稚内・抜海文学散歩 1


樺太への旅   林芙美子

 稚内へ着きました。寒い町です。
 心の中に、陽蔭で白くなったやうな蔓草が、ぐんぐん雲蔽して来るやうな淋しい町です。五月の二十四日に、津軽の海を渡って、私は桜や林檎の花の盛りを北海道の町や村で何度か見ましたが、稚内へ来ると、急に冷えた景色で、春どころか、今日は六月初めだと云ふのに、氷雨もよひでまるで冬の景色です。
 もう、あと一時間あまりで稚内の港へ這入ると云ふ汽車の窓から、野や山を見ますと、それがみんな熊笹の叢で、近くの山野はみんな坊主山です。繁ったものがなにもない景色なんて考へられますか。
 稚内は焼けた小さい町でした。
 午前七時頃着きましたけれど、船に乗るまでには二時間近くも待たなければなりません。改札口の前の踏切を渡ると平べったい駅があり待合室の中は鰊臭い。
 荷物を船へ頼んで、私はこの冷えたようにひっそりした町を歩いてみました。いかにも北海道の北のはずれの港らしく、私は町に漂う匂いのなかから雪深い冬の町の姿も考えてみるのです。吹雪で船が出なくなると、宿屋という宿屋は海峡を渡るお客でいっぱいになるそうです。
 雪の頃の絵葉書を二、三種買いました。
 小さい町をひとまわりして駅へ戻ると、私達の乗る亜庭丸が眼のさきにありました。昨夜は霧が深くて漁船と衝突して入港が遅れたそうですが、夜の宗谷海峡は霧のため時々こんな事があるそうです。私達は切符を切ってもらうために長い行列をつくりましたが、何だか出稼ぎに行く気持ちがしないでもありません。艀になっている小蒸汽船から本船に乗り移りましたが、亜庭丸は小椅麗な船でした。これから八時間あまり船の上です。

                           (「文芸」昭和九年八月)


北限の港 稚内   岡部伊都子


 宗谷までの浜と道の間は原生花園で、夏期は二五○種類もの海浜性高山植物が咲くと市の近藤博介さんに教えられた。キスゲ、ヒオウギアヤメ、エゾトング、エゾスカシユリ、ハマナス……。そして丘側はミズナラの群落だった。丘は以前ば木が生えていたが大火災でなくなってから千島笹ばかり。笹が風によくなびいて白くひるがえる。木のない風景もまた、さわやかなものだ。
 ノサップ岬にある寒流水族館には、冬になると海に還される魚たちが、廻遊式水槽に泳いでいた。
館長さんはうれしそうにいとおしそうに魚たちを見守られる。寒流の魚には色彩が少ない。黒ずみよどんだその色はきらやかな熱帯魚の色彩とは対照的である。ホタテや毛ガニなど、おいしく食べたものもいる。おひるに、思いがけなくよばれたくじらのにぎりがたいそうおいしかったが、あのくじらは北海のくじらだったのだろうか。
 くるまを南下させて、抜海へむかった。利尻島が真正面にみえるひろびろとした環境に、大きな農場がある。豊かにこえたホルスタインの牛たちが、ゆらりゆらり家路に戻ってくるのにであう。 よく手入れされた立派な牛たちだ。丘の上に夕日をあびて黒い影となっている牛たちに近づこうとしてくるまをおりたら、そばを通る数頭の牛がおびえた。なんとやさしいおとなしい牛たち。よそ者侵入で気の毒なことをしたものよと、もう近づくのをあきらめて遠くから眺めている。牧草一望、これだけの牧場がっくられるまでには、大自然と人間、人間と獣の闘いや愛がくりかえされたことだろう。そして人間と人間との間にも。牛を愛してともに生きる人か 牧場の若主人の頬は美しく赤かった。

                   (淡交社「列島を行く」昭和四五年一月)


「 稚 内 」  高井有一


 稚内の宿は、夜通し風の音に包まれていた。海岸に沿って伸びた細長い町の背後の丘陵の高みから、駈け下りるように吹きつける風である。いつものように旅の眠りは浅く、まどろんでは目を醒ますたびに、私は、風が屋根をかすめて唸るのを聞き、部屋のカーテンが微かにゆらめくのを眺めた。
 稚内港の北埠頭、むかしは樺太の大泊との間を結ぶ稚泊連絡船が発着した岸壁に、〈ドーム〉と呼ばれる巨大な防波堤がある。ちょうどトンネルを縦に断ち割ったような形で、その断面を古代ローマの柱廊形式を採り入れたという七十本の円柱が支えている。長さは四百二十五メートルに及び、高さは二階建の家の屋根をやや越すだろうか。冬の北西季節風による暴風波を防ぐために造られたものである。無愛想なコンクリートで固めた建造物は、少し離れた位置からは、無人の廃工場のようにも見えて、ほとんど異様であるが、海の荒れる日にはそれさえ越える波が寄せるというから、この町の風の威力が察しられる。寒い土地は、実にさまざまな形で自然との格闘を強いられているとは、北へ旅する毎に感じる事だが、稚内のドームは、苦しい闘の一つの象徴かも知れない。
     (中略)
 魚市場の位置は、魚臭を慕うカモメが空に紙礫を撒いたように群がるので、それと知れる。岸壁には、漁から戻った一二四トン級の漁船が、幾艘も並んで横付けになって、クレーンと結んだ網で船倉の魚をすくいあげ、トラックへ積み込んでいた。カモメは首をもたげるクレーンの周りをめぐり、ゴム合羽を着て立ち働く人たちの肩をかすめるように飛んだ。朝五時過ぎである。
 網一杯のスケソウダラが、どっとトラックの荷台にぶちまけられると、衝撃で車体は身震いし、はじき出された魚が、側で見る私の足もとにまで飛んで来る。崩れた魚肉の混った飛沫が、顔に冷たくふりかかる。まだ暗いうちから働いているらしい人々の合羽は、べったりと脂に汚れ、それを洗い流すために頭から水をかぶっている若者もあった。
 溢れるほど魚を積んだトラックは、叩きつけるような排気音を残して発進し、船べりには直ぐまた次のトラックが着く。クレーンが鎖の音を海に響かせて高だかと挙がる。慌しく活気に満ちた光景なのだが、機械音を除いてあたりが意外に静かなのは、なれ切った手順で仕事が進められるせいであろう。ふしぎにカモメが鳴かなかった。
     (中略)
 一般に北洋の水産物は、そのままの形で口に入るものが少ない。スケソウダラはすり身にして蒲鉾の原料となり、味付けして乾燥しては、酒の肴用に売り出される。同じく夏湯が漁期のカニにしても、むき身にし冷凍して、スーパーなどに送るほか、アメリカやヨーロッパへ輸出されている。だから、稚内は日本有数の漁獲量のある港なのに、町の魚屋で売る魚の値段は高いのだと聞いた。

                (朝日新聞社「みなと紀行」昭和五一年一一月)


 初めての旅  本多勝一


 抜海付近の海岸を通過する時、この旅のクライマックスを演ずる予定の利尻岳が左手の日本海上に姿を見せた。ロマンチックな渚の天塩海岸とよく調和して、美しい裾を波の中に没している。富士山よりも男性的コニーデである。利尻島に利尻岳があるというよりは、利尻岳がひとり海から突き出しただけの島だ。
 宗谷海峡に出ると間もなく南稚内である。ラッセル車が三輛並んでいる。日本の北の終点・稚内駅に列車がすべり込んだのは午前九時半であった。客がみんな降りてしまった車内には、テント生活の必需品としての新聞紙があふれんばかりに散らばっていたので、今後のための万全の用意を私たちはもちろん怠らなかった。北海道ではいわゆる「中央紙」はほとんど読まれていないらしく、さまざまな地方紙が圧倒的である。
 駅の待合室に入った時、一種の℃ゥ信を私たちは得ることができた。つまりこんな放浪者にも呼びかけてくれる宿屋があったのだ。べンチに貨物のようなリュックサック(なにしろ大雪山で買った木炭まではいっているのだから)を下ろした時、いわば年増の姉御さんがやってきて言った。─「お泊まりですか。お安くしときますよ。島へいらっしゃるんでしょう。船は明日の朝出ますから、今夜はどうしてもどこかへお泊まりにならなけりゃ」
     (中略)
 稚内は全体として南北に細長い町である。駅前の通りに出た時、なぜか私はすぐに非常ななつかしさを感じて感傷的にさえなった。別に明確な根拠があるわけではないけれど、普通の町が持っていないような何かがある。機械的でない自然な家の並び、市街のすぐ西にある緑の丘、それに歩いている人々はみんな他人じみたところがなく、向こう三軒両隣り的な気やすさと、ほがらかさがある。それに騒音がほとんどなくて、話し声や笑い声が遠くまでみんな聞えるほどである。そしてここだけは北海道の例外として、服装がこぢんまりしている。かといって普通の日本的田舎町とはむろん異なり、やはり国境にあって、樺太との交流華やかなりし頃の郷愁が漂っている。いきなり『なつかしさ』を感じたのは、この国境の町の雰囲気のなせるところが最も大きいのではなかろうか。

                      (スキージャーナル、昭和五四年一二月)

さいはての旅─オホーツクへの情熱  堀田善衛

 北海道というと、だから私は札幌や函館やナントカ峠やナントカ温泉などを転瞬のあいだに通り過ぎてしまって、一気にオホーック海沿岸や稚内、礼文島、利尻島へ心が疾駆して行ってしまう。
 稚内の巨大な防波堤、東洋一とか聞いたが、何でも高さは十米以上もあったように思うが、あの防波堤の上に立って、どすぐろい海面に皺を寄せては走って行く風に吹かれ、まだまだ行きたい、まだ行きたい、とはやった心を忘れない。
 海面の皺は、そのまま自分の心の戦慄と見えた。
     (中略)
 私が、根室、網走、北見、稚内、礼文、利尻と旅行して歩いて得た貴重なものは、人間の労働についての厳しい教えであったと思っている。北海道の北辺は、生きて行くのに都合のいい具合に出来てはいない。
 何でまたこんな寂しい、寒い、不便なところにこの人たちは住まねばならぬのか、どんな義理があってこんなところに、と避けがたく思いたくなるようなところばかりだ、といってもそういい過ぎではない。霧、雨、雪、氷、そして貧乏。
 人間というものは、実にどんなところででも、生きてゆかねばならぬものだ、としみじみ考えさせられてしまう。そして生きてゆくためには、たとえどんなに自然の課した条件が悪くともその現場で自然と戦って、働いてゆかねばならぬ。

(「旅」 昭和三〇年六月)    


「オホーツクの海が見たくて」 古山高麗雄

 稚内港とは反対の西側の海岸に出たのであった。海岸沿いに道道が岬を一周しているのであった。坂の下の三叉路から、海を左方に見ながら北上する。そこから見る海は利尻水道である。野寒布岬の灯台まで、七、八キロほどの道のりである。
     (中略)
 野寒布岬から南下すると、オホーツク海が見えることになるが、オホーツク海も波がなく、見渡す限り、一隻の船も見当らないのであった。今朝、政和温泉を出たときは快晴であったが、稚内の空は曇っている。さわやかでない空の下に、静まり返った海が広がっている。ゴメの群が眼につくばかりで、うら寂しい眺めである。
 稚内港の円蓋防波堤や魚市場を見物した後、稚内公園に行って氷雪の門や樺太犬記念碑や、九人の乙女の碑などを見る。氷雪の門というのは、樺太島民慰霊碑であり、樺太犬記念碑というのは、南極観測隊が連れて行って置去りにしたというのでひところ評判になった、タロー、ジローの記念碑である。九人の乙女の碑というのは、終戦後樺太でソ連の攻撃をうけて殉職した交換手の記念碑である。
         (「旅」昭和四九年六月)




オホーツク街道  司馬遼太郎

 稚内は、オホーツク文化の北端である。
 厳密には、礼文島とそのとなりの利尻島こそ、この文化の北端で、考古学的にも光芒を放っている。
 稚内市が、日本最北端の市であることは、だれでも知っている。
 海にかこまれていて、西は日本海、東はオホーツク海にのぞんでいる。礼文島や利尻島へは「東日本海フェリー」という名の渡し船が往来しているところをみても、両島が日本海にうかんでいることがわかる。つまりは、オホーツク人は、稚内のあたりを日本海にまわって両島に居ついていた。日本海でもずいぶん活躍したはずである。
 私には、オホーツク人を『日本書紀』にいうミシハセ(粛慎)にひきよせたい気持がつよい。
 その気持に沿っていうと、『日本書紀』の欽明天皇五年(五四四)、「佐渡島の北の御名部の碕岸に、粛慎人有りて、一船舶に乗りて淹留る。春夏、捕魚して食に充つ」というのは、意図的か漂着したのかはべつとして、かれらにとって日本海を南下することは、ごくふつうのことであったにちがいない。
 古代の漁労民にとっては、平坦な海岸よりも島のほうがくらしやすかったに相違なく、オホーツク文化も礼文島において濃密なのである。ひょっとすると礼文島のオホーツク人が、散歩がてらに佐渡にきたのだろうか。直線にして八○○キロである。海洋の民にとっておどろくに値いするほどの距離ではない。
     (中略)
 近年の稚内の冬の気温については、あとで、稚内グランドホテルの代表取締役の泉尚氏から、「ここ二、三年、ちょっと異例で、流氷も来ないんです」
 という説明をきいた。

 朝、窓から市内を見わたすと、真白である。
 積雪に多少の凹凸があるというのが、まちの風景だった。
 街路を歩いてみると、よくすべる。まずやらねばならないことは、札幌で買った%~靴をぬぐことだった。
「冬靴」というのは、北海道だけの日本語である。辞書をひいてみたが、ない。
 文字どおり冬季のための紳士・淑女用の靴で、裏にすべりどめが着いているものの、パーティにゆくならいいが、稚内では役に立たない。
 防寒用ゴム長靴を買うべくホテルから靴屋さんまで三○○メートルほど歩いた。抜き足差し足で歩いて、やっと靴屋さんの軒下にたどり着いた。雪中競歩といったものをオリンピックの種目に入れるべきだと思ったほどだった。
 稚内市域には、チャシの遺跡がいくつもある。
「弁天」と通称される一画がある。漁業が二○○海里という制限をうけなかったころは船員たちでにぎわい、かれらは氷雪の海で働きながら、帰港して&ル天で飲むことを楽しみにしていた。
 いまはさびれているらしい。行ってみると、いかにも新開地らしいにわか普請の飲み屋街があり、ある店の軒下には古い流行歌手のポスターが貼られたままだった。
 いろんな看板がある。「バー・ニュー波」「スナックと喫茶ばら」「あなた食堂」「ラーメン・井物弁天食堂」、「いらっしゃいませ」の横断看板。
 その看板のむれのむこうが、チャシの丘である。
 丘には樹木がなく、裸で雪をかぶっている。街の裏から丘まで二○メートルほどなのだが、丘の根っこの積雪がふかくて、そばまで近寄れない。積雪の上に利口な顔をした犬がいっぴきつながれていた。
 チャシは、頂上にある。土木工事としては一すじの空壕と土盛りがある程度だそうである。
 近所に飲み水になりそうな川はない。
     (中略)
 北海道の地図をひろげてみた。こぶしをつきだして親指を立てると、稚内半島である。ひくい丘陵が骨になっている。親指の爪のさきが野寒布岬である。さらに人さし指を立てるとその指さきが宗谷岬で、親指と人さし指のあいだの海面が、宗谷湾としてひろがっている。
 稚内の市街地は、親指の宗谷湾側に面している。本来、ほとんどが丘陵だったのを、海浜のうめたてなどをして、平坦な地面をつくった。
 こんにち稚内市の市域はひろく、¢蝟ヲとよばれる宗谷岬までおよんでいる。贅沢ということでいえば、一つの市が、日本海、オホーツク海、それに宗谷海峡をもっているのである。

 まず、日本海に出てみた。
「抜海岬」という小さな岬があった。ここは、明治時代までは沖の礼文・利尻両島への渡海地だった。抜海岬というのは稚内市域に入る。
 海岸わきを自動車道路が通っている。
 丘陵の上が大岩になっており、その大岩に小岩が載っている。ちょっとした奇観である。
 抜海の地名はこの岩からきた。山田秀三氏の「北海道の地名』では、パッカイ・ペ(子を背負う・もの)からきたのだろう、という。
 アイヌの伝説がある。
 丘のそばの掲示板に書かれている。
 いつのころか、この地の天塩アイヌが、宗谷アイヌと戦争をしたのだそうである。
 そのとき礼文アイヌが天塩アイヌと同盟をし、礼文島代表として一人の勇ましい若者がやってきて、この地のアイヌの美しい娘と恋をした。子もなした。ところがこの若者は礼文島が恋しくなって、島へ帰ってしまった。なげいた若い母が子を背負ってこの丘に立った。
 夫のいる礼文島がみえる。なげくうちに、岩になったというのである。
 パッカイは、知里真志保『地名アイヌ語小辞典』(にれ双書)ではで pakkay「子を負う」で、山田秀三「北海道の地名」ではpakkai-peである。peは「……するもの」のもの、ということらしい。
 この日、海上にガスがかかっていて、岩の母子が足摺りして焦れる礼文島や利尻島は見えなかった。
 稚内の市域は、岬が多い。
     (中略)
 右側は、宗谷丘陵がつづいている。
 岬までつづくこの丘陵は、このあたりになると、樹木がない。素っ裸で風雪に耐えている。
 宗谷とは、岬の名であるとともに郡の名でもある。ただしそのほとんどがいまは稚内市域に入っているため、宗谷郡を称しているのは、外洋であるオホーック海側の猿払村ぐらいのものだという。
 ソウヤとは、アイヌ語である。宗谷岬の海上にある岩礁(いまは弁天島)をさしているという。So-ya。
 宗谷には、ふるくから船泊りがあった。
 港は岬からわずかに東方にある小湾入で、まわりに烈風が吹いても、港内で風浪をしのぐことができる。
              (朝日新聞社 平成五年八月)
              (朝日文庫 「街道を行く」(平成九年一月)