稚内・抜海文学散歩 2


氷雪の門  松山善三

「お客さん、終点ですよ。稚内だ……」
 肩を突かれて、俊子は跳ね起きた。ぐっすりと眠りこんでいた。旭川を出てから七時間、夢も見なかった。瞬間、自分が汽車に乗っていたことさえ忘れていた。
 専務車掌が、からかうような顔で、棚の上のボストン・バッグをおろしてくれた。
「すみません。寝呆けちゃって……」
 俊子は、着くずれをかまう間もなく、転げるように、デッキへ走った。雪のプラット・ホームに、俊子を迎えた勇知富三郎の顔があった。
「俊子だべ……」
「伯父ちゃん……」
 富三郎の腕が、ぐいと伸びて来て、俊子の肩を抱いた。
「滑るぞ、気ィつけろ」
 足もとに、夜が這っていた。地吹雪が、渦を巻いて流れる。
「人に顔見せるな。暗いとこ、暗いとこ、探して歩け……」
 俊子の耳に、顔を押しっけるようにして富三郎が舷いた。俊子は、ぷるんと肩を震わした。
     (中略)
 稚内駅の国鉄職員で、最初にテレホン・ジャングルから流れた俊子の声を聞いたのは、助役の、黒住久兵衛であった。駅前の公衆電話ボックスに殺人犯人がいるとすれば、時を待たずに刑事や巡査が駅を取り囲んで、大捕物がはじまる。旭川発、天北経由の列車が十四時十分に着く。それまでに、ことが結着すれば心配はないが、もしも、逮捕が遅れて混乱を招いたらどうする。久兵衛は、駅長室へ走った。
     (中略)
 風が、粉雪を運んで来た。
 助役の黒住久兵衛は、懐中時計を見ながらプラット・ホームに出た。定刻着の汽車は、ひとつ手前の南稚内駅に停められている。列車の着く筈はないと知ってはいるが、習慣が、そうさせるのだ。イャホーンからは、もう、雑音も聞えない。
 北海ラジオの放送は、完全に、断たれた。結末が知りたければあとは、自分の眼で、稚内駅前に起こる最後の一幕を見なければならぬ。
 見たくない。黒住は、そう思った。自分は黒人ではない。兵士でさえもなかった。妻子を根室へ逃がしたというだけで捕えられ、シベリヤへ送られ、強制労働を強いられた。妻子を逃がして、なんの違法か。朝鮮人の李徳林は、樺太に送られ、故国へ帰ることの出来ない父や哀れな同胞を帰せという。わしも帰りたい。わしの、生まれ故郷は、色丹島だ。

       (潮出版社 昭和五五年一一月)



 峰の記憶   渡辺淳一

 十月の稚内は、すでに秋も終りに近い。
 ホームに降り立った瞬間、井波は吹く風も空気も空も、すべてが冬に近づいているのを知った。井波はその冷んやりとした空気のなかを、階段を降りて駅舎に出た。
「井波さんですね、建設部の小田です」
 三十半ばの長身の男が近づいてきて頭を下げた。互いに顔はわからなくても、降りる客が少ないから見当がつく。
「お疲れでしょう。一旦、宿舎のほうに行かれますか、それとも建設部のほうに行かれますか。お見えになったらすぐ案内するようにと、技術長からいわれていますが」
「じゃあ、部のほうに先に行きましょう」
 男はうなずくと、荷物を持って車のほうへ行く。
 駅前はがらんとして人影はあまりない。コンクリートを敷きつめた広場の左手に駐車場があり、そこに五、六台の車が手持無沙汰さに並んでいる。その駐車場の横をまっすぐやや広い道が延び、その先に小高い丘が見える。強い海風で樹木が育たないのか、禿山で、寒々とした空の下に送信塔だけが一本、寒空に向かって立っている。
 駅前の左右は、土産物店や食堂が並んでいるが、そこもあまり人影はない。左手の利尻、礼文行の案内所も、今は戸を閉ざし、航路を記した看板だけが風に揺れている。
 海は駅の裏側らしく、そちらからかすかに磯の香りがする。午後三時だが、裸の丘の先に、早くも陽が傾きかけている。
 海と丘にかこまれた細長い街を風が吹き抜けていく。
「こちらですよ」
 小田が駅の左手に停っていた車の前で手招きする。建設部の名の入ったライトバンである。井波はうなずき、その車に乗った。
「稚内は初めてですか」
「五年前に一度来たことがあります」
そのときは港湾工事の見学であった。一日ですぐに帰ったが、夏だったので、今より華やいだ記憶があった。
     (中略)
 少し色のくすんだオホーツクの海は、午後の斜陽のなかで寒々と果てしなく拡がっている。
 井波は丘の先端に立っている乙女の像の前に行ってみた。
「殉職九人の乙女」と、石碑に九人の女性の名前が刻まれ、下に、
〈戦いは終った。それから五日昭和二十年八月二十日、ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如日本軍との間に戦いが始った。九人の乙女達は死を以って己の職場を守った。窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、今はこれまでと死の交換台に向い「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」の言葉を残して静かに青酸加里をのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。戦は再びくりかえすまじ。平和の祈りをこめこて尊き九人の霊を慰む〉
 と記されている。
     (中略)
 その夜、井波は村野に連れられて夜の稚内の街に出た。
 建設部は海と丘に囲まれた細長い街の、南の端のほうにあるので、繁華街までバスに乗る。中央二丁目というところで降り、アーケードのある広い道から、一本裏小路に入ると飲屋街があった。
 そのさい果て≠ニいうところヘ入って、まず酒を頼む。
 店は中央に囲炉裏があり、それを囲んでスタンドが半月形に拡がっている。
 炉の左の中には、酒を入れた徳利が埋められ、上には、(はたはた)、ほっけ、烏賊などが吊されている。さらにスタンドの冷凍ケースには北寄貝、帆立貝、いくらなどが、ぎっしり並んでいる。
     (中略)
 井波は灰色の空を見上げた。二人が向っているところは、サロべツ原野だった。
 北海道の北東、宗谷丘陵と日本海にはさまれた低地帯に拡がる、一万数千へクタールに及ぶ泥炭地だった。
 泥炭地とは、川や沼の多い北国の湿地帯特有の土壌で、もとはさまざまな植物の根や茎が、寒さで分解する間のないまま、湿地に埋まってできた土地である。
 英語ではビートと呼び、その語原は「火をつくる」という意味だが、たしかに泥炭は燃える。
 戦時中の一時期、日本でも燃料がなくてこれを燃やしたことがあるが、腐蝕した有機成分の炭化が不充分で火力は弱い。寒い北国の暖房としては頼りない。
 この泥炭が地表まで堆積した土地を、農業に利用するのはかなり難しい。まず暗渠をつくり、排水して、その上に客土といって、良質の土をおおわなければならない。それでも地盤はやわらかく、作物はよく根付かない。
 日本では北海道の大きな川の流域に多いが、外国でも、ソ連、カナダ、フィンランド、スェーデンなど、北極圏に近い国ではいずれも広大な泥炭地をかかえている。
 それらは一部は利用されているが、大半は寒風にさらされたまま放置されている。
 この広大な不毛の広野を利用することは、日本のような平地の少ない国では、重大な問題である。
やがて左手のハンノキの林を抜けると、眼前に広大な湿原が現れた。そこから先は、目を遮るものはなにもない。はるか陽が弱く輝いている彼方に淡く、低い丘陵だけが見えた。
「そこが砂丘で、その先は日本海です。」
小田が指さして説明する。

                 (週刊文春 昭和五〇年七月〜五一年九月)
                  (文芸春秋 昭和五三年九月

           宗谷本線殺人事件     西村京太郎

 このあと、急行「利尻」は、士別、名寄などに停車し、終着の稚内には朝の午前六時○○分に着く。
 この時刻に着くと、その日一日、取材ができるので、田島は、稚内に行くときは、「利尻」を利用することが多かった。
 稚内の駅の売店なども、この列車の到着に合わせて、オープンしてくれる。
 田島は、午前三時三分に、音威子府に着いたまでは覚えていたが、そのあと、車内の暖かさと取材の疲れで、ほかの乗客と同じように、座席に横になって眠ってしまった。
 起きたのは、午前六時近くで、列車が停まり、「稚内」という駅名を見てあわてたが、一駅手前の南稚内だった。
 五分ほどで、列車は、終着の稚内に着いた。
 そのときになって、田島は、あの男の姿が消えているのに気がついた。
 ほかの車両に行ったのだろうかと思ったが、ホームに降りても、姿が見えない。気になったので、しばらくホームに残って見ていたが、彼が降りてくる様子はなかった。
 どうやら、途中で降りたらしい。
 音威子府から稚内までの間には、天塩中川、幌延、豊富、南稚内、と停車しているから、そのどこかで降りたのかもしれないし、音威子府でも、田島は、眠たくて仕方がなかったから、そこで降りてもわからなかったろう。
 稚内の駅は、まだ暗かった。
 いつ来ても、この駅は、小さくて、行き止まりにやってきたという感じがする。ホームも一本しかない。つまり、1番線と2番線しかないのである。
 しかし、稚内の町は、意外に大きい。人口も五万人を超え、ビルも林立していて、北の果てに来たという感じは、あまりしない。
 田島は、駅前の小さな食堂に入り、かにめしを食べた。
 その間に、少しずつ、周囲が明るくなってきた。

     (光文社 平成二年二月)
     (光文社文庫 平成四年四月)


【 短 歌 】

    
歌集「海獄」    吉植 庄亮
      
オホック海の猟奇は言ひて沖つべの海霧の光に入りゆかむとす

オホック海の鴨鳥はおほくわが船の胴体に戸惑ひ愚にし飛ぶ

オホック海ののろのろ鴨はしばしばも船の巨体にのしかからるる

   (八雲書林 昭和一七年八月)


    
歌集「石泉」    斎藤 茂吉

太太としたる昆布を干す浜にこころ虚しく足を延ばしぬ

北ぐにのはてとおもへばうちよする青きみるめも身に泌むごとし

なだらかに起伏し海にいたるまで背の山の焼けし果てあと

稚内の山にのぼりてあかかとわたつみに日は落ちゆくを見つ

(岩波書店 昭和二六年六月)



「午后○時四十八分佐久ヲタチ午后五時稚内港ニツキ、木谷旅館ニ一泊。海岸ノこんぶ。青みる。からす非常ニ多シ。
 背ノ公園ニノボリ一望ス。夕食ヨシ。一寸酒ノム。街上ニ天理教ノ大道講演ヲキク。コレ救世軍ト全ク同ジ手法ヲ真似タルモノナリ。かみそりとぎ汁ヲ売リ居ル。夜蚊イヅ。除虫菊ヲイブシテ退治ス」。
   (昭和七年八月十八日日記)


  
 宗谷の旅  並木 凡平

樺太へ渡る女か襟巻に埋めた顔のまばら白粉

とろろんとん調子おかしく雪原を夜をこめてゆく稚内急行

ほの白む雪原つづく木立まで眼にしむほどの宗谷路に入る

八十段登りきはめて北門の社にひらく宗谷海な(凪)ぎ

モンぺイをはいた女がさむざむと水くんでゆく稚内の海

凍る海かもめもさむく朝を鳴くしみじみ北の果て国に立つ

                      (昭和一一年十月)

              
小樽新聞社の社会部長時代(四十五歳)、稚内の歌人川越秀次宅に滞在
                   この折の所産に「宗谷の旅」十九首 このうちの「八十段……」を刻んだ歌碑
                   が川越秀次らによる「稚内凡平を慕う会」の人々の手に
                   よって、稚内市の北門神社境内に建立されたのは、昭和四三年九月一四日



稚内港に汽車はてたれば下り立ちぬ次の汽車にてかへる吾等も      土屋 文明  

飢えし日本の北の鎖となる岬レーダーは宙に敵意を研ぎて        宮田 千恵

樺太はいま外つ国涼しくて白夜のごとき夏の夜を恋ふ          石川 澄水


【俳句】

   
秋燕やサガレンへ立つ船もなし        加藤 楸邨

濤を刺す霧の剣や稚内            橋本 鶏二

ノシャップの牧牛放馬明け易き        後藤軒太郎

サハリンへ片脚かかる虹の橋          野末朔太郎

さいはてのなほ北を指し雁の列         長谷川エミ

氷海を展べ始発駅稚内             三戸杜秋

氷雪の門樺太は夏霞              小坂 順子

抜海へ道なき砂丘雪の果           深谷 雄大



【詩】

    
夜の音      新井章夫

高く輝いていた浮雲の空に
嵐の気配が流れてきた
すでに烈しく身もだえる
野の花ばなの
そのひとひらの花びらの遊泳。

遠く風にのり
うずまく海峡の上
雪を呼ぶ峰をかすめて
夜のわたしの夢の中を通週する。

目ざめると
ふかい秋の静けさ
闇の中に
かがやく金色のおちばのおと
地におちてはじける死の響。

      (黄土社 詩集「原野喪失」昭和四四年)

 
     
  
曇り日のオホーツク海    北原白秋

光なし、燻し空には
日の在処、ただ明るのみ。

かがやかず、秀に明るのみ、
オホーツクの黒きさざなみ。

影は無し、通風筒の
帆の綱が辺に揺るるのみ。

眺めやり、うち見やるのみ、
海豹のうかぶ潮區?。

寒しとし、暑しとし、ただ、
霧と風、過がひ舞ふのみ。

われは誰ぞ、あるかなきのみ、
酔はむとも、醒めむとも、まだ。

燻し空、かがやかぬ波、
見はるかす円き涯のみ。

     (詩集「海豹と雲」   アルス、昭和四年八月)