『日本語練習帳』読後の雑感(続き) |
ところで途中の「お茶を一杯」に、戦後の国字改革実施のころに志賀直哉が日本語は不完全で不便なのでこの機会にフランス語を国語にしてしまえばいいとする文章を発表したと書かれていました。
この文章の中で志賀直哉は明治のころに英語を国語に採用していればどうなったかを予想しています。すなわち、今ごろ文化は遥かに進んでいただろう、今度のような戦争は起こっていなかっただろう、学業ももっと楽に進んでいただろうし学校生活も楽しいものに憶い返すことができただろう、日本独特の言葉も沢山出来ていただろうし、万葉集も源氏物語も今よりは遥か多くの人に読まれていただろう、と。
これに対して大野晋は、「文化が進む」という場合の「文化」とは、内実何なのか、おそらく彼は『源氏物語』など読んだことがないのでしょう、志賀直哉には「世界」もなく、「社会」もなく、「文明」もありはしなかった、とけちょんけちょんです。
それはともかく、英語が国語または公用語である場合のメリットについてはこれまでにも考えないでもありませんでした。
たとえば単語。漢字を使わないわけですからアルファベットと基本的な単語さえ覚えればいくらでも辞書がひける。その気になれば小学生にだって学術論文が読めるのです。
それに比べて現在の日本語はどうでしょう。漢字があるおかげで、まずその漢字を読めないことには辞書さえ引けません。漢和辞典も、一文字ならともかく熟語になっていたらお手上げです。「欠伸」「木賊」なんてどうやって調べましょう。
最近だと読みはわからなくてもとにかく漢字さえ入力すればパソコン辞書で何とかなることもありますが、「炬燵」「卓袱台」はともかく「胡座」なんてのはCD-ROM版広辞苑第五版でも検索不可能です。いや、宛字は宛字なんですけど、ATOK12は「胡座」としか変換しないし。
志賀直哉の頃には電子辞書なんてなかったのだから条件はさらに厳しいわけです。もっとも、昔の人は今に比べて格段に漢字を知っていたようですから上に挙げたような言葉ぐらいどうということもないのかもしれません。
ただ、そうなるためにはやはりアルファベットを覚えるより遙かに多くの努力を要するということで、それなら英語やフランス語の方がよけいなことを覚えなくていいし、文法も日本語みたいにあやふやではなく細かいところまで確立されていて言語として優れているじゃないか、てな理屈だったのでしょう。
実際、まあ訳し方にもよるんでしょうけど、読んだことのある人に聞くと『源氏物語』の英訳も日本の古典という固定観念さえ捨てれば『アラビアン・ナイト』みたいな感じでおもしろかったということですし、さっきも書いたとおりアルファベットだけなんだから小学生にも読める。つまり、英語なら『源氏』も『万葉集』ももっと多くの人に読まれていただろうというのはそういうことなのでしょう。
しかし、ほんとにそう簡単にいくでしょうか。たとえばさっきの『源氏物語』の英訳にしても、『源氏物語』だから読む気になったということがあるかもしれません。原文にしたところで読みやすければ広まるというほど単純なものではないでしょう。読みやすくなったことでかえってその他大勢と同じ扱いになってしまったりして。
まあ瀬戸内寂聴版『源氏物語』はけっこう話題になったり読まれてもいるようですし、個人的には『桃尻語訳・枕草子』(橋本治)もそれなりにおもしろござんしたけど。
で、文法が確立されているというほうですが、実は英語の言葉遣いの変化は現在も続いているらしい。例えば数年前にラジオで聞いた例だと、「enjoy」は文法上「何を」を意味する言葉を続けるものだそうですが、最近では単独で「Enjoy!」などと使われることが増えつつあるそうです。
まあそう大きなものではなさそうだけど、こうした変化が今後も続くなら英語の文法も永遠不変のものとはいえないことになる。英語を母国語としていない人が公用語として英語を使う機会が増えればさらに、かもしれません。
もっとも、それなら日本語はどうかというと、例えば「すごい」は後ろに形容詞を重ねる場合は「すごく」と語尾変化するはず。それが「すごい大きい」とか「すごいかわいい」なんて表現が若者に広まって世間の眉をひそめさせてから20年たつかたたずなのに、今ではいい大人でもこの使い方をしている。
さらにこちらの「いろいろ」1999年04月20日分によると以下のとおり。
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「サンデー毎日」大正13年21号から40号まで, 麻雀以外の記事でおもしろかったものもちょっと書いておく。オリンピック記事や移民問題の記事が多い。
22号(5/18) 「熱中 -- 顕象 -- 幻滅 -- それは女学生の新しい流行語」よりいくつか引用。
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今から二十年前には女学生にこの「てよだわ」を禁じようとして骨を折つたものだが、流行語の勢力といふものは存外強いもので、早くも普通一般になつて了つた。のみならず「てよ」や「だわ」や「のよ」は女の言葉を一層優美にして見せるやうにさへなつた。然るに数年来流行り出した「わよ」に至つては聊か下品である。「よくつてよ」の代りに「いいわよ」は何うも感心しない。併しこれも普遍的になれば誰(たれ)も怪しむものはなくなるだらう。
(略)「凄い」といふ言葉も亦男学生から習つたので、少しく目に立つ服装をしてゐると、「凄い風ね」と言つたりする。(略)
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どうやら今から80年も前には「すごい」という言葉を女性が使うことじたい一般的ではなかったらしい。そしてその60年ほどあとには「すごい大きい」などとおそらくは女性がいいはじめたようで、まさに因果は巡る糸車、「流行語の勢力といふものは存外強いもので、」「これも普遍的になれば誰も怪しむものはなくなるだらう」。
ちうことで、文法も含めた変化に関してはひょっとして我らが日本語は世界一節操のない言葉なのかも。
『日本語練習帳』でも触れていますが、日本語は漢字・漢語を覚えないといささか使いづらい構造になってしまっています。つまり漢字は必須。また、文法はあいまいだし言葉はころころ変化する。おまけに敬語というものもある。こんな厄介な言葉は捨ててしまえ、と考える人が出てくるのも無理からぬことではあります。
そろそろ眠くなってきてるので結論を急ぎますが、一方でこのなんともいいかげんな日本語も、見方を変えれば融通無碍。また優雅風流なところもあるし、漢字と仮名を混ぜた表記もなれてしまえば認識が早いという一面を持っている。
kyoto きょうと 京都
同じことを表したこの三つのうち一番わかりやすいのは「京都」なんだそうで、ひらがなの中に漢字の混ざる日本語の便利さが海外でも注目されはじめているという話も聞いたことがあります。
また、ころころと言葉や文法が変わってもその時代時代ではちゃんと通じるあたりもなんとも不思議な言葉だし、文語・口語・カタカナ・アルファベットなどなど表記も変幻自在、世界一節操のない言葉は世界一自由な言葉でもあるようです。
今後も「乱れ」「揺れ」「変化」がせめぎあう状況は変わらないでしょうけど、私にとっては一番魅力的な言葉です。(なんてありきたりな結論)
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脳死臓器移植の雑感(続き) |
だいたい、前回の移植のときには臓器を載せた車をヘリコプターで追いかけて実況するなどというはたで見ててもおいおいと思うような行為を平気でやる連中ですし、一部週刊誌報道によれば、臓器摘出を実況中継させろという意見をほとんどのマスコミが支持したそうで、事実だとしたらこれほど臓器提供者とその家族を馬鹿にした話もない。
で、あげくに読んだのが3月20日付の中日新聞に掲載された「不快は報道規制」という一文。日本初の脳死移植なのだからその死は個人的なものではありえず、マスコミが殺到するのは社会的歴史的に重大事だから当然のこと、臓器提供者の人柄を知るために近所に取材するのはやむをえないし、マスコミは各社協議せずに殺到するのが当たり前なんだからこれだけの大ごとを実施する病院側はちゃんと受け入れや対応法を準備すべし、マスコミには自由に取材させ、そのうち何をどう報道するかはマスコミの自主判断に任せよ、といった趣旨。
書いた人の正気を疑ってしまいましたよ。どう理屈をつけてみたって個人の死は個人とその家族のもの、違うというなら脳死判定をしている病室に堂堂と入って取材すればいい。近所への取材は静かに患者を看取りたいと思う家族の心情を逆なでするものだし、初の脳死移植にあわてふためいているのは病院側も同じだろうにマスコミの都合だけ振り回す不遜な態度、さらには規制されていてもあの騒ぎなのに自主判断で取材・報道させろというのだから何をか言わんや、ですね。
前回も指摘を受けていながら今回の取材中にも病院で平気で携帯電話を使っていたそうだし、まずはそういったあたりから改めないことには信頼を得られないのでは。
で、前回も臓器提供者の家族が翻意するのではと危惧されるほどの取材・報道だったのに、少し前の少年を人質に取った事件では、報道関係者は報道事実から中立でなきゃいけないとかいって報道機関の腕章を警察に貸した記者を非難してるし、その割に選挙結果に影響するから事前の支持率調査報道をやめろといわれると報道の自由を振りかざすし、いったいどっちなんでしょね。
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