豊富・サロベツ原野
文学散歩 1

         さい果てのお花畠     山本健吉
   
 ノシャップ岬から日本海の利尻水道に沿って、一路南下した。切通しから、ひょっこり利尻富士が見えて、歓声をあげたのは、どこのあたりだったか。南下するほどに、海岸地帯は砂丘をなし、その内がわは、海岸性原生植物が繁茂した湿原と、水溜り然とした小さな湖沼と、牧草が風になびく放牧地と、低い水楢の原生林である。
 海のかなたに、大きく迫るように押し出した恰好の利尻富士は、雪渓らしい白い爪跡を幾筋も立てて浮んでいる。海の色も、昨日の宗谷湾と違って、澄んだ青さが、海岸に近づくあたり緑色に変り、さらに砂丘に近く灰色を写している。この紡錘形の山容は、日本の到る処にありながら、他の山々から際立ち、多くの日本人の心をなぜかなぐさめてくれるのである。私たちはそれがどこにあっても、不二という。不二というのは、何時でも日本人の心の故郷の名であるらしい。
 利尻富士の場合は、眼前に空の青、海の青のかなたに、忽然と現れ、そこに置かれているのである。それは蜃気楼のように、光の異常屈折か何かで、そこに描き出された一つの像ではないかとも思えるほどだ。この日は薄く霞んだ空に、山の残雪が光ったり、消えたりした。
           (中 略)
 温泉が出るという豊富町でしばらく休み、身ごしらえしてサロベツ原野へ出掛けた。身ごしらえというのは、そこが低湿地で、ゴム長靴を穿かないとその中へははいれないのだ。サロべツの湿原は、もともと砂州で海から隔てられた潟湖だったのを、曲折を重ねながら流れるサロべツ川や天塩川などが運んだ堆積物が埋めて出来た土地だ。これらの土地の大部分が、海抜一m以下で、排水が悪く、融雪期には大半の土地が水没してしまう。ミズゴケやヌマガヤなど水性植物の枯死した繊維が化した泥炭地で、靴で踏むとしめった海綿を圧すように、ジクッと水分がにじんで来る。だが泥のようにぬかることはない。
豊富から海岸の稚咲内へ向って、サロべツ原野の真中を一本の道が貫通している。車を走らせているほどに、左右にエゾカンゾウのオレンジ色がいっぱいに咲き充ちている中に、はいって行った。
M氏に聞けば、六月中旬ごろはワタスゲの盛りで、一面真っ白な原野と化するという。エゾカンゾウは六月中旬ごろに原の東の方から咲き始めて、次
第に真ん中まで黄金色になり、七月中旬ごろ西がわの縁まで咲いて終るらしい。
 私たちは道路からまず左がわの湿原に踏みこんだ。遠くから見ていると、エゾカンゾウの黄色だけが目立つが、中で仔細に見れば、さまざまの湿原性高山植物が生えていることが分る。エゾイソツツジ、サワラン、ヒメシャクナゲゴゼンタチバナ、マイヅルソウ、ツルコケモモ、ガンコウラン、ホロムイイチゴ、トキソウ、モウセンゴケ、タチマンネンスギ、クロユリ、ミズバショウなど、教えられて一々書きとめてもきりがない。花時は早かったり遅かったり、いまはエゾカンゾウやハマナスやヒオウギアヤメなどが多い。
                               (「旅」昭和四九年六月)



   
       みどりの窓口とサロベツ原野   宮脇俊三

 翌日の日曜日、ようやく羽幌線に乗った。深川から留萌を経て終点の幌延まで鈍行で五時間、三五の駅と一五の仮乗降場に停車したから、なかなか乗りでがあった。
 その日は豊富温泉で泊まることにし、サロベツ原野の原生花園へ行ってみた。エゾカンゾウなどの湿原殖物がちょうど満開で、一面の花畑の向うに利尻富士が見えていた。私は女の子のように花園を彷徨したが、湿地にズブリと足を踏みこんだので、靴の中にたっぶり水が入った。
 豊冨は日本最北の温泉である。閑散とした広い通りの両側に数軒の旅館がパラパラと並んでいて、西部劇のセットを連想させる。鄙びた山の湯でもなければ、もとより歓楽郷でもなく、こんな温泉場は珍しい。湯は大正のはじめ、石油採掘の際に噴出したもので、灰黒色をしており、少し油の臭いがする。せっかくの温泉だから入ってみたが、気持のいい湯ではなかった。
 湯から上ると、まだ六時なのに夕食の膳が置いてあった。毛ガニが一匹、膳の中央を占拠して眼玉を剥いている。夏の西日がさしこんで、昼寝でもしたいようにけだるく、とても夕食の気分ではない。一人でカニと向い合っているのも気味がわるい。甲羅をはがしたり、足をむしったりする気になれない。私はカニには手をつけず、茶漬で軽く夕食をすますと外へ出た。
 一本道をちょっと歩くと、すぐ家並が切れ、小さな川にコンクリートの橋がかかっていて、下エベコロベツ川と刻まれている。名前は北海道らしいが、ごく平凡な川である。とくに見るものとてないので宿に戻ると、西日のさす部屋に蒲団が敷かれていた。
          (新潮社「汽車の旅12ヶ月」 昭和五七年一二月)

   

         利尻富士の遠望     坂本直行

 北海道の地名としては、不似合な感じがする豊富の駅を降りた時は、小雪をまじえた横なぐりの寒風が、湿原の一隅に屯ろした小さな市街を吹抜けていた。
 僕はある年の春ここを通った時、そこに育つ植物の生態を見て、根釧原野と同じか、あるいはそれよりも悪いように思えた。北辺の原野特有の、水とススキやアシの枯草が、いつまでも新緑にならないで、ただやたらに広い空間と湿原のひろがりがあるだけだった。
 僕は市街はずれの小丘に登ってみた。市街の西方には、海岸まで、荒涼とした枯草の湿原が広がっていた。サロベツ原野である。険悪な暗雲が低迷して、時々かたまって落ちる雪の灰色のベールが、風になびきながら視野を消しては去る、というような、初冬の重苦しい空模様の下で見る原野ほど、旅人の孤独感を深める風景はない。またそれは、旅愁というような生やさしい淡い感傷でもない。
 長い間の開拓生活の経験をもつ僕には、このような原野で生活するということは、どんなものであるかを敏感に読みとることができる。
     (中略)
 白くわき立つ波上に、山脚までを雪に染めて浮ぶ、峻烈な利尻富士の姿は、一日中烈風の中に立っても、眺めたいほど美しかった。例によって、よほどの快晴でないととれないといわれる、仙法志側の雲が、今日も山の中腹にまつわりついていた。
 僕は風に向って体を倒し、海岸へあるいた。こんな単調なところでは、変った構図というものを求めるのに、いつも苦労をするのだが、それはあるく以外にない。砂丘のハマナシもひどくみじめで、ここでは風というものが、すべての生物の生活力を吹きとばしてしまうようだ。
     (中略)
 翌日、稚内行きの車窓から快晴の利尻富士に視線を釘付けにされながら旅を続けた。突然、停車したかぶと沼の上に利尻富士がのっかっていて、僕はやにわに下車した。
 きのうは海に浮んだ利尻富土だが、今日は沼の上の丘からのぞく利尻富士である。
 また汽車に乗って少しいったら見渡すかぎりのアシの湿原があって、また夢中で下車した。今度は、そのアシ原の上に利尻富士がさん然と輝いていた。
 また僕は汽車に乗った。今度は抜海で下車した。ここではまた風が吹抜けていた。海岸まで三キロぐらいの直線道路をあるく。突然前が開らけて、波上に浮ぶ利尻富士が現われる。距離からいうと、稚咲内よりもっと近くなるのでここからの利尻富士がいちばん至近距離にあるだけに、大きく見えた。だが、僕の目には、稚咲内からの利尻富士が、一番美しく映った。
                       (茗渓堂「雪原の足跡」昭和五〇年五月)



       北海道の旅   串田孫一

 抜海、勇知、かぶと沼へ来てそろそろ原野がひろくなり出す。満腹してこれからは少し写生に精を出さなければなるまい。雲は多いが次第に天気は回復である。
 こういう時の雲は私には嬉しい。そして特に原野の果に明るい空がのぞいていて、頭上から遠く遠く雲が並び、その一つ一つの雲の、輪廓が部分的にはっきりしている。その同じような風景を何枚でも描き続けた。
 これがサロベツ原野だ、と時々溜息が出る。上サロべツ、下サロベツと一応地図の上では分れているけれど風景としての区別はない。ぺンケ沼、パンケ沼が遠くまで光っている。そのまた向うの、もう海岸近くには、細長い大小の沼があるようだが、それは見えない。そして南北に定規で引いたようなその海岸はどんななのだろう。天塩までの六十キロの海辺を、二日ぐらいで歩けるだろうか。
 これも次の旅の夢である。少し贅沢をして、牧場の貨物自動車でも一日かりられたら、それでこの広野をあっちこっちと見てまわってもいいが、それよりも、天幕を持って二つの沼のあたりに根拠地を見つけて、歩く方が遥かにいいだろう。こういうところを三日四日歩いていると、山とは違って、大地からしみこんで来るものがあるように思う。そしてこういうところこそ観光地になる心配はない。
                   (筑摩書房、昭和三七年一二月)



  浴客を迎える怪奇なオブジェ 」 ─豊富ガス発電所跡─
                               堀  淳一

 豊富からバスまたはクルマで豊富温泉へ向かうと、間もなく温泉市街だという頃、左手に奇妙な建物が見えてくる。
 「鈴木産業(株)豊富営業所」と看板の出ているクリーム色の大きな倉庫、大きな朱屋根、高い煙突。いやこれだけなら別に変哲はないが、朱屋根の右はじに奇怪な未来ロボットのような銀鼠色のジャイアントがくっついているのだ。
 何本ものパイプをむき出しにした、ひょろ高いガスタンクのような構造物。一つ目玉の頭からジカに太い右腕と細い左腕を垂らした巨大ロボットとも、ジャイアントロボットの内臓の模型とも見える。
 いったい何なのだ? と近寄ってみると、さらに複雑な構造が現れる。やたらに太くてゴツい梯子。反対に乗ったとたんにポキンといってしまいそうなキャシャな梯子と螺旋階段。くねっと曲がって垂れ下がる太いパイプ細いパイプ。うねりながらまつわりつく太い四角のパイプ。そんなものどもがからみ合っていて、いよいよ内臓だ。それともバカでかい未来派的オブジェ。
 かって動いていたガス発電所。これがこの怪奇なオブジェの正体だ。
 豊富温泉は、天北油田地帯の中心部にある。温泉が発見されたのも、一九三八年(大正一五年)に村井鉱業が行っていた。石油開発のためのボーリングによってであった。石油の採掘は現在行われていないが、天然ガスは鈴木産業の東北東約五○○メートルの地点で採取されている。一九五七年から七七年までは、これを使ってガス発電が行われていたのである。
 北海道電力が建設したガス発電所は、二○○○キロワットという出力をもっていたが、二○年を経て設備が老朽化したため廃止され、内部の機械類は撤去され、建物は鈴木産業にゆずられた。しかし外部はそのまま残されて、このように人目を惹くオブジェとなっているのだ。
                    (北海道新聞社「北海道 産業遺跡の旅
                        ─栄華の残映」平成六年一一月)




    《地蔵様、豊富へ》  =豊 富=

明治のはじめ、嘉納治郎作という人が、東京の隅田川下流の石川島をある人か ら譲り受けました。治郎作は、大阪で回船問屋をやり、また「菊正宗」というお 酒の醸造元でもありましたが、やがて店をたたみ、石川島に来て造船所をつくり ました。そして、八郎左ヱ門という人がお守りしていたという、石川島に伝わる お地蔵様も受け継ぎ、だいじにしていました。
しばらくして、治郎作の長男久三郎が、日本の山林の保護にあたる内務省山林 局の設置で、そのお役人に採用され、北海道の開拓に従事するよう命令を受けま した。それで久三郎は、父から譲り受けた石川島の造船所を他人に譲り渡し、お 地蔵と―緒に北海道にやって来ました。それは明治20年(1887)のことでした。余談ですが、 講道館柔道の嘉納治五郎氏は、この久三郎の実弟にあたりま す。
その後の明治29年、久三郎はお役人をやめ、札幌・小樽・天塩で次々と木 材業をしていました。そして、明治40年になって、大規模農場を拓くことを夢 みて、この豊富の地に足を踏み入れました。その頃の豊冨は、まだ兜沼付近しか 開拓されていませんでした。
久三郎が入植した東豊冨も、まだ人は全く足を踏み入れておらず、自然環境は 北の果ての地らしく、それはそれは厳しいものでした。何しろ直径1mから2mもある太い木や、高さが3mから4mもあるクマザサで覆われ、日光が1日たっ た3時間ぐらいしか地面に差し込まないほど、原始の姿そのままでした。入植しても作物はあまりとれず、人びとはわずかな食糧を物々交換してしのいでいたそ うです。
このようなありさまを見て、久三郎は、「これはひどい……。そうだ!あのお地蔵様をここに安置して、みんなを励まそう!」と、思いつきました。そこで、 1間(18m)四方のお堂を建て、お地蔵様もそこに移したそうです。その後、 苦しい生活を余儀なくされていた村人たちは、このお地蔵様に励まされ、畑仕事などにも 皆力を合わせて働き、また子供たちはこのお堂を中心に良き遊び場として元気に育っていきました。
このように、このお地蔵様は、豊富の地が開かれ、 人びとの暮らしが豊かに、そして明るくなっていくようにと、いつもあたたかい目で見守ってくれたのです。