『差別語からはいる言語学入門』読後所感

(この文章には読んで不快を感じるおそれのあることばが登場します。差別的意図ではなく本の感想のために書いただけですが、理由の如何を問わずそのたぐいのものは目にするのもいやだという方はここで引き返すことをおすすめします)
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02/05/05

たいした読みかたをしてるわけでもないものの、それでも長いこと本とつきあっているとタイトルだけでこれはおもしろそうだとかつまらなさそうだとかいうことがある程度わかるような気になるものですけど、当然ながら大当たりのこともあれば大はずれのこともありまして。

今回読んだ『差別語からはいる言語学入門』(田中克彦、明石書店)、このタイトルでおもしろくないわけがないと思いつつ最後まで読んだのですが……うーん、おもしろくないといえばおもしろくないし、おもしろいといえばある意味すごくおもしろいし、うーん。

まず最初に引っかかったのが30ページのこの部分。

(略)差別という、人間の心理状態を作り出すのはことばであり、そもそも差別という観念そのものが、ことばなくしては発生しないものである。いまここに飼い主によって愛されているイヌとそうでないのとがいて、与えられる食事(ここでエサといえば同じ対象が、それを食べる主体によって区別――潜在的な差別――される)に、良質なものと粗悪なものとの差をもうければ、一方のイヌは、自分が差別されていると思うだろうか。たぶんそうではないだろう。そこにサベツがあると感じたりそう指摘したりするのは人間だけである。イヌにはまた、おそらく公平とか、民主的とかという観念もないだろう。(ここから、「民主主義」ということばや観念のない社会は、イヌ的レベルにとどまるものだという解釈も生まれるだろう)。だから、人間に固有の差別という現実を問題にできるのはことばによるしかなく、したがって差別語を問題にしないで差別を論じる議論など、原理的には不可能なことは明らかである。


これは「ことばだけいじくっても、差別という現実はなくならない。したがって差別語を議論することじたいが無意味である」という意見に対する反論として書かれたものですが、これだけで納得できる人、います?

前半で「差別という観念そのものが、ことばなくしては発生しない」といいながら、なぜ差別がことばによって発生するのか説明することもなくいきなり「そこにサベツがあると感じたりそう指摘したりするのは人間だけである」「だから、人間に固有の差別という現実を問題にできるのはことばによるしかな」い、と結論づけてます。しかし、差別を問題提起できるのがことばであるというのはまあ現時点ではその通りでしょうけど、ことばで差別を問題提起できることと差別がことばによって発生することととでは全然話が違います。でもこの筆者、これで差別はことばによって発生するというのは証明済みと思っているのか、以後の155ページ、二度とこのことには触れません。

ひょっとすると、イヌがエサによる差別を感じないのはことばがないからだ、といいたいのかもしれませんが、たとえばイヌは他人ばかりでなく飼い主の家族ひとりひとりに対してさえとる態度を変えますけどね。えさを直接与える人間とか、いつも散歩に連れて行く人間とか、家族の上下関係とかも微妙に見分けるそうです。同じ散歩に連れて行くにしても、一緒に歩く相手、おとなしくあとから付いていく相手、イヌがボス気取りで人間を引きずるように先を行く相手もいます。

先日見たテレビ番組では、それまで特定のある人をばかにして散歩中ずっと足にかみついていたイヌが、その人手ずからチーズを与えたとたんにおとなしくその人に従うようになり、かわりにそれまで従順だった別の人にかみつくようになりました。イヌのほうではそれぞれの人間に対して差別的感情を持っているのかもしれません。少なくとも群れを作る社会的動物ですから、上下関係には敏感なようです。イヌが差別を受けてることをことばで訴えないからといってイヌに差別の観念はないと考えるのはそりゃイヌに対する差別とちゃいますかね。

それに、ある種の動物は、自分の子供には乳を与えるけどほかの雌の産んだ子供が乳にありつこうと近づくと追い払うという行動に出ます。明らかに個体によって扱いを変えているわけですね。あと、群れを作る動物も、自分たちの群れに属する個体かそうでないかで態度を変えます。人間の子供だって、「差別」という概念を教わらなくても仲間はずれやいじめなどの行動を起こしますから、差別がことばによって発生するかどうかってのはこれだけでは説明不足でしょう。

そういえば『カムイ伝』(白戸三平)に、きょうだいのうち一匹だけ白い毛並みに生まれた狼が登場し、自然界でその白さが目立って外敵に襲われやすいという理由からか、あるいはたんに自分たちと毛並みが違うからか、その白い狼をのけ者にする、という話が出てきて、原初的な差別、みたいなナレーションが入っていました。

白戸三平はけっこう動物の生態に詳しいようですからこのエピソードにも元になった実話があるのかもしれませんが、猫にマタタビみたいな感じで犬の理性を狂わす犬万(ミミズを干したもの)が実は白戸三平の創作だったという例もあるし、とりあえずフィクションということにしておいた方が無難かな。

次が46ページからのこちら。

 ことばは、ふつうのからだをもって生まれた人ならば誰でも話している。(略)
 しかし書く方はそうではない。ことばを書き表すには文字が必要になるが、その文字には二種類ある。一つはオトを表す文字で、(略)その数は有限個であるから、それを表わす文字も三十から五十くらいおぼえておけば足りる。
 ところが他方、オトではなく、意味(略)を書き表わす文字がある。意味、具体的にはモノは何万どころか数限りなくあるし、その上、これから先どれだけ新しいモノが生まれてくるかわからないので、本当を言えば、その都度新しい文字が必要になる。(略)しかし人間にはそんなに多くの文字を使いこなす能力がないので、せいぜい五千くらいにおさえて、その中であれこれとやりくりしてきたのである。それでもやっぱり知識は見せびらかせたくなるもので、どんどん使っていい気持ちになり、知らない人との差をつけようとする。これが漢字といわれるもので、かつては世界で漢字式の文字を使っている言語がいくつもあったが、今では中国と日本くらいになってしまった。それはひどく頭の悪いめいわく文字なのである。


おや、漢字制限論のかたでしたか。おっと「まえがき」に日本ローマ字会の大会に参加した話が書いてありましたね。それにしても漢字が「知識を見せびらかせて」「いい気持ちになり」「知らない人との差をつけ」るための文字だとは存じませんでした。てっきり昔の中国人が各種情報を記録するために作ったものだとばかり。

この人、漢字を「サベツ文字」と決めつけてはばからないのですけど、上のような文章こそ漢字に対する「サベツ」のような。

同じ著者の『ことばのエコロジー』(ちくま学術文庫)には、外国人が成人してから日本語を習得するために漢字を覚えるのにはとてつもない努力を要するから漢字は「サベツ文字」だというような話が書いてあるのですが、たとえ使う文字の数が少ないといっても、成人した日本人が英語を習得するのにアルファベットの無数の組み合わせとその意味を覚えるのだって似たようなものだと考えるのは、単に私が英語が苦手だからなのでしょうか。

おまけに漢字なら見た目だけであるていど意味が推定できるのに(たまにこれが弱点にもなるけど)アルファベットだとちゃんと全部読まないといけないうえ、文字にメリハリがないので読みにくい、などの不便もあるような気が(繰り返しますけど私が英語苦手のせいかもしれない)。

どっちにしても成人するまでずっとその文字を使ってきたならそれは習慣の問題と思えるのですが。

 ことばは誰でも話せるという点で人は対等であるが、それを書く段になると、決定的なサベツが生じる。オト文字であれば、五十音図のようにオトの数だけおぼえていれば、すべての用が足りるのに、イミ文字になると何万も必要となり、それだけの字を使いこなせるようになるのは、働かなくてもいい人間だけである。文字の知識はことばの能力とほとんど関係がない。(略)(スイセン状の)センが書けるようになれば、それだけ思想が深くなり、人格も高潔になるとは思えない。


なるほど、そういうお考えだから「女」という漢字がひざまづく姿をかたどったものだとご存じでありながら「(私はよりわかりやすく、これはオンナが両手で前をかくしているところだともっともらしく外国人に教えてきた。そしてこの説明は、かれらを心からなっとくさせたものだから、ついには私の信念にもなってしまった。)」などと他人に平気で嘘を教えることができるんですね。でも、大学でものを教える立場の方がそれではまずいのでは。

あと、実際問題として今の日本語はかなりの割合で漢字で意味を補わないと使い物にならなくなってしまってるんですけど、そのあたりはいかがいたしましょう。

 このようなわけで、漢字語の多用は、ことばの民主主義に反する度合いがより高く、ことばの使用に関するサベツを助長するおそれがある。


「明日十時に弊社受付におうかがいください」とか「その件は当方ではわかりかねません」といった漢字を使わない表現だって知識のあるなしで十分「サベツ」を助長するような。

 二十いくつか知っていれば何でも書けるアルファベート文字が、ヨーロッパに科学と民主主義を育て、人間を解放する上で、どれだけのはたらきをしたかは、いくら強調してもしすぎることはない。


そして、その二十いくつかのアルファベート文字をつかう文明・文化はヨーロッパやアメリカで、ユダヤ人の虐殺を生み、ボスニアに内戦を起こし、二つの世界大戦も勃発させ、原水爆やそのほかの兵器を発達させ、人種差別や最近では中東との関係もぎくしゃくさせてもいるんですけどね。このあたりは強調しちゃいけないのかな。

もうこのあたりでかなり最初とは違った読み方になってきてまして、たとえばこういうのを拾ったり。

 同様の例に、「バカチョン」カメラの「バカチョン」がある。私を含め、きわめて多くの人が「バカ」(略。相手をののしるのではなく単に知識がないことを表す「バカ」である、という説明)でもチョンと押せば写るカメラというふうに理解しているにちがいない。


バカチョンカメラがそういう表現の略だという説は初めてです。小学生か中学生のころなのでひょっとすると記憶違いかもしれませんが、漫画「サザエさん」に「おーい、バカでもチョンでも写せるカメラ、持ってこい」というせりふが出てきてて、これがきっかけかどうかはわからないもののたしかこのあとぐらいに「バカチョンカメラ」という呼び方が浸透したはず(単行本に収録されたかどうかは不明)。

で、このあたりはもう惰性だったような。

 私はラジオで料理番組を聞いていて、料理の先生が、「あさりは水から煮るとおいしくいただけます」というのを聞いて、何というひどい感性の持ち主だろうと思う。私自身は必ず、これ以上は沸騰しないというところまで湯が沸き立つのを待って貝を投じ、一気にふたが開くよう心がけている。この料理法は味において劣るかもしれないが、貝へのささやかな感謝の気持ちであり、それによって私は豊かな気持ちになれるのである。


それで豊かな気持ちになれるならこちらから申し上げることはなにもないのですが、そんなに神経を使うならいっそ何もお召し上がりにならないほうが精神衛生上よろしいのでは、とつい思ってしまうのはよけいなお世話でしょうか。

ほかの生き物を食べなきゃ生命を維持できない罪深い存在でありながら、苦しませたからどうの、苦しませなかったらどうのという考えそのものが傲慢という気がしてなりません。それに、こういう人であっても植物に対してはこれほど気を遣わないような(中には植物にも気を遣って、鳥や動物に食べさせて種を別の場所に運んでもらうための、つまり最初から食べさせる目的で作った果実しか口にしない人もいるそうです)。生命を奪ったり切り刻んだりという点では大して違わないと思うのですが。まあそういう自己満足で救われたような気になるならそれはそれでけっこうなんですけど、ここまで行くともう宗教の範疇なのかなあ。

癒しの頭も信心から、とかいってみる練習。

あと、こういうのも。

(略)「テオチ」は「テチガイ」と同類の語であって、まず「テオチ」がある。それに「カタスミ」「カタコト」の「カタ」がついて、「カタ・テオチ」となったと考える。すると、その本来の意味は「完結しない、中途はんぱ」な「しくじり」というような意味になろう。
 このように考えて、私はモヤモヤから解放され、はじめて、「カタテオチ」の意味が、しっくりしたものとして感じられるようになったのである。


「片手落ち」は読んで字のごとく片方の扱いにだけ手落ち(やり方や裁定などの不備・不足・欠陥)があること。けっして片手のない人をからかったものではありません。たとえば『忠臣蔵』では、武士同士はけんか両成敗のはずなのに吉良上野介には何のとがめもなくて浅野内匠頭だけが切腹を申しつけられた「片手落ちの裁き」に異を申し立てるあたりが赤穂浪士たちの大儀と解釈されています。

それなのにこの著者、「テオチ」を「テチガイ」「しくじり」と考えるのはともかく、このちょっと前に「片」というのは本来両方そろっているべきものの片方の意とまで書いておきながら、わざわざいろいろなことばから「片」には「中途はんぱな」とか「完結しない」の意味があると遠回りしたあげく「中途はんぱな」解釈をしています。

こんな語釈を読まされたのではこっちのほうがモヤモヤしてしまう。

サベツ語糾弾運動とは、ことばのよし悪しを決める権利を非エリートが、言語エリートから、部分的にでも奪取しようという動きだったのである。


なんてことが最初の方に書いてあって、すごく期待して読んだんですけどね。


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庵主:matsumu@mars.dti.ne.jp