音した。
 外へ出てふり仰ぐと低気圧一過後の満天の星である。私は宿で借りた下駄を鳴らしてキャバレーに急いだ。教えられたとおり、その店は家並みを外れた丘の手前に、砂に埋れかけて灯をともしていた。なんの変哲もない平屋である。屋号もない一杯飲み屋で、ここへ来る村の連中が勝手に名づけた<Lャバレーだ。玄関で下駄をぬぎ砂でザラザラした廊下を行くと、両側にそれぞれ三室ほどの部屋があり、左手奥の八畳ばかりの板敷きの部屋がキャバレーであった。酒とショウチュウとトリスウィスキー、焼魚に魚の煮つけに漬物に鍋焼きうどんにラーメンといったメニューである。
客は私ひとりで、中学を終えたばかりと思われる少女がうさんくさい顔で注文を聞き、≠ニうさんと呼ばれる初老の男が煮魚を盛り、酒のカンをした。少女はひとことも口をきかなかった。するうちに威勢のいい若者が数人キャバレーにくり込んできた。彼らは西の岬をまわったところの漁師たちで、船泊で楽団を聞いた帰りだという。若者たちが現われると少女は人が変ったように陽気になり、すんだ声で歌をうたった。

       (北海道出版企画センター「北海道ひとり旅」昭和53年7月)



         宇遠内幻想    木内 宏

 彼のことをはじめて知ったのは去年の夏だった。
 北端のスコトン岬から南端に近い桃岩に至る丘の道、海の道、通称八時間コースを宇遠内まで辿り着いたとき、ジュースの自動販売機の傍らで網をたたんでいた老漁師が、ここには変人が一人いてな、と笑いながら教えてくれた。どんな変人かと訊くと、皆が東海岸の香深井や船泊湾に面した浜中の家に引き揚げる冬になっても、一人だけ宇遠内に居残り、もうかれこれ六年も単身で越冬している、こんなところで万一病気になったり事故でも起こしたりしたら、おおごとだからと周囲でどんなに説得しても耳を貸さない、それどころかトドを仇のように追い回すのが趣味で、ひと冬に何頭も大物を仕留めている、とそんなふうな答えだった。だが、老漁師のいう「変人」にはけっして嫌味はなかった。むしろ村の名物男とでもいいたげなひびきがあった。
 私はこれから、そのレミントンの健サンを訪ねた話を書きたいのだが、その前にまず字遠内という土地について説明しておかねばならない。
 宇遠内はいいところだ、自然そのものだ、と人の話には聞いていたが、茫漠とした八時間コースの行く手に不意に現れた瞬間のその村は、確かに桃源境の趣があった。たぶん西に傾いた夏の日が淡く和らかで、そのうえたっぷりと水をたたえた海が穏やかだったせいだろう、数えたらわずか八軒しかない平らな家々のたたずまいが、長時間の行程で渇いた旅人の感官には、まことに心地よく映ったのだった。海を向き、肩を寄せ合うようにひとかたまりになった家々は、まるで俗人の世界を逃れた仙人たちの棲み家かとさえ思われた。何軒かの屋根からは夕煙が立ちのぼっていた。
 渚から家々までは五十メートル幅の石と砂の浜で、これは海からすぐ段丘がせり上がる地形がほとんどといってよい礼文島西海岸では、比較的ひろびろとした印象を与える。とはいっても、家々の背後にはすぐ岩山と狭い沢が迫っているので、たかだか五十メートル幅のこの浜自体が、東に向かってかなりの角度で傾斜することになる。
 その浜のいちばん奥まった高台には、流木が等しい長さに切られて積み上げてあり、その前でひとりの中年の主婦が、乾燥した昆布をいくつかの束にまとめては、何度も何度も家に運んでいた。波に打ち上げられた等級の低い寄り昆布のようだった。
 宇遠内をさす道は、南北にのびる八時間コースのほかにもう一本、東海岸の香深井と結ぶ山越えの道がある。陸路はそれですべてである。
 私はその山越えの道を夏、秋、初冬と三度歩いた。
 ほぼひと月間隔だったが、歩く度に風景は大きく変わった。

      (新潮社「礼文島、北深く」  昭和六〇年一月)



        利尻富士の見た夢    大庭みな子

 この北海の島の文書に残っている歴史は、これまでに訪ねた本州のどの島々より浅く、また実際島に住む人びとの大半はせいぜい四代目とか五代目とかいうのが多く、その出身地は石川・富山・青森・秋田がほとんどである。これらの地方は日本の中でもアイヌの血が濃いとも考えられるし、その血から言っても、気候・風土から言っても、移住し易い地であったのであろう。
 新開地の人びとには、古い共同体にはない妙な人なっこさがある。これは利尻に限らず、北海道全土に言えることで、本土から来た人びとに接するとき、自分たちがおじいさんやおばあさんから聞いた話を重ねて頷くといった気配があって、それがそこはかとない植民地風な哀感を漂わせる。

 タクシーの運転手さんは姫沼の入口で車をとめて一緒に湖畔のボート小屋への小径を歩きなボら、「これがえぞ松、あれはとど松」と林の木を教えてくれる。えぞ松ととど松を見分けるには幹の皮を見るのがよい。とど松は桜に似て横に亀裂があるが、えぞ松の幹はうろこのようにひび割れている。
 たんぽぽが咲き乱れ、くま笹がやっと晩春の色を濃くしている林。ななかまど、はぜに似た木が多いから、秋は紅葉が美しかろう。
 この姫沼は夕暮、ひととき鏡のように凪ぐことがあって、そのとき逆さに映る利尻富士の眺めは絶景なのだそうである。貸ボートが五、六そうあり、ボート小屋のお上さんは雇われマダムの素人っぽい人で、小女子に似た小魚を佃煮のように甘辛く煮たものをお茶受けに出してくれる。
 車の中から眺めた利尻富士は登ったらさぞかしの展望と思われる。裾野がなだらかにひろがっていて、八丈島の景色に似通ったところがある。ところどころ道路の脇に雪を止める柵があって、吹雪いてまろぶ雪のさまが想われた。対馬暖流の影響で内陸ほどの冬の厳しさはないということだが、それでもこの姫沼も冬は道が閉される様子である。

       (潮出版社 「島の国の島」  昭和五七年四月)



 
          利 尻 岳   田中澄江

 稚内から飛行機で礼文島に着き、礼文岳に登って翌日、鴛泊に着いて一泊。早暁の午前二時に宿を出た。稚内にもどる船は午後三時に出帆である。十二時間だけの許された時間で、利尻の中腹にある長官山までゆければよいと考えた。
 かつて一人の北海道長官が、部下たちと利尻に登山し、長官山まで達して引返したという。大変ふとっていたひとのようで、その志は称賛に値すると「利尻礼文国立公園昇格記念アルバム」に書かれている。いつか加賀白山に登った時、某県知事某氏が、ヘリコプターで室堂の前の草地に到着したのに出あったことを思えば、肥満体を、この千二百メートルの地点まで持ち上げたことはたしかにえらい。私も七十キロ近い肥満体である。ここまで六時間と見て、あとはお花畑を散策し、健脚組が頂上から下山してくるのを待とうと思っていた。
 登りはじめたのは三時。足の弱いひとは四四七メートルのポン山と、利尻火山の一噴火口のあとである姫沼湖畔一周のコースをえらび、私もまだ明けやらぬトドマツ、エゾマツの原生林の道を、懐中電灯の光を頼りに歩きながら、とつおいつ迷っていた。今度の山旅では、いつもの女ばかりの山仲間と、ニセコの目国内、樽前、夕張岳と登って来て、風邪薬を乱用したせいか、脚力はなはだ覚つかない。午前五時、夜も明けて、姫沼との分岐点も過ぎ、原生林の闇から脱けた頃は、とにかく長官山までを目標として、意外に歩きよい山道を歩きすすめた。
 午前七時、長官山に辿りつく。だんだん道も急になって息あえがせながら、朝陽にかがやく長官山の頂きが樹間に見えかくれするのを、あそこまで、あの場所までと重い足を引きずりながら来て、いつかその頂きを背後にすると、忽然と眼の前に頂きから麓までの雄大な斜面をもつ利尻本峰があらわれ、その山腹一ぱいに、黄にいろどられた花々が遠望され、一ぺんに疲れが消えてしまった。

    (文芸春秋「花の百名山」  文春文庫 昭和58年7月)



        花の島・礼文   更科源蔵
      
 利尻島は島の全部が山でできているようなのに、直ぐ隣りに並んでいる礼文島は、山らしい山のない静かな姿の島である。利尻島が円いのに対して、この島は細長くて、よく乾鱈の形をしているなどといわれ、あらゆる点で対照的であるのは、南の屋久島と種子島に性格が似ている。この二つの島の共通点といったら、どちらの島にも熊と蛇と兎がいないということである。
 この島は昔、現在の千歳のところにあったが、洪水で押し流されて海に浮び、流れ流れてここに止ったのであるとも、弁慶が夫婦喧嘩をした揚句に、宝物を入れた箱を背負って行こうと力を入れたら、荷縄が切れて落ちたのが島になったともいう。弁慶とは、この辺ではオキクルミと呼ぶ文化神のことである。
 この伝説の島は、どこへ行ってもべた一面の高山植物に覆われている。レブンソウ、レブンウスユキソウ、キバナアツモリソウ、ウメバチソウなど、私は昭和の初年、はじめてこの島に行ったとき、あまりのめずらしさに、思わず道端の花を手折っていると、島の子供にたしなめられた。
「おじさん。その花は採ってはいけないんだよ」私は恥ずかしさに赤くなった。当時、島にこの花園を大切にすることを教えた、すぐれた先生がいたにちがいない。
 花咲き鳥うたうという、古い言葉があるが、夏の礼文島は、正にその言葉にぴったりとあてはまるところだ。三百余種の高山植物は、弁慶が宝物にして背負って来たのかもしれないが、その花々の咲き競う中はコマドリ、ウグイス、ルリビタキ、カッコウ、ヒバリ、オオジシギなど、百種に近い野鳥たちの花に飾られた大ステージである。この野鳥たちにも保護の手がのべられているので、島のどこへ行っても小鳥たちは胸を張って、思いきり高らかにうたっている。とてもここが北海の孤島だとか、鰊に叛かれさびれたなどという陰は、微塵も感じられない。

    (新潮社「北海道の旅」 昭和54年7月)


            北海道の旅     串田孫一

 利尻のぎざぎざに突きあげた山容が、少しずつ変って来る。地図をひろげている友だちのところへ行って、その山と地図とを見比べ、明日の登りを想像した。道がはっきり出ていればいいけれど、この分だと雪もずいぶん多そうで、霧がかかると少し厄介なところがありそうに思われた。そんなことでもあると案外時間がかかりそうなので、明日の朝は出来るだけ早く出ようと思った。
 利尻に見とれているうちに、大分礼文島に近付いた。そして振り返えると稚内付近には高い山はないので、ちょうど中間あたりでも稚内の方は見にくかった。
 船室にいた子供たちがもうすっかり飽きてしまったらしく、母親につれられて甲板に出て来た。船尾の方はそういう人たちで賑わって来た。何かおもしろそうなことを言って笑っているが、エンジンの音が激しくてこの屋根の上からはよく聞きとれない。
 むらさきの影だった礼文島が、もう山肌も山襞も、海岸の凸凹さえもよく見えるようになり、利尻の方が幾らか霞んで来た。だが利尻には沢山雪があるので、谷と尾根との区別はいつまでもよく分った。
 利尻と礼文とは対照的な姿をしていて、近付くにつれて礼文島の、笹で蔽われたなだらかな岳に私たちはそれまで考えて見なかった魅力を覚え出した。あんなところにやわらかい陽光をうけてころがっていたらいいぞと思うと、船泊にちょっと寄って、すぐにまたここを去ってしまうのはいかにも惜しい。

               (筑摩書房 昭和三七年一二月)



  
      エヒノコックスとギリアク人 大江健三郎

 島は雪におおわれ、白く、そして過度に荒あらしかった。海は鉄色をしていて、鵜がときどきむっくりと頭をもたげて鉄の壁をやぶった。カモメは犬のような印象だった。僕は鰊漁の不振にあえぐ漁民というようなことをテーマにして礼文島へやってきたところなのだが、島全体の人間と土地の憂鬱の感情はたちまちこちらに感染してきた。しかも僕が島についた日から海はなお荒れはじめて、帰りの船の出港の見とおしはまったくたたないという噂である。僕はある種の監禁症状のなかで雪の道をのそのそと歩きまわり、綱元衆たちの話をきいてまわって日々をすごしはじめた。 

              (「旅」昭三七年七月)



      花の島・夢の島    加藤幸子

 海の幸はたしかに島の魅力の一つだ。けれど私を礼文島に引きつけた最大の力はほかにある。礼文島は全体が低いテーブルのような台地で、起伏が少ない。最高峰の礼文岳でも標高は四九○メートルである。それなのに、三○○種に及ぶ花々のほとんどが、本州の二〜三○○○メートル級の山に咲く植物なのだ。
 本州では高山植物は今やほんとうに〈高嶺の花〉になってしまった。生育地が標高の高い所であるうえに、開発や登山者の乱掘で、数も種類も激減してしまったからだ。
 しかし八二平方キロしかないこの島は、春から夏の終りまで高山植物に埋もれる。全島がお花畑になるのだ。その理由は礼文島が北緯四十五度という高緯度地方に存在しているからである。私は一泊二日という短い旅程の中で、なるべくたくさんの花に会いたい、という注文を坂野氏に出しておいた。そこで午後からは、島の西海岸に回ってみようということになった。
 礼文島でいちばんの花の季節は、エゾカンゾウとレブンコザクラが絵巻物のように咲きそろう六月中旬ごろだそうだ。私の旅はやや遅すぎてしまったのだが、途中の車窓からエゾカンゾウのオレンジ色が花火のようにときどき閃めくのが見えた。何よりも目だつのは、エゾニュウの奇妙な
花である。人の背よりも高く垂直に赤い茎を伸ばして、頂にカリフラワーを粗くしたような散形花序をつけている。あちこちに大男のようにニュウと立っている姿が面白い。
 車をおりた草原は、さながら高山植物のパーティ会場だ。赤紫のひらひらするパーティドレスはヨツバシオガマ、清純なレースのワンピースのタカネナデシコ、淡い色のドレスでうっむいているのはチシマアザミ、栗の花に似た白い穂をクリスマスツリーの形に突きだしているのはヤマブキショウマである。
     (中略)
 私たちは西上泊という地点に立って、断崖から海を見おろした。海底を這う茶褐色のアミーバ状の岩礁までが見える透明な海だ。入江をゆっくり横ぎっていくのは漁船だろうか。風が足の下からふわりと吹きあげてくる。そのたびにイプキトラノオの濃いピンクの穂が、いっせいにジャズダンスを踊る。
 岩場の下の急傾斜地に、思わず声をあげたほど鮮やかな紅紫色の花が群がっていた。礼文島の固有種のレブンソウだ。茎や葉にはやわらかい白い毛が密生している。花はスィートピーの花束を小型にして何十個も集めたょうな感じだ。礼文島の花の女王にふさわしいレブンソウは、なぜか烈風の吹きつける砂礫地に好んで生育する。自然の気紛れとしか言いようがないけれど、それゆえに辛くも盗掘をまぬがれているのです、と坂野氏が説明を加えた。

              (ミセス 昭和六〇年六月)



       礼 文 岳   田中澄江

 礼文岳の四九○メートルの、ツタウルシの生い茂る道を雨にぬれぬれ歩きながら、私たち山仲間が口々に語りあったのは、九十歳になって高山植物を見たかったら、礼文島へ来ればよいということであった。山にも登れる。
     (中略)
 雨が上がって、利尻は南の海上に、夕映えを受けて、朱赤の山容となって浮かんでいる。礼文は日本最北の島である。はるばると来て、これだけの花とこの眺めを見たらもう最高と満足し、桃岩の坂を北に下っていった。ハマヒルガオの咲く浜に向かう道には黄のエゾオトギリや、紫のミヤマオダマキもあり、その日まで東北の早池峰ほど、花の多い山はないと思っていたが、礼文はそれに勝ると思い、花盗人が、どうかこの島まで渡って来ないようにと祈る思いであった。
 礼文も利尻も対馬海流がとりまいていて、あたたかく住みよく魚の種類も多く、ことに戦前までは、鰊の豊漁で鰊大尽が大勢いたという。民宿の台所が広く、食器類の箱が隣の部屋にたくさん積まれていたのも、かつて鰊漁の時、東北地方から大勢の稼ぎ人が来た名残であったのだろう。その鯨が近ごろはばったりと来なくなって、今は観光の島となったが、鯨の盛んであった頃は、山の花などに眼をむけるものなど一人もなかったと民宿の主人がいう。

         (文芸春秋 文春文庫 「新花の百名山」平成7年6月)